第45話

「よし」


 昼下がりの病室で、前島歩は小百合にもらった装備を身に着けて立ち上がった。

 誰より入院歴が長い歩のことは、病院にいるほぼ全ての人が知っている。誰かに見つかれば病室に連れ戻されるだろうが、今は気にする必要もない。

 いまだに入院しているのは症状が重く、誰も迎えに来てくれる人がいなかった患者だけ。入院している患者の中では歩が一番元気なので、見つかっても力ずくで病室に連れ戻されることはない。医師と看護師は大多数が辞めたため見つかる確率が低い。昼食の片づけルートを把握している歩にしてみれば看護師たちの目をかいくぐるくらいなんてことない。

 どこかで行倒れていると心配をかけないように『退院します。今までありがとうございました』と書置きを残した。長かった入院生活もこれにて卒業である。まっとうな卒業ではなく自主退院なことが残念だが、今さらどうしようもない。


 ナースステーションに視線を向けると誰もいない。ずいぶん前に設置した太陽光発電パネルのおかげでエレベーターはいまだに動いているが、待っている間に鉢合わせする確率が高いので階段を歩く。

 病棟を下りている最中、ちらりと男性看護師の姿を見かけた時には肝が冷えた。女性看護師に片っ端から手を出した抜け目なさの持ち主だが、男に対する観察眼はザルらしく歩に気付くことなく過ぎ去った。

 あの人が今も務めていることが不思議で仕方なかったが、今は病院を抜け出すことが優先である。

 かつては賑わっていたエントランスも今はがらんとしている。救急以外の外来受付が停止した今、見晴らしがよいエントランスを通って正面玄関から出るのが一番人目に付きづらい。なにせ受付に誰もいない。

 あっけないほど簡単に歩は病院の外に出た。

 車椅子で外に出たことは何度もある。訓練がてら出たこともある。

 しかし一人で、自分の足で、となるともう何年ぶりになるか分からない。


「歩くん、どこへ行くんだい」


 第一関門クリア、と胸を撫でおろした瞬間、真横から声をかけられた。聞き慣れた声に息が詰まり、心臓が止まりそうになった。

 油が切れた機械人形のようなぎこちなさで振り返ると、そこには鈴片真治がいた。

 珍しく看護師の制服ではなく私服姿で、呆れたような表情でこちらを見ていた。

 なんとか言い逃れしようとあーうーうなる歩に真治はゆっくりと近付いてきた。


「心配しなくても咎めるつもりはないよ」

「……へ?」

「どこか行くなら送っていこうかってだけ。病室に連れ戻したりしないから安心して」


 真治が指差した先には一台の軽自動車が停まっている。

 本当に送ってくれるつもりらしい。そもそも真治がそのつもりなら歩くらい片腕でどこにでも担いでいくことができる。疑う必要もなかった。

 とはいえ、どうして協力してくれようとするのか分からなかった。真治は歩に同情的かつ協力的だったが、それでも看護師としての立場を忘れることはなかった。歩が無茶なトレーニングをしようとすれば力ずくでも止めるのが真治だった。

