序章 6

 学生寮では基本方針として、可能な限り学生同士が助け合い、自分たちの力で問題を解決するよう求められる。寮母を筆頭に料理人や清掃婦や庭師等、国家予算規模で運営されていそうなこの豪奢な寮の最低限の生活水準を保証する大人たちは出入りするものの、あくまで寮生が主体となってより良い生活環境を作り出す義務がある。ただ安穏と、金と他人の力に楽座して放蕩していればよいわけではなく、ここではお嬢様生活では身に付かないであろう地に足のついた生活を知る、つまりは社会生活者としての基礎を叩き込まれるのである。直截的な生活技能、円滑な人間関係、イベント運営等々、様々のスキル獲得の場として寮はある。

 と、雛鳥たちにメンタリティを説けばすぐに彼女らの行動が具体化されるわけではない。理念の復唱と実行の間には大きな懸隔がある。その溝を埋めるために、教練する先人が必要とされる。師なくして人は育たず。彼女らの生活を指導し、勉学を補佐し、つまずいた者があれば助け起こす。それが監督生である。

 監督生は学生寮の最上級生が務める。彼女たちは何名かの下級生を受け持ち、時に理解者として寄り添い、時に指導者としてより良い道を示す。浅慮浅学の子羊たちを豊穣の草野へ導く羊飼い。その絶対的信頼感と親身に敬愛を表して、下級生たちは担当の監督生をこう呼ぶ。お姉さま、と。

 私は卓上の鏡を見つめている。母がお見合い用に持ち出した高校時代の写真に写っていたのと同じ、若き日の顔。二重顎の恐怖を知らない、贅肉と無縁の輪郭。改めて見るとそんなに悪くない目鼻立ち。鏡が私を映している。

「どうしちゃったの、鏡ばっか見つめて。額にバカって書いてあるの?」

 千恵が荷解きで生じた段ボールの空箱をせっせと片付けている。百合神様の権能で送られたであろう中身の分からない荷物を仕分けしようと頑張っていたはずの私はいつの間にか学習机の椅子に錨が降りたようにずしりと座り鏡を見つめている。額は脂でテカテカしている。

「ちーちゃーん」

「何?」少し怒った千恵の返事。荷物は千恵がほぼ一人で置かれるべき位置に置いた。部屋の造りを理解している分、手際は良かった。他の子も入寮時はここまで手厚く面倒を見てもらえるのだろうかそれとも千恵の人一倍強い親切心がこれを為したのか。

「ありがとう」

「本当にそう思うなら手伝いなさいよね。段ボールって重なると地味に重い」

「うん」

 私は鏡を見つめ続けた。私が私を見つめている。唐突にウィンクしてくる。なんてことはない、腑抜けた私を、逮捕令状を突き出す正義みたいな顔で突きつけて来る。

 彼女が、君にとってのお姉さまだよ。

 姫宮華恋。六年生。貴代子様の説明によれば、彼女は政治家の一人娘で、財閥の令嬢である貴代子様とは親戚関係にあるらしい。生粋のお嬢様たちが通う希望ヶ丘女子学園に於いて血筋だけでなく知力・美貌ともに最上級のカリスマとのこと。圧倒的カリスマ性を持つ王子様がカリスマと評する。永久欠番や殿堂入りを思い浮かべればよいのか、その偉大さを正しく示す物差しを私は知らない。その人が私のお姉さまだと言う。

「ちーちゃーん」

「何?」

「人生って、何だろう?」

「知らないわよ。少なくとも」声に力が籠る。「こうやって段ボールを紐で縛るのも、人生の内なんじゃないの?」

「……そうだね。人生って何だろうね」

 鏡の中の私が私に問う。答えは何も浮かばない。思考を練り練りする集中力が失われてまるでスランプに陥った詩人のようだ。言葉が出てこない。

 私のお姉さまは華恋様。千恵とささめも華恋様が監督生。副島先輩を担当するのは貴代子様で、だから彼女の中では貴代子様がお姉さま。因みに貴代子様は監督生長として他寮の監督生もまとめる立場らしい。

 私は唇に触る。弾力のある、血色の良い膨らみ。

「あなたが新しく入寮された方なのかしら?」

 華恋様に微笑みかけられても何も返せないでいた。見惚れる、という言葉の真の意味を知った。華恋様の横でささめが「早く挨拶しなさい。無礼ですわよ」と優越を口元に滲ませているのに気づき、でもささめのことはどうでもよくて、ただこの美しい人を眺めていたいと思った。

