第2話 未来が見えない



「姉上? 一体どうなさったのです、姉上?」



 ……私を姉と呼ぶ人なんかいないはず。

 なのに正面で慌てる少年は確かに自分のことを姉と呼ぶのだ。


 貴方は誰?




 まるで落雷に撃たれたような衝撃。

 まさしく青天の霹靂が少女を襲う。

 キツめのまなじりのせいか、気の強い印象を与える美少女だ。




「わた、し……」


 今まで十五年近くの間、己の中に封じられていた記憶の箱が開く音がする。

 自分の指は、腕はこんなに細かっただろうか。

 震える掌を視界に入れ、カサンドラは戦慄した。


 ――わたくしはカサンドラ・レンドール。


 そのはずなのに十五歳を目前とした今、初めて思い出したのだ。 

 以前の自分はカサンドラなどという名ではなく、日本の地方都市に住むしがないOL前原香織だった。


 恐る恐る、ペタと己の頬に指で触れる。

 なんというすべすべで潤い溢れた感触なのだろう。感動した。

 油分を失い風呂の水を弾かなくなって久しいはずの己の体が若返っている。


 頭の中が記憶の濁流に押しつぶされそうだ。

 所謂前世の記憶と言うものが、堰を切ったように少女の脳裏に走る。さながら走馬灯のよう。

 だが徐々に落ち着きを取り戻し、香織とカサンドラの記憶が互いに反発することなく同時に頭の中に納まった。

 異なる世界の異なる二人分の少女時代を過ごした経験を持つカサンドラが、ここに誕生したとも言える。前世はその二倍近く生きていたから、どうにも今の体に慣れないのだけど。

 幸い、身体の相違感はすぐに立ち消えた。


「一体どうしたのですか姉上。

 明日は王立学園の入学式典だというのに準備をするでもなく、僕を呼びつけて」


 立ちすくむ自分の全身を壁に設置された姿見で確認する。

 悲鳴を抑えるのがやっとだった。


 この金髪で派手な顔立ちの子は、私だけど私じゃない。

 無意識に足が小刻みに震え、ぐっと手を合わせて祈りのポーズで堪えた。


 今までカサンドラとして生きてきた記憶は残っている、それに前世の記憶が加わった状態で混乱の真っただ中だ。

 転生? いいえ、私は死んだわけじゃない。

 ただ部屋でゲームをしていただけで死ぬものか。まぁ現状の認識がカサンドラなので、便宜上転生ということで納得する他ない。


「ごめんなさいアレク。

 眩暈に襲われてしまったようです、もう大丈夫」


 嘘は言っていないが、怪訝そうに首を傾げる十歳前後の美少年にようやく意識がいった。

 麗しい銀色の髪と碧眼がキラキラと煌めく。

 将来の美形を約束された、小学校中学年くらいの子供が目の前に立っている。


 カサンドラの義弟、アレクだ。


 彼の存在は当たり前に認識しているはずなのに、急に彼の存在を恐ろしいと感じた。

 だって、悪役令嬢カサンドラに弟がいたなんてゲームに一度も出てこなかったから。

 彼女カサンドラは王子の婚約者でレンドール侯爵の娘、それ以上でも以下でもない悪役令嬢を課せられたキャラクター。


 でもこうしてカサンドラとして十五年生きてきたこの世界はまがい物とは思えない、質量のある現実なのだ。


「もう、しっかりしてください。用事がないのなら、僕は部屋に戻ります。

 姉上は明日の準備もありますよね?

 入学をあんなに楽しみにしてたじゃないですか、僕に延々と新生活の意気込みを語るくらい前のめりで!