 歩の体力で、一人で出かければどうなるか火を見るよりも明らかなのに、なぜ車を出してまで協力してくれるのか。

 歩の考えを見透かしたように真治は口を開いた。


「看護師は昨日で辞めたんだ」


 意外な言葉だった。

 真治は世界が終わる瞬間まで看護師でいるものだと思っていた。

 患者からの感謝の言葉がなによりの報酬だと言っていた。その言葉が嘘や冗談でないことは知っている。今日はいくらでも報酬がもらえる一日だろう。

 今日まで勤めて、この土壇場で辞めてしまうのは画竜点睛を欠くのではないだろうか。


「本当は辞めるつもりなかったんだけどね。でも、自分が蒔いた種はどうにかして始末しないといけない」

「じゃあ、これから」

「うん。ウチに帰ることにした。同僚にはすごい顔されたけどね。最終的にはさっさと行ってこいって提出した辞表を投げつけられたよ」


 投げつけたのは先ほど見かけた男性看護師だろうな、と思った。


―――


「送る代わりにと言ったらなんだけど、話を聞いてくれないかな」

「いいですよ」


 歩の目的地へと走る社内で、真治は言いづらそうに切り出した。

 真治は走り始めてからずっと何か言いたげだった。歩は沈黙を苦にしないが、何か言いたそうで言わない人が隣にいれば奥歯に物が挟まったような気分になる。

 いいと言っても何から話すかまとまっていないのか、話し始めるまでいくらか間が開いた。改めて十五歳に相談めいた、愚痴めいたことを言う情けなさを感じたのかもしれない。


「ようやく弟に会う覚悟が決まったんだけどさ、歩くんならどう思う? 連絡とろうとしても無視してた兄貴が、世界が終わる瀬戸際に会いに来たらさ」

「嬉しいと思いますよ」

「今さらなにを、とか、他の人…恋人と会うのに忙しいとか思われるんじゃないかな。最近は健治から連絡が来ることもなかったし」

「連絡しなくなった理由は健治さんの口から聞いてますよね」


 歩の視線はじっとりと湿り気を帯びたものになった。運転をしながらも感じとったのか真治の背中に嫌な汗がにじむ。

 以前、健治が歩の病室に来た。真治は健治と歩の会話を隠れて聞いていた。

 健治は、真治が自分に合わないことにも理由があると言っていた。だから自分の都合を押し付けるようなことはもうしないとも言っていた。

 要するに、連絡をしないのは真治を慮ってのことだ。健治から連絡がないことを会わない理由にするのは間違っているだろう。

 真治も心からそう思っているわけではない。言い訳をやめると歩は目を逸らしてくれた。


「とりあえず、家にはノックしてから入った方がいいと思います。彼女さん連れ込んでるところに真治さんが乱入したらさすがに怒られるかもしれません」

「……気を付けるよ。いつの間にそんな生々しいことを言うようになったんだ。ていうかあいつに彼女いるって知ってるんだ」

「ID交換してたまに連絡してたので」

「いつのまに……」

「暇な時には通話することもあったので近況もそれなりに。真治さんに遠慮してるのか病院まで来たのはあれきりですけど」

「仲いいね君ら」

「そりゃもう。健治さんいい人ですし、僕はヒマ人ですし」


 真治に対してやや辛辣なのは健治と付き合いが生まれたからでもある。

 歩が話した限り、健治は温厚で優しい人だ。やや優柔不断で自分に自信がないところはあっても、友人付き合いに支障となるほどではない。

 最初は歩からメッセを送るばっかりだったが、『外の風景が見てみたいので、写真があったら見せてください』と伝えたらたくさんの写真が届くようになった。

 外出が難しい歩に写真を見せびらかすのは気が引けた、と後で聞いた。気にする必要はないと分かってからは気の置けない付き合いとなっている。


「だから、余計なこと考えてないで早く会いに行けばいいと思います」

「余計って、ずいぶん遠慮がなくなったな」

「真治さんとは長い付き合いですから。これまではお世話してくれる看護師さんと思って接してましたけど、今はもう違うんでしょう?」

「ごもっとも。一個人としての付き合いで遠慮されても困るもんな。なんなら敬語もやめてくれていいんだぜ。正直、もう歩くんに年上だからって偉そうに振る舞えないし」

「それは遠慮します。敬語で話すのは染みついちゃってるんで、今さら砕けた話し方をする方が疲れそうです。それはそうと、早く健治さんに会いに行った方がいいですよ。真治さんは考える時間があるとマイナス思考して行動できなくなるタイプでしょう」

「ほんっとに遠慮がなくなったな君は。……この間、友人にも言われたんだが、そんなにグダるように見えるかね俺は」

「見えます。行動を始めれば早いけど、選択肢があるうちはどっちがいいのかって悩んで選択の余地がなくなってからようやく行動していそうです。そんなところは健治さんと似てる気がします」

「……そうかい」


 返す言葉もなく真治はちょっと泣きそうになった。

 思い当たる節は山ほどある。健治に会いに行こうかグズグズ悩んでいたのは言い訳のしようもない事実だし、通販でどっちがいいか悩んでいるうちに片方が売り切れて残った方を買うことも珍しくない。

