第23話 「鮮烈なセピア」

 それから度々、僕とウサユキはバルコニーで話すようになった。話すようになっただけで、関係が親密になったりは実感しなかった。

 相変わらず僕はおどおどしていたし、わずかな恋愛感情のようなものは自覚していたけれど、それが恋に発展することはなかった。彼女の魅力に惹かれてはいても、彼女の性格は好きになれなかったし、その魅力が自殺願望から来るものだと知っていたからかもしれない。


「先輩、ちょっと聞いてくれませんか?」


「……今日はどうしたの?」


 僕とウサユキの会話は、よくある愚痴話から、死にたいあるある、勉強の話、進学先の話、死ぬのならどうやって死にたいか、何でもない雑談、何歳くらいで死にたいか、といったようなもの。僕たちにとってはごく普通の話題しかしなかった。

 そして彼女がこう切り出す時は大抵クラスの人の愚痴だった。


「この前、クラスのやつとやったんですよお」


 そして彼女は、「これで」と顔の横で指を二本立てた。

 もちろんピースサイン、ではない。

 二万円。……ウサユキは魅力的だけれど、その行為にそれだけの価値があるとは思えなかった。


「……それで?」僕はため息交じりに、続きを促した。


「そいつ。全部終わってから、実はお金用意できなかったんだって言って、5000円札を渡してきたんですよ。これってどう思います?」


 これは、彼女にとってはごく普通でも僕にとってはアブノーマルすぎる話だった。

 ウサユキは見た目にそぐわずどろどろとした自殺願望を抱えているけれど、見た目通りかなり遊んでいる女の子だった。

 僕たちが屋上でこうして話している最中、他の男子生徒が彼女を呼びに来てそのままお開き、ということも何度かあった。


「どう思うって…………良くないよね」


「ですよねえ」


 人並み以下の返事しかできない僕を見て、ウサユキはくすくすと笑う。愚痴りたかったというのはもちろんだけれど、あえて僕にそういう話題を出して困らせているのだ、ということは薄々感じていた。


「バックれるのは、まだいいんですよ。別にあたし、お金が欲しい訳でもないし、別にセックスが好きな訳じゃないし。や、嫌いじゃないけど、その辺の男とやってもどうとも思わない。金払ってるとあいつら乱暴にして来るから、タダでオタクっぽい人にやらせてあげた方がずっと楽しいんですよ」


「……そう」


 僕は、少しだけ、身体の向きを彼女から逸らした。


「でも、5000円! 5000円ですよ、たった四分の一! お金はどうでもよくなかったけど、あたしの価値ってそれくらいなのって、5000円しか出せないのって、それでなあなあで許してあげるようなやつだって思われてたのって、もうそれが本当に頭に来ちゃって!」


 女性の価値を金額で表す、というのはいまいち分からないけれど、少なくとも「タダでやらせてあげた方が云々」と言っていた人間の台詞ではないだろう。

 口は災いの素、わざわざ彼女にそれをいいやしなかったけれど。


「でも、中学生にしたら5000円って結構な大金じゃないの?」


「お小遣いなら、そうかもしれないです。でも、だったら、親の財布から抜いて来ればいいんじゃないですか。友達の財布を盗むとか、どうとでもなりますよ。あたし、結局は良識とか常識を優先さちゃう程度なんだなあ……」


 するとウサユキは、ブレザーの胸ポケットから5000円札を取り出して、「これがそれです」と指先でつまんで顔の前に持ち上げた。


「胸ポケットに入れてそのままだったの、今思い出しました」


 そしては5000円札を丁寧に四つ折りにすると、僕の学ランのポケットに押し込んだ。


「あげますよ。使うのもなんか癪なので」


「いや……流石に受け取れないよ」


「後ろめたいお金だからですか?」


「……それもあるし、……何か嫌でしょ、いろんな欲望が籠ってそうで」


「そうですか」


 意外なことに、あっさり彼女は引き下がった。僕のポケットに手を突っ込んで先程の五千円札を取り出すと、今度はそれを真ん中で思い切り引き裂いた。

 ……いらないとは言ったけれど、目の前で大金を無駄にされると、流石に勿体ないという気持ちが沸いてくるな。


「あ、これ、気持ちいいかも。先輩もやります?」


 差し出された5000円札の片割れを、僕は首を振って拒んだ。ウサユキは楽しそうに、小指の爪くらいに細かくちびちびと5000円札を解体して風に飛ばしていた。後日その切れ端がバルコニーから見つかり全校集会が開かれた。