 やっと王子に会えるんだって、何度聞かされたことか」


 可哀想な人を見るかのような憐みの視線を受け、カサンドラは部屋着のまま口元を引きつらせた。

 一個人が使うには広すぎる私室、天蓋付きのベッド質の良い調度品、職人が手掛けた高級テーブルセット足の長いふかふかの絨毯。

 これがカサンドラの生きてきた現実。

 プレイしていた『黄昏の王国 純白の女王』の世界なのだ。


 愕然として立ち尽くす姉を前にアレクは呆れたのか、肩を竦める。

 幼いながら中々嫌味の利いた動きをする少年だ。


「折角部屋に来てもらったのにごめんなさい。

 申し訳ありません、少し疲れてしまったようです。

 一人にしていただいても良いですか?」  


 アレクは溜息をつく。はいはい、と背を向けた少年に例えようもない違和感を覚える。


「――お大事に、姉上」





 ※




 義弟の名はアレク。

 彼は遠い親戚で、息子のいないレンドール侯爵が養子に迎えた少年である。

 要するに、レンドール家の後継ぎだ。

 記憶をほじくりかえしても、そんな設定はゲーム上で明らかにされていないはず。

 そもそもカサンドラや王子について語られるルートなど存在しない。

 冷静に考えれば、いくら架空の世界の実在しないゲームの世界でも――

 こうして人が現実として生きている世界には語られない無数のストーリー、背景が存在するはずだ。


 侯爵家の令嬢が王子と婚約をし将来王妃になるなら、後継ぎがいない侯爵が養子をとることは真っ当な行為。

 だから義弟がいるのは当たり前と受け入れ、カサンドラは違和感など抱かず暮らしていたのだ。

 ゲームに出てこない人物でも、現存する世界を正しく回すために必要だから。

 やたらめったら顔の良い、なんでこの義弟が攻略キャラじゃないのかと今になって残念に思う弟、それがアレクだった。

 悪役令嬢の弟なんて端役に勿体なさ過ぎる容姿の少年が登場するなんて、嫌がらせとしか思えない。


「……状況を整理しましょう」


 丈の長いスカートの裾を翻し、カサンドラは机に向かうことにした。

 羽ペンをとり、引き出しから紙を一枚取り出す。


 状況を把握するためにメモをとる行為は、前世からの癖なのかもしれない。



 この容姿と記憶から、香織はゲームの世界の悪役令嬢カサンドラに転生してしまったようだ。

 転生、と書いて「?」と記す。

 香織は死んだ記憶はないし、死ぬ直前まで自室にいた。

 死んだとしたら心臓発作か脳梗塞「?」と追記。


 とりあえず現実世界に帰る方法は考えるだけ無駄だと思った。

 ゲーム内にそんな要素はなく、ここに転生した経緯を香織が究明できない以上、今の時点で考えても仕方ない。憂鬱になる一方だ。



 明日は王立学園の入学式典、攻略キャラが一堂に会するオープニング前の時間軸…か。


 これから三年間かけて主人公は攻略対象と愛と思い出を育む。

 卒業パーティで悪役令嬢を糾弾、追放。

 更に真エンディングルートに入れば、凄惨な事件の証拠を掴んだ主人公達が黒幕の王子を追い詰めることになる。

 逃げ場を失い悪魔を喚びだす王子を、自らが選んだ恋人と立ち向かって見事打ち倒すのだ。


「もしかして私、何もしなければ良いのでは?」


 一瞬希望が見えた。


 嫌がらせを行わず、地味に生きる。

 そして婚約者の王子を大事に……


 衝動的にダンっと拳を机に叩きつけて、獣のように唸る。



 ――何もしなかったとしても、婚約者の王子は闇落ちするじゃん!

   倒されちゃう!

 


 前提として、王子が悪役であることには変わらないのだ。

 彼はこの国を滅ぼそうとする、悪役令嬢どころか黒幕王子。


 つまりレンドール侯爵令嬢として彼と添い遂げるという選択肢はない――はず。

 考えうる行動としては、王子との婚約を最速で破棄してもらう。

 そして自分は攻略対象ではない、新しい恋人を見つけるのだ!