「まあ、華恋を初めて見た人は、だいたいそうなるよ」君はもっと図太い子だと思ったけど、と貴代子様が微笑む。背中に手を当てられ、ようやく私から言葉が押し出される。

「はじめまして。花咲百合子と申します。高校からの入学です。よろしくお願いします」

 会社のプレゼンで失敗知らずの私が急いて台詞を短縮してしまった。伝えたい内容の真ん中が空洞になってしまう。

「はじめまして。私、姫宮華恋です。六年生よ。寮唯一の高校入学の子が私の担当だなんて、これも何かの縁ね。今年も楽しみだわ」

「ええー」ささめが華恋様の腕を取り媚びる。「目新しいだけの子を構って、わたくしのことを疎かになさるのでしたら、わたくし、泣いてしまいますわ」

「お姉さま、私だって古参なんだから大切にしてくださいね!」千恵が反対の腕に取り付く。喧嘩はしないがささめと千恵が牽制し合っている、その図をどこまで読み取っているのか華恋様の表情からは知れない。

「今年もって言うのは、去年の段階で白花寮の最上級生が私たち二人になってしまったから、五年生ながら監督生を務めたっていうことなんだけど……って言われても、ね。まずは監督生について教えようか」

 貴代子様はひとまず解散を宣言して、人垣を作っていた寮生たちが思い思いの方角へ踵を返す。好奇心からこの場に残る者も数名いた。

 貴代子様の淀みない説明を受けて、監督生の理屈はほぼ呑み込めた。私の監督生は華恋様。となると必然的に。

「えっと……華恋様?」

 ささめが露骨に嫌な顔をした。貴代子様は不問で華恋様がアウトの理屈が、黒板に指で書いた線のように不鮮明ながらも何となく見える。

「花咲さん」華恋様は、飼い犬が駆け込むのを両手を広げて待つ飼い主のような笑顔で言う。「私はあなたの監督生なのよ」

「無理強いしてるみたいで、少し気の毒かも」と貴代子様が茶化すと華恋様が少し頬を膨らませた。その様は、礼儀作法にきっちりした人が何でもない敬語の使い方を間違えたように、妙に幼く見えた。

「えっと」

 息を整える。全ての視線が私に集中している。でも頬が火照っている理由はそこじゃない。私が求められている言葉は、百合好きが憧れに憧れて身の内で大切に抱卵してきた神の言の葉。それを今からこの形容不能の美人に捧げるのだ。

 もう一度息を吐くと貴代子様ががくっと崩れた。言わんのかーいという突っ込みだ。でも、嗚呼、ここで、私の処女が奪われてしまうと思うと、もう一呼吸が必要だったのよ許して。

 私はもう一度息を吸い、言葉を静かに空気に流した。

「お姉さま」

 効能の振り切れた温泉に浸かっているように身体が芯から熱くなる。私は今観念的に貫通して処女を失ったのだわ。百合好きとして大切に育んできたお姉さまという偶像を、この人に捧げたのだわ……。

 お姉さまは花が咲くように微笑んだ。「はい」

 その後はよく憶えていない。私の世話を焼こうとするお姉さまをささめが何か言って引っ張っていったような気もするし、千恵がいつの間にか私の案内を始めていた気もするし、貴代子様は物理学的不可能を達成して記憶の埒外へと飛んで行っている。ささめが、お姉さまがハンカチ、と言っていたことは海浜を歩いた素足にこびりつく砂みたいにしつこく耳石にへばりついていたがこれだけでは意味がまるで分からない。

 千恵がこれで最後と連れ込んだ初めて見る自室とその中央にピラミッドのように積まれた段ボールを見てようやく脳内処理が現実に追いつき、正気に戻ったつもりで作業したのだが気づくと着席して鏡を前に腑抜けになっている自分を発見するのですって人間失格みたいだ。

 姫宮華恋という圧倒的美。そんな彼女を「お姉さま」と呼ぶことが許される栄誉。詐欺師が騙る夢のようで上出来に過ぎる。最後は夢オチが待っているのではないか。でも、これは現実なのだ。これが現実なのだ。

「ちーちゃーん」

「なあに?」

「最高かよー」

「私は最低よ。なんであなたが休んでて私が段ボールまとめてるわけよ。普通逆でしょ」

「しょうがないよー。怠惰は幸せの十分条件なんだから」

「あっそ!」そ、に力が籠る。ぱんぱん、と掌を打ち合わせる音。「よぉーし、あとは段ボールをゴミ捨て場に運ぶだけ。まだ場所教えてなかったね。付いてきて」

「ゴミって真実だよねー」

「御託はいいから、行くよ」どさっと音がして、千恵がすぐそばに立つ。私は未だ鏡を見つめている。不思議の国の百合子。鏡の国の百合子。

「ゴミって真実なんでしょ」耳元に千恵の刺々しい声。

「うん」と鏡の中の私。

「ゴミは自然に消えたりしない、ゴミ捨て場まで見送って初めて私たちの中でゴミは終わるの。その先どういうルートを辿るのかはよく知らないけど、この寮内ではゴミはゴミ捨て場に運ぶまでは真実としていつまでも在るの。だから私たちはゴミ捨て場にゴミを運ばなければならないの。分かったら来て!」

