第2話

 


 その頃、裏長屋では、遊び人安吉やすきちの刺殺死体が、湯屋ゆやから戻った内縁の妻、おえんによって発見された。


 岡っ引きの兵治へいじは、下手人げしゅにんとして、隣の住人、太助を引っ張った。


 太助は、安吉にお金を貸していたという、お苑の証言により、借金を返さない安吉に逆上して包丁で刺した、と兵治は見た。


 一方、太助のほうは、


「俺は殺ってませんよ、風邪で寝込んでたんですから。それにお金も貸してません。何かの間違いですよ」


 と、風邪で寝込んでいたことと、お金の貸し借りはなかったことを主張した。


 だが、お苑の証言を鵜呑みにした兵治は、聞く耳を持たなかった。




「……ごめんください」


「あいよっ!」


 外股で奥から出てきたお沙希は、お稲の顔を見た途端、慌てて内股に変えた。


「これはこれは、いらっしゃいませ」


「お金、遅くなって申し訳ございません」


 お稲は深々と頭を下げた。


「あっ、あれね? なんか要らないそうです」


「は?」


 巾着を出したお稲が唖然あぜんとした。


「番頭さんいわく、鍋に杓子しゃくしが付いて十九文だそうです」


「……でも」


「ほんとにほんとに。さあさあ、しまってしまって」


「ありがとうございます」


 お稲が頭を下げた。


「……太助さん、お元気ですか」


「……」


 途端、お稲の顔がくもった。


「どうかしたんですか……」


「……しょっぴかれました」


 お稲はつらそうに下を向いた。


「えっ! どうして?」


 お沙希は、丸い目を更に丸くした。


「……殺しで」


「えーっ! だ、誰を」


 お沙希は、めまいを覚えた。よりによって、好きになった男が人殺しだなんて。この恋は成就できないのかと、一瞬、手にした刃物を首に近づける己れの姿が目に浮かんだ。


「隣に住んでいた安吉という遊び人を」


「……」




 お稲から概要を聞いたお沙希は、早速、安吉とやらの身辺調査を始めた。――


たちの悪い男だったわよ。みんなで言ってたのよ、“触らぬ神にたたりなし”って。ね?」

「そうそう。それより、濡れ衣で太助さんがしょっぴかれて、お稲さんも気の毒よね」


 井戸端で洗濯中の丸髷まるまげ二人は、確かな情報の提供者のようだ。


「……なんで、濡れ衣だと?」


 地味めの小紋で島田に結い、化粧で老け顔にしたお沙希は、太助の親類を装うと、冷静を努めた。


「だって、いい男だもの。私があととお若かったら、もう放っておかないんだけどね」

「あたいだってそうだよ。うっとりするような色男だもん。人殺しの顔じゃないわよ。あんたもそう思うだろ?」


「ええ。で、お苑という女のほうは?」


 お沙希が訊いた途端、二人は目配せすると、


「どれどれ、洗濯もんを干さないと」


 いそいそと腰を上げた。


 ……何かあるな。自分で調べるしかないか。お沙希は外股で番屋に向かった。――




「あ、《無いもの貸し升》のお嬢さんじゃねぇですか。こりゃ、どうも」


「こりゃどーもじゃねぇよ。おう、兵治。太助をしょっぴいたらしいが、確固たる証拠はあんのか?」


「……そりゃ、あるさ。お苑の証言よ」


「その、お苑とやらは内縁の妻らしいじゃねぇか。そんな女の証言は信憑性しんぴょうせいに欠けるんじゃねぇか?」


「……けど」


「けどじゃねぇよ。本人は風邪で寝てたって言ったろ?」


「……なんで知ってんですか?」


「なんでって、太助のおふくろがうちに来て、鍋を借りに来た理由を教えてくれたからよ」


「……の振りをした可能性もあるじゃねぇですか」


「こう見えても、私の目は確かだ。あら~、めんこいわね~って言われてた頃から、いろんな人間を見てきたんだ。太助は人殺しの顔じゃねぇ。私が保証するよ。早く、お縄をほどいてやりな」


「……けど」


「けどじゃねぇよ。太助を家に帰さねぇと、お前さんの秘密を隣近所に言いふらすよ」


「えー? それだけはやめてよっ!」




「太助、おかえり。よかったね、無罪放免になって」


 お稲は嬉しそうに太助を迎えた。


「ああ。だがどうして、突然、無罪になったんだろ……」




 一方、太助が無罪になったことを知ったお苑は、苦虫を噛み潰したような顔で、切歯扼腕せっしやくわんした。


 お苑は、年の頃は二十五、六ってとこだ。鼻筋が通ってっから、ま、いい女の部類だ。


 仕事はってぇと、盛り場の矢場で矢場女をしてましてね。


 矢場ってぇのは、楊弓場ようきゅうばのことでして。客が、二尺八寸(約85センチ)の楊弓で、九寸(27センチ)の矢を射るわけですな。


 矢場女ってぇのは、客の射った矢を拾ったり、「当たり~」と声をあげ、矢を戻したりするんですが、ま、この矢場女は色を売っているという噂も無きにしも非ずでして。――



「お~、こりゃあ、めんこいのう。名は?」


 矢場の店主は、面接に来たお沙希を見てご満悦だ。


「おサッキーと申します」


「うむ……、斬新な名じゃのう」


「はい。サッキも言われました」


「……で、どうしてまた、矢場女になろうと?」


「はい。父ちゃんも母ちゃんもいません。親戚に預けられて、はや二十年。私を育ててくれた叔母おばさんに、感謝・感激・雨・アラレちゃんです。そこで、叔母さんの教育方針で培った奉仕の精神が、何か人の役に立ちたいという、燃えたぎる情熱を――」


「で、なんで、矢場女になろうと?」


「ステキな人に射止められたくて」


「ん~、粋だね。じゃ、明日から頼むよ」


「合点でい!」


「……」


 作り話とは言え、おしとやかだったのは最初のうちだけだ。ったく、最後には地が出ちまって、も。店主も呆れ顔だ。

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