第39話

 時は少し遡る。

 二月四日、午後五時。世界が終わる三十八時間前。


「ただいまー」


 およそ一年ぶりに兄が帰宅した。


 聞き覚えのある声に自室でアルバムを眺めていた小百合が顔を上げる。

 小百合は秀人が早く帰ってこないかと思っていた。

 健治と咲希の関係は中途半端で、小百合にとって触れがたい状態となっていた。

 さっさと帰ってきて、三人の関係を前に進めて、また家を出てってくれないかな、などと考えていた。

 そう考え始めてから数か月。世界の滅亡が間近に迫ってようやく帰って来た。

 遅い。あまりにも遅い。どうせ帰ってくるならあと十か月くらい早く帰ってこれなかったのだろうか。これならいっそ帰ってこない方がすっきりしていたのに。


 自室のドアを半開きにして耳をすますと兄と両親の会話が聞こえてきた。

 どこに言っていたのか、何をしていたのかと両親が尋ねている。兄は詳しいことは言えないと言っていた。やはり両親とは定期的に連絡を取り合っていたようだ。

 両親も兄もまもなく世界が滅びるとは思えないほど和やかなやり取りをしている。兄が詳細に答えない理由も把握しているようで「そうか」の一言で済ませていた。

 聞き耳を立てて分かったことは多くない。兄が外国へ行っていたこと、そこで勉強や訓練をしていたこと、大変だったと言いつつも不満はないこと程度だ。固有名詞や具体的な期間が省かれており曖昧な内容だった。

 なんだ、とため息をつく。

 小百合が知りたいのは咲希の人間関係にまつわること。秀人が旅に出たという両親の言が嘘であることはずっと前から察していた。秀人が何をしていたのかさほど興味がない。

 直接顔を合わせなくても情報が拾えるのではないか、と考えていたがそううまくはいかなかった。ほしい情報を手に入れるなら自分から会いに行くしかない。

 世界が終わるまであと二日。普通なら帰郷した兄は妹に別れの挨拶くらいするだろう。


「そういえば小百合は元気にしてるか」

「ああ、上にいるよ。呼ぼうか」

「いいや。無理に呼びつけても悪い」


 心を読んだようなタイミングに身が震えた。

 小百合はずっと秀人を邪険にしてきた。たとえまもなく世界が終わるとしても自分を嫌う小百合を呼びつけるようなことはしない。秀人はやると決めたら徹底的に実行する一方で、それ以外のことについては淡白だった。

 さんざん嫌悪しておきながら今さらになって会いに行くのは憚られた。

 あれこれ問い詰めることには抵抗があった。

 秀人のことだ。このあと咲希たちのところに行くはず。この後出かけるタイミングが分かれば儲けもの。自分に許されるのはそれくらいだと考えていた。


「この後はゆっくりできるの?」

「すぐ出る。今日明日明後日は帰ってこない」


 母の質問に、兄は端的に答えた。母も「そう」と端的に返した。

 世界が終わるのは明後日の午前七時頃だという。

 つまり兄はもう家に帰ってこないのだ。

 一年前の小百合なら快哉を上げただろう。さっさと出て行けと思っていたのだから。

 けれど今日、今になるとそれはどうなんだと思ってしまう。

 今でも兄のことは嫌いだ。何一つ小百合の希望に応えてくれない。

 死が間近に迫って、最後くらい美しく締めくくりたいと思ったのかもしれない。

 家族に拒絶されひどく傷ついた歩を見たからかもしれない。

 理不尽な理由で嫌っていたことに対して罪悪感があったからかもしれない。


 居間から、そろそろ出ると兄の声が聞こえた。両親は「気を付けて」とあっさり、秀人が普通に登校するくらいのテンションで返していた。

 小百合は半開きのドアを開け、足早に、足早と悟られないよう音を抑えて階段を駆け下りた。

 一階に着くと、玄関に腰かけた兄が顔をこちらに向けていた。

 二日後に死ぬとは思えないほど穏やかな雰囲気だったが、わずかに目を見開いている。

 浅い付き合いでは気付けないような変化。昔から変わらない驚愕の表情。

 ここ数年まともに顔を見ていなかったことに今さら気付く。表情の特徴は残っていても顔立ちは随分変わっていた。


「………………」

「………………」


 お互い言葉が出てこなかった。

 秀人は嫌われている自覚があり、こうして小百合が現れるとは思っていなかった。

 小百合は飛び出したは良いものの何を言えばいいのか分からなかった。

 聞きたいことはいろいろあったのに吹き飛んでしまった。

 訊くつもりはなかったし、と気を取り直す。薄い腹筋に思いきり力を入れて、息を強く吐いた。


「おかえり」


 ようやく言えたのはたった四文字の言葉。

 秀人の目が大きく見開かれる。初対面でも分かりそうなほどの変化。

 それからふっと顔の力が抜けて頬がゆるんだ。


「ただいま」


 たったこれだけのやりとりさえずっとしていなかった。小百合が拒否していた。


「ああ、なんだ、元気か」


 今度は秀人から声をかけてきた。


「うん、元気」


 それきり言葉が出なかった。十五年間同じ家で育ったきょうだいとは思えないほどのぎこちなさだった。

 互いに距離感を測りかねて行きついたのは時事的な話題。すなわち明後日に迫った世界の終わりについて。


「小百合はこの後予定があるか」

「明日、ちょっと物を届けるくらい」

「そうか。まあ、なんだ。世界が終わるって言われてるけど、実際に終わったわけじゃない。捨て鉢なことはやめとけな」

「分かった」


 兄はやめとけと言った瞬間、失敗したと言いたげな表情になった。説教臭いことを言ってしまったと思ったのかもしれない。

 しばらく前の小百合だったら舌打ちをして背を向けただろう。

 これで最後かと思うと苛立ちも湧かなかった。いつぶりか分からないほど久しぶりに素直な返事をした。


「そっちはどうするの」

「とりあえず咲希の家に顔出して、健治のところに行く。ちょっと話したらすぐに……またヨソへ行く」


 話しているうちに、兄がこれからどうするのか純粋に気になった。

すると兄は小百合が聞きたかったことを言ってくれた。

 小百合は、秀人が咲希たちに会うのか知りたかった。そしてできれば関係に変化を与えてほしかった。

 これまでのままならさが嘘のように、小百合の希望が叶った。


「そろそろ行くわ。じゃあまたな」


 きゅっと靴紐を絞めた兄が立ち上がる。

 小百合は慌てた。兄は「またな」なんて言っているが、これが兄と話す最後の機会だ。

 これまでのことを謝った方がいいのだろう。小百合なりの理由があったとはいえ、兄にとっては理不尽な理由で手ひどく当たっていた。

 最後の別れならもっとそれらしい挨拶とかした方がいいのだろうか。

 言いたいことがまとまらない。

 少し待ってと引き留めようとする気持ちと、そんな権利はないという考えが中途半端に伸ばした右手に空を掴ませる。

 そうこうしている間に兄は玄関のドアを開けていた。

 考えはぐちゃぐちゃなまま。何を言えばいいか分からない。


「―—いってらっしゃい」


 家を出る後ろ姿にそんな言葉が出た。

 数秒前まで頭の中を巡っていた言葉とはまったく違う。ごめんとかさよならとか言おうと考えていた。


「いってきます」


 兄は振り返り、そう言った。

 小百合は十年ぶりに兄の笑顔を見た。


 中途半端に伸びていた手を小さく振る小百合を背に、秀人は家を出た。

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