第32話 「いろんなものが垂れ流しになってたんです」

 自分よりパニックになっている人を見ると冷静になる、と聞いたことはあるが、それはどうやら本当だったらしい。そして痛みにも適応されるものらしかった。この激痛が消えた訳ではないけれど、「痛い、痛いー!」と目の前で騒がれた方が一人で惨めに苦しむよりも幾分かマシだった。


「い、一樹くん、大丈夫? えっと、お腹もそうだけど、なんて言うか、いろいろ……」


「ちょ、ちょっと先輩、首からも血が! え、これ大丈夫なやつなんですか?」


「大丈夫だよ、やっと落ち着いてきたから……。首のは、黒川さんが突っ込んできた時に、ちょっと切っちゃったみたい。大丈夫、首って言うよりは耳の下に、先っぽが刺さっただけだから……」


「痛い、痛いー! 血が、血が止まらないわ!」


「黒川さん! ああ、だめです! 上を向くのも首筋を叩くのもただの民間療法です!」


「あたし、水取ってきます! あとナフキンも! ああもう、この人、普段はあんななのに、どうして今はこんななんですか……!」


 そして、語るにはあまりにも騒々しく中身のない間抜けな経緯を経て、僕たちは件の喫茶店のひび割れシートへと腰を下ろしていた。あそこまで騒いであのカラオケ店に居座れるほど、僕たちの気は太くはないのだ。もちろん、雪子を覗いて。


「ウサユキちゃんとは、昨日知り合ったばっかりなのよ」


 僕のはす向かいに座る黒川さんは、申し訳なさそうに目を泳がせていた。顔の真ん中には大きなガーゼがテーピングで張り付けられている。何とも間抜けな顔だった。


「あの……前に、ウサユキちゃんと一緒にあるてるところを見ちゃったって言ったじゃない? 結構特徴的な格好だから覚えてて……昨日学校から帰るときに見かけて、つい声を掛けちゃって」


「違いますよ」と僕の向かいで雪子。彼女は黒川さんを介抱する際にブラウスに血をべっとりと付けられてしまったので、古賀さんのジャージを羽織っている。黒川さん程ではないけれどウサユキにとっても古賀さんのジャージは小さいらしだった。襟隠す為にチャックを一番上まで上げなければならず、ピチピチでつんつるてんなジャージ姿はなんとも間抜けだった。


「先輩と別れてから改札の前でぼーっとしてたら、花芽先輩があたしのことじーっと見てるから、あたしから声を掛けたんじゃないですか」


「あ、あれ。そうだったかしら」


「そうですよ。ちょっと自分が頑張ったみたいに過去をねつ造しないでください」


「あ、あはは……」


 じとーっとした雪子の視線から逃れるように、黒川さんはミルクティに口を付けた。「……あれ?」。首を傾げてもう一口。「なんか……お湯みたいな味がするわ」。味を感じないのは鼻が塞がってるから、という結論へは辿りつかず、古賀さんはしげしげとストレートティを啜っていた。


「それで、どうして今日も一緒にいたの?」


 答えたのは黒川さんだった。「部室に誰もいないから帰ろうとしたら二人が一緒に歩いてて……。でも二人とも様子が変だったから後をつけちゃったの。ごめんなさいね」


「あたしも帰ろうと歩いてたら、カラオケの前でたじたじしてる花芽先輩がいて声を掛けたんです。カラオケの中に二人が入って行ったけど様子が変だって。そんなに気になるなら入ればいいじゃないですかって。それで来てみたら……」


 雪子は僕の首と左手の甲に張られたバンソウコウを見て、大きなため息を吐いた。


「それに関しては……あたしから色々言いませんよ」


「……ごめんなさい、雪子も、黒川先輩も」


「……」雪子は珍しく、ウサユキと呼び方を訂正しなかった。「ま、色々は言わないけど、これだけは言わせてもらいます。バーカ!」


 全く、僕は言い返す言葉がなかった。


「……それで一樹くん、この人は?」


 今まで黙ってちびちびとミルクティを飲んでいた古賀さんが、不機嫌そうに雪子を指さした。しかし良識のある彼女は堂々と顔に指を付けることはなく、机の上でふにゃっと指を伸ばしただけだった。


 まぶたがぱんぱんに腫れあがっていた古賀さんの顔は、なかなかどうして間抜けなものだった。黒川さんの鼻血が止まると、今度はわたしの番だとばかりに古賀さんが大号泣を始めた。これが何とも凄いものだった。

 古賀さんの大号泣に比べれば、黒川さんの鼻血や僕の外傷なんてことない。過言ではなくそう思う程、それはそれは大惨事だった。

 結果、古賀さんの泣き疲れ涙が枯れ果ててその騒動はひと段落した。


「……さっきも言ったでしょ。昔、僕が心中しようとしていた相手だよ」


「聞いてない!」


 ばん、と、古賀さんはテーブルに手を叩きつけた――叩きつけようとしたのだろう。涙と共に体力とは精力を流しきってしまった古賀さんの手では、とん、乾いた音をわずかに響かせるのが精いっぱいだった。


「だって言ってないから……」


「なんで言ってくれなかったの!」


「黒歴史だから……」


「……わたしは黒歴史を話したのに!」


 そう言うと、古賀さんは両手を握りしめて俯いてしまった。まさかもう一度泣くのか? 今ここで? 僕たちの間に緊張が走るが、やはり古賀さんの身体には余分なことに消費できる水分は残っていなかったようで、目を何度か瞬かせただけだった。ほおっと、僕たちは揃って息を吐いた。


「……ごめん、古賀さん。……うん、僕の自殺を止めようと色々と手を尽くしてくれてたのに、この事を話さなかったのはよくなかったよね。……誠実じゃなかった。ごめん、本当にごめん……」


 僕は椅子の向きを古賀さんの方へ向け、頭を下げた。カッターで切ってしまった首が痛むけれど、それでも僕は、更に深く深く、首を曲げた。


 つい三十分前は公開自殺をしようとしていた人間が、先輩が転んだことによってそれを阻止され、のうのうと生きて、説得しようとしていた人間に頭を下げている。多分、僕がこの中で一番間抜けな人間なのだろう。


「まあ、まあ。それに関しては、先輩に絡み続けたあたしも悪いですから……」


 珍しく雪子がまっとうなことを言った。と思ったのもつかの間、一転悪辣な笑みを浮かべ、「でも一緒に歩いてただけであんな早とちりしちゃうのはどうかと思いますけどねえ」と古賀さんを挑発した。


「してないよ!」とん、手を振り降ろすものの、やはりか弱い音だった。「してないけど……そういうのじゃないって分かってたけど……それでも嫌だったの!」


「……まあ、その気持ちも分かりますけどね」


「でしょ?」


「でもやっぱアホですよ。アホ。色々と」


 古賀さんはもう何も言い返さず、雪子を睨みつけた。言葉がなかったのは自分でもそう感じていたからかもしれない。僕もそう思っているのだから、きっと彼女も同じことを考えていることだろう。感情と勢いに任せて随分とアホなことをしてしまったと。様々などろどろした感情を吐き出した今だからそう考えられるのかもしれないけれど。


「今の時代まで、視線で怪我をした人はいないんですよ?」


 雪子はそう言って古賀さんの怨念を軽く受け流すと、湯気の立たなくなった甘ったるそうなコーヒを一気に口の中に流し込んだ。

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