 理屈は明快。だが、行かねば、と思うのに足が脳の指令を聞かない、まるで主人の命令を無視して寝そべる飼い犬の脱力だ。

「お姉さまって、凄いよね」自らに語りかける。

「そりゃ凄いわよ、お姉さまは。カリスマの中のカリスマなんだから。百合子はこれから三百回は度肝抜かれるわよ」

「正直、まだ抜かれ続けてるよ。水がワインに変わる瞬間をライブで見た感じ」

「奇跡って呻くのは分かる。私も初めて見た時は眩しさで失明すると思った」

「千恵は、あの圧に慣れるまでどれくらいかかった?」

「……ちーちゃんがいい」

「ちーちゃん」

「そうだなあ、割とすぐ慣れた」

「……強心臓なんだね」知ってたけど、と、晒さない予定の手札がぽろりと落ちてしまう。

「度胸にはけっこう自信あるって言ったでしょ」嬉しそうな声音。棘が抜けた。「とはいえ、私、平民出身じゃない? だから入寮当初は、他の寮生にもだけど、コンプレックスからビビっちゃってさ。誇張無しに身体震えてた。でも、自己紹介が終わった私にお姉さまが、『ご、って言ってみて』って」

「うん」魂の抜けた声。

「で、次に『き、って言ってみて』って」

「うん」オチが分からない。

「で、続けて『げ』『ん』『よ』『う』って。『うちは少し特殊な学校だから、挨拶をする時はごきげんようって言うといいわ』って言ってくれて。その瞬間、なんか、王子様がお姫様抱っこで窮地から助け出してくれた、っていうのかな、そんな感覚がして。そしたら、威圧に感じてたオーラが、視点がぐるっと変わって優しい包容力に見えたんだよね」

 その光景を想像してみる。入寮したてつまり中学一年生の幼い千恵が、右も左も分からぬある意味異世界転生同様の状態に置かれている。彼女の心細さを見て取ったお姉さまが、そっと送り出した助け舟がごきげんよう。

「それって……それって……」

 一瞬息が詰まった。匂い立つ、かぐわしき香り。

「基礎となる、つまりこれから多用するであろう挨拶を教えながら、一番初めにお姉さまが千恵にごきげんようを言っている……挨拶に被せるように挨拶しているのね……素晴らしいわ……。新しい環境で、しかもコンプレックス付きで不安な千恵を綿密な計算の元に導いたのよ。素晴らしい手腕、美しい姉妹愛。それってもう……百合だわ……ジャスティスでしかないじゃない……」

「……だから、要するに、お姉さまにビビる必要はないってこと。品行方正で純粋無垢なお姉さまが私たちをいびる心配なんてこれっぽっちも――」

「それはそれで最高だけどね!」

 コンセントに挿した家電が命を得るように、活力が全身に行き渡っていく。末端が温かい。脳と体がようやくリンクして、自由の意味が分かる。

「……どういう思考回路してるの?」千恵は明らかに引いている。

 私は立ち上がった。椅子が後方に倒れ床と硬い音を打ち鳴らす。

「行こうちーちゃん。ゴミ捨て場でもカナンの地でも西方浄土でも地獄でも、どこへでも行こう」

「……行くのはゴミ捨て場だけだけどね」

 千恵が置いた段ボールの束を持ち上げると思いの外重い。その重みも心地良い。

 私は鏡に映る自分だけを見つめることで、私を守ろうとしていた。無意識に。ホラー映画を前にした幼児が顔を両手で覆うことで目の前の出来事を無いものとするやり方と同じだ。私は至上のお姉さまという現実の重みの前に怖気づいていたのだ。でも。

 世界は私の敵じゃない。これは百合神様の愛が与え給うた奇跡なのだ。姫宮華恋様という超常は、お姉さまと呼ぶ栄誉は、百合神様が御恵みくださった特上の祝福なのだ。だから私は何の恐れもなく、衒いもなく、躊躇いもなく、彼女とそれにまつわる甘い百合の蜜を、余さず残さず零さず、吸い尽くせばよいのだ。ただそれだけのことなのだ!

 窓の外は黄金の陽に満ちている。新世界への扉を開いた私に輝かしい未来を約束する、栄光の午後だった。

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