2021年10月5日(火) 快晴

 ドライブ・マイ・カーが映画化され、文庫版の帯が映画のジャケットカットに様変わりした村上春樹の女のいない男たちを読み終えた。最近はこのような話題性にも反応したくなることが増えた。書店で少しでも気になったものはジャケ買いしてしまう。

 単行本が出版されたときに書店で積みあがっている光景も記憶しているが何年前だろう。確かあの当時「女のいない男たち」というタイトルについて、今考えれば文字の通りなのではあるが、「女のいない」といういうのをどういう意味で言っているのだろうと思った記憶がある。


 ドライブ・マイ・カーの中で、亡くなった妻と隠れて会っていた共演者の俳優の男性の酒の飲み方に関する描写が印象的で気に入っている。

 相手の男性が酒を飲み過ぎる傾向にあるという考察。それは明らかに自らに何かをつけ食わるためではなく、何かを取り去ろうとする飲み方なのだと。よくある話のように例に倣い、時には酒が進むと口が軽くなり、喋るべきではないことについても、訊きもしないのに自ら進んで喋った、そんな描写がある。僕自身が割と自分の話を自らする方なので、捉え方に依ってはこのように映っているのだという学びでもあった。

自ら自分の話をするという行動について僕の場合言えることは、就職活動の面接時に如何に相手の発した言葉にこちらの自己PRのくだりを絡ませて返せるか、という意識が今でも根付いているように思うが、時と場合は弁えなければならない。関係のない話をし出すのは考えものだ。


 冒頭の、女性の車の運転に関しての記述では、いささか乱暴過ぎるか慎重過ぎるかの2パターンに分類されるといった描写も好きだ。僕にも似たような自論があり、運転が好きであったり、好きかにどうかに関わらず運転が上手だな思う女性は比較的SEXが上手な傾向があるように思う。あくまでも主観であるが、モノを扱うことに対しての勘の良さは、相手の体へのタッチに表れる。

 ハンドル捌きやアクセルとブレーキの踏み分けを一つ間違えると大きな事故に繋がるのは言わずもがな、車の運転自体の利便性に対して潜むリスクに対しての、ある意味での腹を括った堂々とした姿勢や覚悟、思い切りの良さのようなものが垣間見えてこちらもドキドキしてくるものだ。


 モノを扱うことに対する姿勢という表現に通ずることとしては、楽器や医療器具など扱いに注意が必要なものに日常的に振れている人からも似たようなものを感じる。

 バイオリニストの舌使いや指先のタッチには天性のものを感じたし、医療従事者はアブノーマルなプレイにそれほどハードルが無いような印象を受けた。確かそのバイオリニストも「家のだけど」と言いながらAudiを華麗に運転していた。


 ここまで言っておいてあれなのだが、この短編集の中でのお気に入りはドライブ・マイ・カーではなくシェエラザードだったりする。こちらについても後日振り返ってみたい。

 そして僕は上映期間中にドライブ・マイ・カーを劇場で鑑賞することが出来るだろうか。

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