 婚約破棄→新しい恋人探し


 紙に弾んだ文字を認め、うんうん、と頷く。

 頷いた後、ハッと我に返る。

 主人公の到達するエンディングによっては、大きな問題が生じるではないか。


 果たして『どの主人公が』『どの攻略対象を』選ぶか、という頭の痛い話なのである。


 主人公の性格によって相手のイベントが変化してルートも分岐する。

 好みの性格との組み合わせでパラメータ条件を満たしていれば、そのまま王子を打ち倒してエンディング! 世界を救ってくれてありがとう!

 カサンドラは新しい恋人と愛を育みます!


 でも好みでない組み合わせだったら主人公は聖女として目覚めないまま終わってしまう。

 目覚める前に、ゲームが終わる。

 悪役令嬢を糾弾して、そこでノーマルエンディング。




   死が我らを分かつまで ともに歩もう――




 攻略対象がヒロインの手をとって、愛を告白する。

 数十秒のアニメと、超美麗のスチルで「Fin」と結ばれるのがノーマルEDだ。

 好みの性格でない相手で到達できるのはここまで。それでも十分イベントが甘いので満足感を得ることができる。   


 真EDの道に入ると、後に聖女として能力を自覚するイベントが起こる。

 そのイベントがないまま終わってしまう……


 そこまでメモした後、気づいて口元を掌で覆った。

 息を呑む。



 もしかしてノーマルEDだと、王国は悪魔によって滅んでしまうのでは……?


 ぞっと背筋が凍り付いた。

 ノーマルEDだからそこで打ち切り、いったん物語はおしまい。

 王子が黒幕とかその後の世界とか語られるわけでもないので、投げっぱなしジャーマン!

 落ち着いて考えると、死が二人を分かつ時が一日後だっておかしくないデンジャラスEDではなかろうか。


 この世界の現実はEDの後も続くはずだ。

 OPの前の世界でカサンドラが生きていたように。


 主人公が聖女に目覚めない、ただの恋愛EDを迎えたその裏で王子は……?

 彼の中に悪意の種が芽吹いており、国民を裏で虐げる残虐な王になることは変わらないではないか?

 下手をしたら悪魔がすっかり王子に成り代わり、この世界を滅ぼしてしまう可能性だって否定しきれない。

 聖女の力を自覚していない主人公が、果たして立ち向かえるのか?


 主人公が悪魔を倒してくれることを信じて応援するしかないってこと?

 折角未来を知りうる前世の記憶を持つというのに、出来ることは主人公の選択が自分にとって最良のものであると祈り続けるだけ?


 もしも自分が主人公として目覚めていれば、結末と経緯を知っているから強引に王子ルートをこじ開けて助けてあげられたかもしれない。


 救済が無理なら、王子を倒して闇を払う聖女となろう。


 三年間で最強のパラメータに鍛え上げ推しキャラを伴侶とし、聖なる剣を掲げる女王となる覚悟を決めてもいい。


 中途半端な悪役令嬢に転生したからって、何を変えられるって言うの!?




 ――この世界で、私はただのお邪魔キャラ。

   シナリオに何の影響力もない、端役に過ぎないんだ。



 絶望した。


 ……ゲームで辿り着くEDは、数ある並行世界から主人公が選択した一つの姿。

 悪役令嬢として現実を生きるカサンドラは、主人公の選択に導かれた世界の中で生きるしかない。



 不確定要素ばかりを残したまま、ただ一人焦るだけの自分。

 主人公次第で世界が終わるかもしれないって、落ちつかない毎日を過ごす自分。




「……王子……」



 私の婚約者は、王子。

 この国を滅ぼす、黒幕でラスボス。





 私はただのお邪魔キャラ。

 王子より一足先に退場するという役目を与えられた悪の婚約者。



 さっさと婚約破棄して王子と主人公をくっつけるように奮闘しようか。

 聖女なら王子を闇落ちから救えるんじゃ……

 そうまで考え、どこまで他人頼みなのかと自嘲する。


 いくら前世では己の分身として操っていた主人公とはいえ今は他人、彼女にだって十五年間生きてきた人生がある。

 己に都合よく動いてもらおうなんておこがましい。

 そもそも聖女としての自覚がない状態の主人公に”聖女として”王子を救えとか戦えとか、無茶な話だ。



 そんなの駄目だ。

 