*



 また別の日、無理矢理スマホにインストールさせられたテトリスの対戦にも飽きてしまった頃、ウサユキが「先輩」と顔を上げた。


「あたし、こんなもの持って来たんですけどお」


 そう言って彼女が鞄から引っ張り出したのは、中学生には全く縁のなさそうな上等な便箋と、黒い長方形の箱だった。


「万年筆です」


 僕の頭上に浮かんだ疑問符に気付いたウサユキは、黒い箱を開けて中に収められていた万年筆を取り出した。おそらく木製の、やはり僕たちには縁のなさそうな代物だった。取り出す際に箱から保証書が落ちてしまったが、ウサユキは興味なさそうに、箱も投げ捨ててしまった。


「遺書。せっかく書くなら、良いもの使いたいじゃないですか」


「……遺書って」


「はい。今から、一緒に死んじゃいません?」


 すうっと目を引き延ばして、ウサユキは笑った。

 その時のその表情は、彼女の一番魅力的な顔として僕の記憶に焼き付いている。


「あたし、ずっと死にたいから、いつ死んでもいいから、逆に死ななくてもいいかなって考えてたりしたんですが」くるくるくると、万年筆を器用に顔の横で回して見せた。「先輩となら一緒に死んでいいかなって思うようになりまして」


「どうして、僕なんかと」


「先輩、あたしに全然興味ないでしょ?」


「……いや、可愛い女の子だなって思うよ」


「でも異性としては全然興味ないですよね? それで、人としては、あたしのことかなり嫌いですよね」


「……」


「あたしもです。先輩のこと、凄い嫌いです。っていうか見下してます。目を合わせてくれないし、話しててもつまらないし、喋ったと思ったら当たり障りのない事しか言わないし、髪切れよって思うし――」


 ――でも、ちょっと、憧れるんです。


 その時、彼女は笑っていなかった。目を引き延ばしもしていなかったし、悪辣に唇を歪ませてもいなかった。その表情は、真剣そのものだった。


「あたしと同じなのにどうしてこんなに真逆なんだろうって。あたしのこと嫌いなのに愚痴を最後までちゃんと聞いてくれるんだろうって。セックスとかエンコーの話されるの嫌なのに、どうしてそれでも聞いてくれるんだろうって。あたしも、どっかで間違えちゃっただけで、先輩みたいに優しくなれたのかなって。最近、そう考えるようになったんです」


「……僕も」


「はい」


「……僕も、似たようなこと、考えた」


「はい」


「好きなことして、笑って、楽しそうにふるまってるように見えるウサユキが――本心じゃそうじゃなかったとしても、ちょっと、いや、かなり、羨ましいなって」


「はい」


「……」


「一緒に死にません?」


「……」


「心中なんて絶対にしないと思ってたんです。だって、あたしは一人で死ぬのは怖くないし、一人で死ねないびびりって思われるのも癪だし、色々と邪推されたら死んでも死にきれない。でも、先輩なら一緒に死んでもいいかなって思うんです。恋愛感情とかじゃないですよ。でも先輩ならいいんです。同じで逆の考えの先輩なら、一緒に死ねたら嬉しいんです」


「……一日」


「はい」


「一日だけ待ってほしい。急に死んだら……色々と迷惑をかけるから」


「はい。先輩ならそう言うと思いました。実はこの万年筆、インクが同梱してるかと思ったらそうじゃなくて、遺書書きたくても書けないんですよねえ。まああたしは書けなくてもいんですが」


 最後にもう一回テトリスをしてから、僕たちはいつもと同じように別れた。


 悪魔の誘惑か、はたまた天使の救済か。

 彼女のその提案を、僕はどっちだと感じたんだったか――。


 それはともかくとして、僕はその日から不登校になった。


「弱虫」


 ウサユキからのラインには、ただその二文字が記されていた。

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