第50話 カウントダウン:ゼロ①

 前島歩はひとりで山道を登る。

 登り始めてからどれほど時間が経っただろうか。

 病院を出た頃には中天にあった日は落ちて星明りに照らされている。

 始めは好調だった。このペースなら山頂に到着してから暇を持て余してしまうと心配する余裕すらあった。


 三分の一ほど進んだところで余裕は完全に消えた。

 リハビリで歩いていたのは病院の中。舗装された道よりなおまっさらな平面だった。

 山道は斜面になっている。かつては硬く踏み固められた土も手入れがされずでこぼこになり、大きな石が転がっている。

 普段よりはるかに歩きづらい道に歩は疲弊した。一度、木に寄りかかって眠ってしまったほどだ。

 いつしか日は沈み、足元を見ることすらおぼつかなくなった。光が届くだけましだが、日中に比べれば格段に歩きづらくなっている。


「はあ、ぁっ」


 全身の体力を絞り出すつもりで一歩進む。

 山頂まであとどれくらいだろうか。三分の二くらい来ただろうか。まだ半分も歩いていないだろうか。

 遠い。果てしなく遠い。

 涙が出そうになってくる。

 ぎゅっと目をつぶり、こらえる。

 そうすると視界の端に何かの影が映る。


『もう歩けない』


 過去の自分の姿。整備された山道を歩きながら、もう嫌だと駄々をこねる十年前の自分。

 殴り倒してやりたくなる。

 何が歩けないだ。歩きたくないの間違いだろう。まだ走る元気がある。他の誰でもない自分だからこそ嘘だと分かる。


『もうちょっとだ。歩いていればすぐにつく』


 父の声がする。幼い歩に手を差し伸べている。


『ほら、歩。一緒に行きましょう』


 母の声がする。優しく微笑みながら母も幼い歩に手を伸ばす。


 ぎり、と歯を食いしばる。

 幻覚だ。都合のいい夢を見ているだけだ。

 過去にはこんなこともあった。

 けれど今は跡形もなく砕け散ったものだ。


 三か月前の時点で両親は病室に顔を出さなくなった。

 世間体なんてかまう必要もないと判断したのだろう。

 ただごとではないほど腹が立った。

 見舞いに来なくなったこと自体は構わない。歩自身、空虚な会話をすることに苦痛を感じていた。

 許せないのは両親と過ごすことを苦痛に感じたくせに、こうして都合のいい幻を見ている自分のこと。

 筋力が衰えていなければ奥歯が砕けるほど力がこもる。その苛立ちを力に変えて一歩、前に進む。


「……………………」


 もうぜいはあとあえぐ余裕すらなくなった。ひたすら無言で、荒く息をしながら前に進む。

 時に木に寄りかかりながら。時に小百合が買ってきてくれた杖に体重を預けながら。

 ずるり、と足元の土が滑り、歩は転んだ。うつぶせに倒れる。

 もう何度目だろう。転ぶのは慣れているが土まみれになるのは久しぶりだ。

 立ち上がるために上体を起こそうとする。

 両腕に力を込める。ほんの少し上体が浮いたところで力が抜けて地面に倒れ伏した。


 体に力が入らなくなっていた。

 心臓は今にも破裂しそうなほど脈打ち、手足は引きちぎれそうなほどの痛みを訴える。

 ここまでなのか。

 ずっとリハビリしてきた。この一年、身が入らない期間はあってもずっとあがいてきたつもりだ。

 それは全部無駄で、十年前の自分が軽やかに通り過ぎた道を歩ききることもできないのか。


「ぅ……あっ」


 涙がこぼれる。

 だって仕方ないじゃないか。

 僕がいったい何をした?