 メモをぐしゃっと握りつぶした。

 ここにある沢山の『可能性』、起こりうる未来。

 それを選べるのは私じゃなくて主人公本人。

 いくら未来のためとは言え、他人に自分の思い通りに動いてもらおうなんて無理な話だ。

 カサンドラだって香織だって、器用な性格じゃないのだから。



 私は、私だけが出来ることを考えよう。

 例え学園から逃げても、主人公の選択によっては王国は破滅する。

 人の行動を監視している場合ではない。



「まずは王子のことを、知らないといけないわ。

 状況を把握しないと。

 それから善後策を考えましょう」





 婚約者だけど、記憶以上のことを本当に全く知らないのだ。

 書類上だけで定められたカサンドラの婚約者は、顔だけは絶世の美男子の王子様。



 分かっていることは彼は人当たりが良くいつも微笑みを浮かべていることだけ。



 明日になれば、婚約者に遠慮なく会うことが赦される。

 毎日だって顔を合わせることができるだろう。

 そこで彼について知っていけばいい。




「それにしても…主人公、どの性格の子が学園に来るのでしょうか」



 強気な性格だとカサンドラと衝突しそうだし、対立を徹底的に避けるならおっとりした温和な子だといい。

 友達になるなら天真爛漫で元気な主人公がいいなぁ。



 前世の香織は、デフォルト名の『エンジュ』という名前を変えて登録した。

 エンジュを文字った名づけが難しくて苦労し、結局諦めたことまで思い出す。


 ふわふわ栗色の主人公ちゃんと実際に会って、デフォルト名のエンジュって呼ぶのは気恥ずかしい。勝手に照れる。


「エンジュちゃん、エンジュ、か」


 今までは性格ごとに名前をつけてプレイしていたから違和感はあるだろう、出来るだけ不自然にならないように呼びかけなくては。


 間違っても強気なエンジュに「リゼ!」と呼びかけたり

 優しいおっとりエンジュに「リナ!」と話しかけたり

 元気で天真爛漫なエンジュに「リタ!」と肩を叩いてはいけないのだ



 出来ればリナ…じゃない、温和な性格のエンジュだといいな。






 ※




 朝起きたらアパートで、気絶して夢を見ていただけでした――っていうオチをわずかながら期待していた。

 生憎、十五年続いたこちらの現実は今日も刻一刻と時を進めてカサンドラを絶望に叩き落すのである。




「カサンドラ様、ごきげんよう」


 品のよい制服に身を包み、姿勢良く道を歩くカサンドラ。


「ごきげんよう」


 にっこりと微笑んで、顔見知りの令嬢と並んで歩く。

 彼女も同じ新入生徒だ。

 馬車を降りた後玄関ホールまで歩かなくてはいけないのだが、校舎まで結構な距離がある。

 見渡す限り手入れの行き届いた庭園を擁する敷地の広さに驚嘆するべきなのかもしれないが。

 流石国一番の教育施設、王侯貴族の子女の学び舎の王立学園。


「カサンドラ様、ご存じでいらっしゃいますか。

 今年の特待生の話なのですけれど」


「申し訳ありません、デイジーさん。

 わたくしは特待生の皆様のことは存じません」


 特待生は平民出身だが国に特別な才能を認められた者、入学試験で素晴らしい成績を残し入学許可を得た者を指す。年によって特待生の人数は大きく増減するそうだ。

 あまり興味が無くて、という態度を崩さない。

 でも心の底ではムズムズしていた。

 


  知ってる、エンジュのことでしょう!?



 油断すれば、そんな素っ頓狂な台詞が出てしまうところだ。危ない。


「まぁ、大変失礼いたしました。

 ですが少々、面白いお話を伺いましたの。

 なんと今年の特待生、三つ子がいらっしゃるのですって!

 私、双子は見たことがありますけれど――三つ子なんて初めてお目にかかります!」


 

  ……はぁ? なんですって?




 笑顔を張り付けたまま、カサンドラは言葉を失った。

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