第10話 兄

 いつも通りのけだるい朝が来た。

 やかましく騒ぐ目覚まし時計を叩くため、鈴片真治は寝床から体を起こす。

 ぐっと伸びをすると腰をはじめ体のあちこちからぱきぽき音がした。

 頭は重く体はだるい。疲れ切って眠った翌日、まだ体力は回復しきっていない。それでも今日も仕事がある。

 念のため複数用意している目覚まし時計を流れ作業ですべて止め、洗面所で顔を洗う。

 鏡を見ると生きているんだか死んでいるんだかよく分からない男の顔が映っている。目の下には隈があり、唇は荒れ口角が落ちている。

 コンシーラーを手に取り、慣れた手つきで隈を隠す。予防もかねて薬用のリップクリームを塗りたくる。頬を軽く叩いて目を覚まし、深呼吸して表情を作る。


「よし、こんなもんだろう」


 鏡にはいかにも好青年といった男が映っていた。

 前日に用意しておいた服に着替え、バランス栄養食を口に放り込み家を出る。

 アパートの階段を下りながらスマートフォンを見ると一件の通知があった。

 数年ぶりに弟からメッセージが入っていた。食事の誘いである。


「…………」


 真治はメッセージを読んでからほんのわずかな間をおいて、スマートフォンの電源を切った。

 自転車にまたがり職場へ向かう。

 いつも通りの朝だ。

 メッセージを送られたところで応えるつもりはない。真治が反応しなければそこから変化が生じることはない。

 いつも通り自転車のペダルを踏んだ。


―――


 鈴片真治は看護師である。四年前に看護学校を卒業してから周辺で一番大きな病院に勤めている。

 世界があと一年で終わると判明した今、看護師の人手が足りていない。

 一年後に死ぬことが確定している状況で働こうという人は多くない。さらに看護師という激務を継続しようという人はことさら少ない。

 数年後に死ぬと明確になり捨て鉢な態度を患者が増えた。もともと病院に来る人はナーバスになっていることが多い。

 患者対応の負担はとどまるところを知らない。それを苦にして看護師が退職・失踪すれば残った看護師が負担することになる。雪だるま式に退職者は増えた。


 それでも、ウチはマシな方だと真治は考えている。

 世界が終わると判明した直後は日本でも相応の混乱が発生した。

パニックと区別がつかないようなデモで怪我人が出たり、どうせ世界が滅ぶならと自暴自棄な行動を取る人がいたり、病院は常に蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 病院関係者は医者も看護師も事務員も関係なく家に帰れないような状況が続いた。新米の真治とて例外ではなく、まともに研修を受ける暇もなく最低限の説明を受けすぐに実践投入された。


 そんなある日、事件が起きた。

 看護師が患者に暴行されたのだ。

 ある入院患者が、看護師の顔色が悪くて辛気臭いという理由で手近にあった花瓶を投げつけた。疲労困憊だった看護師は当たり所が悪かったこともあり気を失ってしまった。患者は看護師が倒れたにも関わらずその場に放置した。

 一時間ほど経ってから事件が発覚し、経緯を患者に尋ねたところ「この程度で気絶するなんて軟弱だ」という言葉が返ってきた。

 これに院長が激怒した。ウチのスタッフを粗雑に扱うやつは患者じゃねえ、失せろ、と入院患者を病院から追い出したのである。

 医療従事者としてあるまじき行動だろう。法律的に問題ないのか、調べる暇もないので調べていないが限りなくアウトな気がする。ぶん殴って胸倉掴んで引きずり回した挙句病院の敷地外へ蹴り飛ばしているので、それ以前の問題と言えなくもない。


 当然、すぐに問題となった。しかし院長の対応は恐ろしく雑にして一貫していた。

『理不尽な馬鹿からスタッフと患者を守るのがおれの仕事だ。病人だろうが怪我人だろうが知るか。おれの病院で暴れる馬鹿は野垂れ死ね』

 と、記者会見で院長は堂々と言い放った。

 記者たちがあっけにとられた隙に、今後も暴力的な態度に出るものを患者とはみなさない、即刻つまみだすと断言して、一度も頭を下げることなく会見を終えた。

 結局、院長は会見から今に至るまでずっとこの病院で院長を務めている。一体どんな手を使えばあの状況で辞職せずに済むのか気になるが、疑問は放置している。

 暴れる馬鹿は患者じゃないと患者を選別し始めた院長に感謝しているし、尊敬もしている。

 尊敬できる上司をいただいており、それが仕事に悪影響を及ぼさない。むしろ馬鹿を切ったことでまともな患者が増えている。ならば追及する必要がないし、する暇もない。そう考えている。


「激務なことに変わりはないけどな」


 そんな雑談をしていると、隣の席の同僚が大きなため息をついた。雑談としつつ二人の手は猛然と動いている。

 患者の様子を見回ったり状態をまとめたり診療の準備をしたりとやることは常に山積み。これはもはや看護師の仕事ではないのでは、と思うようなことまで抱えている。


「その通りだと思うよ。でも愚痴ったところで仕事は減らないし」

「そりゃ確かに正論だけどよ、愚痴らねえとやってられん。アホは減っても患者の問診や補助だってしんどいしよ」

「よし、じゃあ問診は俺が代わるよ。代わりにデータの打ち込みと検査の準備頼む」

「マジかよっしゃ任せろ。そっちの方が得意だわ」


 現状、看護師の人手が足りない上にいつ誰が退職するか分からない。そのため担当する看護師が代わることもしょっちゅうだ。

 真治は患者の応対をする方がいい。同僚はそれ以外が得意。一人で見れる患者には限りがあるので無制限にとはいかないが、それぞれ得意分野で仕事をした方がはかどるというもの。

 さっそく真治の仕事を手元に引き寄せる同僚に「行ってくる」と告げて、真治は入院患者がいる病棟へ向かった。


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