 一方でこれと決めたら柔軟性がないほど一直線だ。母親が出て行ったのだから慌てて家を出て行く必要もなかった。弟が自分にべったりにならないよう、という考えもあったが、家にいながらでも適度な距離感を保つことはできただろう。看護師の仕事にしても、もっと勤務時間を減らして自分の趣味を探したってよかったのだ。

 弟とはずいぶん長く会っていない。それなのに似ていると言われたのは少し意外だった。そういう遺伝なのだろうか。


「ところで、真治さんにも友達がいたんですね」

「どいつもこいつも俺に友達いない認定してるのなんなの」

「四六時中病院にいて、それでも友人関係を維持するってなかなかの神業だと思うんですけど。僕だって松葉さん以外の同級生とのやり取りは一切ないですよ」

「くそ、反論しづらいことを。……まあ、一人な。変わり者だけど」

「どんな人なんですか」

「ひとことで表すなら真性のぼっちだな。自らの意思で他人との関りをぶった切ったやつだ。なんなら向こうが俺を友達認定しているのか疑問に思うことがある」

「すごい人ですね。でも、そんな人と話せるんですか? 人と関わるのをやめたなら連絡しても無視されそうですけど」

「本人曰く、気が向いたらしい。基本的に連絡は無視……じゃないな。そもそも連絡付かないようにしているらしいけど、人と話していい気分の時もあるんだと。もともと人嫌いで引きこもったんじゃなくて、一人が好きすぎて引きこもったやつだからな」


 家族のことを考えるうちに学生時代のことを思い出すようになった。

 友人は学生時代から浮世離れした人物だった。

 成績は極端。出来る教科は満点、興味がない強化は赤点をぎりぎり回避する程度。分からないのではなく回答するのが面倒くさいという理由で、赤点にならない程度に回答したら白紙で出すという奇行をしていた。

 人間関係は良好で、クラスの中心でこそなかったが、良い位置に馴染んでいた。

 それが高校卒業を機に一人暮らしを始め、人間関係を切断したのだから周囲は驚いたものである。世界が終わると宣告される前なのに、宣告後のような思いきりの良さだった。

 友人は地元にいた。わざわざ引っ越ししたとも考えづらい。生きているのか気になって自宅を訪問したら迎え入れられた。

 互いの近況を話しているうちに真治は悩みを見抜かれて「しょーもないこと悩むだけ時間の無駄だよ。さっさと会いに行ったら。答えは出てるんでしょう」と追い出された。


「久しぶりに会った友達にも言われて観念したよ。傍目には結論が出た問題をグルグル悩んでるように見えるのかね」

「事情を聞いて気持ちは分からなくもないって思いましたけど、僕にとってはやっぱり贅沢な悩みです」

「……やっぱりちょっと土下座しようか?」

「車を道端に寄せないでください。家族関係のことだけじゃなくて、会いに行くっていう選択肢があるじゃないですか。自分で決めて、自分で動けるんですから、たまには自分の都合を最優先していいと思います」

「ずっと自分の都合で生きてきたつもりなんだけどな」

「そうかもしれませんね。僕はずっとお世話される側だったから違って見えているのかもしれません。何にしても、明日になったらもう会えなくなるんです。それなら会えるうちに会っちゃえば答えが出てすっきりするんじゃないでしょうか」

「ああ、俺もそう思う」


 いつだってそうだ。うだうだ悩んで回り道をして、結局最後は最初に考えた答えにたどり着く。

 真治が悩むのは最適な答えが分かっている時だ。結論が早く出た時ほど、この答えが本当に正しいのかと悩みだし、結論が出なくなる。

 動くのが遅いせいで使える時間が短くなる。手遅れだったこともある。。

 片付いた時には、次はもっと早く決めようと思うのに、次の機会には忘れている。


 とっくの昔に気付いていた。答えが出たらすぐ行動すればいい。

 大きな障害を想像して尻込みしているうちに障害は大きくなる。ぶつかる時には想定通りの巨大さだ。

 人生最後の障害はまだ越えられる高さだろうか。


「真治さんなら大丈夫ですよ」

「ありがとう」


 車から降りる時、歩は笑っていた。

 少しだけ、目の前の障害が小さく見えた。

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