 まともに歩くことすら許されないほどの罪を犯したのか。

 両親に見捨てられて、最期は泥の中で這いつくばらなきゃいけないほど悪いことをしたのか。

 どんなに頑張っても、たったひとつのことを成し遂げることすら許されないのか。

 あんまりじゃないか。


 歩は自分の力で何かを成し遂げたことがない。

 病気にかかる前はどこにでもいる普通の子供だった。何か成し遂げるなんて考えもしなかった。

 病気にかかってから自分の力で何かしようと思えない体になった。

 努力することすら誰かの手を借りないといけない。それどころか生きることすら他人頼りだった。

 それでも歩は夢を見出した。

 両親と一緒に思い出の山に登ることだ。

 世界が終わるならその前に、両親と一緒に思い出の風景を見たい。

 息子はこんなんでも頑張って生きてるぞ、と言いたかった。

 かなわない夢だ。かつてのお互いを愛し、健治を見守ってくれた両親はどこにもいない。

 いるのは互いを罵り、歩を邪魔にする男女だ。

 今となっては二人の居場所すら分からない。

 両親の喧嘩を聞いて全てどうでもよくなった。

 誰にも愛されず、求められず、何をしたって意味がないと思ったからだ。何かを成し遂げるなんて考えは砕け散った。


 小百合に連れていかれた学園祭で実行委員長と出会った。

 世界が終わると知って、自分がやりたいことを見つけ、精いっぱいやった人。

 つらいことがあっても成し遂げ「最っ高」と笑った。

 健治の目に、その笑顔は何よりも美しく映った。

 こんなふうになりたいとあこがれた。


 両親とともに思い出の山を登る。

 もはやかなわない夢。

 けれど、かなわなくなったのは半分だ。

 両親とともに歩くことはできなくても、山に登ることはできる。

 できるはずだ。やりたい。そしてやり遂げたぞ、と胸を張って叫んでやりたい。

 何かひとつでもやり遂げれば、実行委員長のように心からの笑顔で最期を迎えることができる。

 そう思った。

 だから学園祭以降はこれまで以上にリハビリに打ち込んだ。

 ぎろぎろに痩せても構わない。血反吐を吐いたってどうでもいい。寿命を縮めるなんて知ったことじゃない。どうせあと一年もせず世界が終わるのだから。


 たったひとつの目的以外のすべてを端に寄せて、山頂にたどり着くことだけを考えて行動してきた。

 その結果がこれだ。山の中腹で泥にまみれて倒れている。

 泣けてくる。自分の努力はこれほど無意味で、自分の夢がどれほど無謀で、自分という人間がどれほど無価値なのか思い知らされる。


 きっともう歩くことはできない。このままここに倒れて死ぬのだろう。

 せめて地面ではなく空を見上げていたい。泥まみれで泥を見ながら死ぬのは嫌だ。

 最後の力を振り絞って体をひっくり返す。

 なんとか仰向けになれたが、両手足はもう感覚がなくなって痛いかどうかも分からない。心臓は相変わらずうるさく鳴っている。


 見上げた空は嫌味なほどの晴天。

 無数の星が光り輝き、視界の真ん中には地球を滅ぼす隕石が居座っている。

 きっと今日でなければ星空の美しさに心を打たれていただろう。

 今日に限っては、あの星のひとつひとつが自分を嘲笑っているのではないかと思ってしまう。

 ――それもないか。こんな僕のことは誰も見ない。

 一人では何もできない虚弱さで、何一つ成し遂げられないほど弱い。

 こんな人間が主人公の物語はさぞ退屈だろう。ひっそり始まり誰にも見向きされないで終わる。


 全身から力が抜ける。意識がもうろうとしてきた。

 きっともう体力は欠片も残っていない。ここで失神したように眠れば、これ以上苦しむ間もなく世界が終わる。

 気力も萎え、目を開けていることすら億劫で、歩が目を閉じようとした。

 その瞬間だった。






 隕石が爆発した。






 ちかちかと何かが光った瞬間、隕石の表面が真っ赤な光に包まれた。

 しかし隕石はまだ形を留めている。気持ち、輪郭が細くなった気はするが、まだまだ地球を滅ぼして余りある大きさのまま。

 何が起きているのか分からない。歩が目を見開いていると、しばらくあとにまたチカチカと隕石の周りで何かが光った気がした。

 隕石は白く光っている。その周りで何か光っても見えるはずがない。

 そんな考えは頭の片隅にも残っていなかった。


「ああ、ああ」


 涙があふれる。叫びだしたい衝動に駆られる。

 全身を熱が走る。まるで火山が噴火したような、自分でもどこにあったか分からないエネルギーが暴れまわる。

 歩は再び体をうつぶせにし、上体を起こした。杖に体重をかけて立ち上がった。

 心臓は相変わらずバクバク破裂しそうなほど騒いでいる。

 力を込めたせいか、再び両手足も引きちぎれそうな痛みを訴えてきた。


 ――うるさい黙れ。


 心臓が破裂? できるもんならやってみろ。お前にそんな力がないことくらい分かってるんだ。どうせなら本当に破裂するくらいの力を見せてみろ。大歓迎だ。

 手足が引きちぎれる? 誰が引きちぎるんだ。ここには誰もいない。自分でちぎるのか。できないだろそんなこと。そんな力があるなら前に進め。そのあとだったらいくらちぎれても構わないから。

 体力が尽きた? 馬鹿言うな。本当に尽きたならもう動けないなんて考えることもできないはずだ。自分の人生なんなんだとか考えるやつの体力は有り余ってるっていうんだ。


「ああああああっ!」


 駆ける。

 歩かない。そんな暇はない。

 むき出しになった木の根に足を引っかける。

 転ばない。つんのめっても転ぶより先に足を前に出して進む。

 うまく足が動かなくなって倒れそうになる。

 木に向かって倒れ掛かる。木にぶつかれば跳ね返される。両手でぶつかりにいって、ぶつかった拍子に力を入れて体を起き上がらせる。

 転ばない。倒れない。そんなことしていられない。


 不細工な走りだった。

 よろめいて、さわがしくて、たよりない。

 足元を確かめることもせずに、ただただ前を見て。

 ただ、まっすぐに走った。

 いつかの歩が両親に手を引かれて歩いた道を、両親をせかして歩いた道を、そんなことを思い出しもせずに走った。


 山頂にたどり着く。

 思い出に浸ることもせず、歩はかつて自分が住む街を見下ろした展望台に駆け込んだ。

 倒れ込むように展望台の柵に身を預ける。

 そして空を見上げる。

 光がいくつも瞬き、隕石は赤く燃えていた。


「がんっ、ばれええええぇぇぇぇ!!!」


 叫んだ。これまでの人生で一番の大声を出した。

 隕石が爆発した瞬間に分かった。

 あそこで誰かが戦っている。

 世界中のみんながもう駄目だと諦めた中で、終わってたまるかと立ち向かっている。


「まっけんなあぁぁああぁぁ!!!」


 きっとどれほど応援したって届かない。

 そんなこと分かっている。

 それでも少しでも近くで応援したかった。


 だって諦められない。

 死にたくない。

 なんにもできないまま、やりたいことだけ抱えて死ぬなんてまっぴらだ。

 早く世界が終わればいいなんていじけて言っていただけだ。

 本当は世界が滅びるなんて嫌だ。死にたくなんかない。


 だから応援する。

 頑張れ。

 負けるな。

 これからあなたの成果にタダ乗りする僕からせめて言葉だけでも送らせてほしい。

 なんて、殊勝なことは考えていない。

 ただ黙っていられなかっただけだ。

 打算も理屈もなく、そうしたいと思った。

 だから歩は叫んだ。


 何度でも何度でも。

 声が枯れるまで。

 声が枯れても。

 叫び続けた。

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