第2話 2皿目

 女子がめり込ませた手を引き抜いた。

 どろっとした灰色の液体まみれにも関わらず、女子はそれを気にする様子はまったく無かった。

 そして何かを探す様、目を床に向けて動かし始めた。

 その目が止まる。

 灰色の液体にまみれた手がそっと伸び、床に転がるピーナッツチョコを摘まんだ。

 そして目線に持ち上げると様々な角度で眺め始めた。

「むっ!」

 その顔が犯人の正体に気付いた探偵の様な表情に変わった。

「今気付いた! もしやこれはチョコレートというものではないのか?」

 尻もちをついたまま道矢は動けなかった。

 変種に襲われそうになった事、その変種を片手で倒した目の前にいる女子の事が信じられなかった。

「これはチョコレートというものだろう。そうに違いないだろう」

 目を輝かせる女子が鼻息荒く、摘まんだピーナッツチョコを道矢へ突き出した。

 この人、何を言ってるんだ?

 あまりにも突拍子もない出来事の連続に、道矢の脳が何かを客観視する事を求めていた。

 その指示に従い、道矢の目が女子の口に向けられる。

 これは……そうだな、頑固で侮れない性格の口、かな。

「チョコレートだろう、と訊いているのだ人間」

 いつの間にか眉間に皺を寄せている女子に慌てて頷く。

「やはり! これがチョコレートか! なんと美味しいのだ、このチョコレートというものは」

 ダイヤをひけらかす様ピーナッツチョコを掲げる姿に道矢は口の端が引きつった。

「ついでといっては何だが……チョコレートと一緒になっているこのコリコリとした食感の物は何というのだ?」

 そう言って神妙な顔を向ける女子に今度は疑問が浮かび上がった。

 自分と同じ学園の制服を着ている事から年齢は一つ上か下、もしくは同年齢のはず。

 それなのに未開の地からでも来た様なこの質問。

 そういえばこちらの事を人間呼ばわりしていた。

 まるで自分は人間じゃないかのように、この女子は一体何者なのか?

 またも即答しない道矢に女子の目からみるみる輝きが消え、代わりに苛立ちの色が浮かぶ。

「このコリコリしたのは何という! 早く教えるのだ!」

 語気を強めて言い放つ。

 途端に道矢の全身の毛が逆立ち、浮かび上がった疑問は一瞬で吹き飛んでしまった。

 目の前の女子は、自分のクラスの女子達と比べ背は中間より下、体格も華奢な方に見える。

 だが鋭い目で睨み、ピーナッツチョコを摘まんだ指先をこちらへ向けるその姿からは、本能に訴えかけてくる強い恐怖を感じる。

「ピ……ピーナッツ……」

 冷や汗をかきながら答える道矢。

 再び目に輝きを取り戻した女子がピーナッツチョコを鼻に近づけ、

「コリコリの食感に香ばしい香り、これがピーナッツというのか……ふむ、チョコレートと組み合わせると互いを引き立てる……素晴らしい!」

 自分に言い聞かせるよう呟く。

 そして母親にお伺いを立てる子供の様に小さな声でこう言った。

「この……ピーナッツチョコレートを食べていいか?」

 変種を腕一本で倒した恐ろしい姿とは似ても似つかない可愛らしい仕草に道矢の恐怖心が薄れた。

「ど、どうぞ好きなだけ」

 女子の目が喜びで満ち溢れる。

 そして高価なものでも食べる様ゆっくりピーナッツチョコを口に入れた。

 もぐもぐと口を動かし、美味しくて堪らないといった風に握り締めた両手を上下に振る。

 そんな彼女の口元を食い入るよう見詰め、道矢はこう思った。

 何て美しい口なんだ、しかも歯が輝く程白い。

 道矢は口フェチだった。

 口の形や色は勿論、美味なるものを食べた時に見せる口の表情に身震いする程魅力を感じるのであった。

 床から拾い上げたピーナッツチョコを次々放り込む口に目が釘付けとなり、徐々に動悸が、息遣いが早くなる。

 残った最後のピーナッツチョコに手を伸ばした女子の動きがピタリと止まった。

 鋭い目が素早く廊下へ繋がる戸に向く。

 それを自分に向けられたものと勘違いした道矢が慌てて伸ばした鼻の下を引っ込めた。

 ガラリと戸が開く音がキッチンに響く。

 慌てて振り向いた道矢の目に映ったのは、気だるい顔で腹を掻くショートツインテールの女子だった。

「腹減ったぞ~」

「み、巳茅(みち)……」

「何てカッコしてんのよ、お兄ちゃん」

 巳茅と呼ばれた女子が呆れた顔になる。

「ん? お兄ちゃん、それ……」

 制服のスカートをなびかせた巳茅が豹の様な素早さで道矢の側に移動する。

 そして彼の襟首を掴むと廊下へ滑らせるよう放り投げた。

 右手が腰のホルスターから対土魚専用銃であるEEガンを抜くと、床の上に横たわる変種に向けてずトリガーを引いた。

 土魚の神経を麻痺する液体が詰まったカートリッジを発射するボシュッというガス音が立て続けに三度鳴り、変種の頭部に音の数と同じ穴が出来た。

 巳茅が銃口を上に向けたEEガンを胸元に寄せる。

「変種? ホントに変種土魚!? くっ!」

 再び銃口を変種に向けるとトリガーを引いた。

 牙の並んだ口を半開きに横たわる変種土魚、その頭部に灰色の飛沫を上げ次々と穴が開いてゆく。

「ふ~っ! ふ~!、にゃろ~!」

 EEガンから空になったマガジンを引きだし、銃弾の詰まった別のマガジンを刺し込む。

「おいおい、よせ! ありゃもう死んでるって!」

 道矢の声にも血走った目は変種土魚に向いて動かない。

「変種土魚は初めてなんだよ~! この弾が効くかわかんねーんだ、もっと撃ち込む!」

 巳茅がドスの利いた声で言いながらEEガンを再び変種へ向ける。

「やめろって! 無駄に撃っちゃいけない、ってハンター規則にあったろ!? 死んでるよそいつ」

 それに無言の巳茅がEEガンを構えたまま動かない。

 妹は、巳茅は、普段ちゃらんぽらんで適当なクセに、土魚狩りとなると人が変わる。

 何故なら父と母が土魚の餌食になったから。

 その事実を知らされた時の巳茅の顔は今でも忘れられない。

 声を押し殺し俯いて涙を流す巳茅、心配で覗き込んだ顔には悲しみと憎悪に歪む口、世界中の恨みを凝縮したような目があった。

「ふ~」

 長いため息を吐くとEEガンを下ろした。

 変種土魚の活動停止をやっと認めた様だった。

「お兄ちゃん、それ違う。ハンターたるもの無駄に弾を消費させてはいけない、だよ~」

 言いながらくるりと道矢に振り向く。

 そしてEEガンを手の平でクルクル回転させ空中に放ると、落下軌道に合わせ器用に腰のホルスターに収めた。

「しっかし、あの変種土魚……私が来た時もうあの状態だったんじゃない?」

 腕を組んで変種の方へ顎をやる。

「まさか……お兄ちゃんがやったの?」

 両手を口に当てながら信じられないと言った風に顔を左右に振る。

「な訳あるか、俺じゃなく……」

 ようやく冷静さを取り戻した道矢はゆっくり立ち上がると、片手で変種を絶命させた女子の姿を探す。

「俺じゃなく何よ?」

 キョロキョロ辺りを見回す兄につられ、巳茅も室内を見渡す。

「あれえ?」

 素っ頓狂な声を上げ、道矢は頭に両手を乗せた。

 あの女子がどうやってこの部屋から姿を消したかわからなかった。

 ここは三階、窓からは無理。人一人身を隠せる様なロッカーやらも室内には無い。

 となると廊下へ出るしか無い訳だが、自分の側を通らず廊下へは行け無い。

 だがしかし、間違いなく自分の側をあの子は通っていない……

 理解出来ない事態に髪をもみくしゃにする。

「いま小山先生呼んだ。変種土魚言ったらマジおかしな声上げてたよ。あ~、腹減った」

 巳茅が大皿に盛られたモヤシ炒めの横を通り過ぎ、棚に山積みされてあるカップラーメンを手に取る。

 頭に両手を載せながら変種を見る道矢の耳に、ポッドからお湯を注ぐ音が響いた。

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