第10話 「個人店はそれがある」

 扉を引く。ガラン、ガランとベルが鳴った。

 右手にカウンター、左手にテーブル席、奥にお手洗い。縦に細長い店内は、かなりこじんまりとした印象を受ける。実際、店内は一目でほとんどの情報を捕えられるほどの広さなのだが、実際の面積それ以上に狭く小さく感じるのだ。客の姿はなかった。


 いいな、と思った。


 この店、いい。

 狭くて、質素で、しかし不快感や不都合を感じるほどではない。

 本物の喫茶店を経験するのは初めてだから、喫茶店とはこういう印象を与える場所、それともここが特別そうなのかは分からないけれど、少なくともこの店は、いい。僕はドアを引いた体勢のまま、うん、うんと何度か頷いた。


 ……そう、ドアを引いた体制のまま、である。僕たちは雨よけの下で、喫茶ふくろうに対してそれぞれ何か思いながら、しかし店内に足を踏み入れることができないでいた。


「……ねえ」


 古賀さんが僕のブレザーの裾を引いた。


「うん」


 僕は頷いて見せた。なるべく、勇ましく見えるように。つまりそれは、今の僕自身に勇ましさが欠片もないことを意味している。


「ふぅー……」


 古賀さんは大きく息を吸い込んで、吐いて、「よし」と僕の顔を見上げた。「入ろ」。「うん」。そして僕たちは、ほとんど同時に右足を踏み出した。


「いらっしゃいませえ……?」


 店主と思しき初老の男性のこなれた気の無い挨拶が、シーリングファンの風に交ざって耳に届いた。言葉尻に疑問符が付いていたように聞こえたのは、僕たちがなかなか店内に入ってこなかったからだろう。


「お好きな席にどうぞ」


 店主さんがカウンターの向こうでお冷を用意しながら、愛想笑いを浮かべた。僕たちは顔を見合わせて、どちらも何も言わず、テーブル席の一番奥へと向かい合わせに腰を下ろした。


 古賀さんはリュックを隣の椅子に置いて、首のリボンを軽く緩めてから、「喫茶店」と呟いた。


「喫茶店だ……」


 ふっ、僕は小さく笑ってしまった。古賀さんは僕に首を傾げてから、はっとしたように口元を押さえた。無意識に零れてしまったものだったらしい。


「喫茶店だね」


 古賀さんは頬を薄桃色にしながら、うん、と頷いた。


 二人の気まずさを壊すように、店主さんが水を運んできてくれた。僕たちは緊張からか、それとも持ち前の礼儀正しさからか、律儀に頭を下げた。


「メニューはそちらですので」


 スタンドに刺しこまれたメニューを手で示した。僕は慌ててそれを手に取って、中の文字に目を滑らせる。


「慌てなくて結構ですよ」彼は微笑とも苦笑とも取れない笑顔を浮かべる。「決まったら、遠慮せず声かけてくださいね」


 よれよれのシャツの向こうにある曲がった背中を見届けてから、僕は改めてメニューに視線を落とす。コーヒー五百円。うへえ。そういうものだと知っていても、この金額に気後れしてしまう。無料でお代わりできるものなのか? それなら一杯二百五十円、まあ妥当だとは感じるけれど……。


「あっ……古賀さん、ごめん、見えないよね」


 と、彼女が身を乗り出して僕の手元のメニューを覗いていることに気が付いた。僕がメニューを独占してしまっていた。

 メニューをひっくり返して彼女の方に差し出すと、「あ、全然平気だよ」とそれを押し戻す古賀さん。


「わたし、逆でも全然見れるから」


「いや、でも、申し訳ないし。僕だって逆さまでも見れるし」


「いやいや」


「いやいや」


「あ、じゃあ、一樹くんが先に決めて? その後にわたしに見せてよ」


「それなら古賀さんが先に決めてよ。僕、なかなかメニュー決められないんだ」


「……わたしもなんだけど」


 協議の結果、メニューを横向きに置いて二人で同時に眺めるという、どちらも最良を得られないのなら等しく不幸になろう作戦で落ち着いた。

 古賀さんはスイーツ、僕は軽食の欄を特に見ていた。特に空腹を感じている訳ではないのだけれど、せっかく喫茶店に来たのだから、ナポリタンとかサンドウィッチとか、それっぽいものを頼んでみたいのだ。


 古賀さんは前髪を整えながら、「パフェとサンデーって何が違うのかな?」と呟いた。「確か……パフェは長い容器で、サンデーは丸い器、だったかな」。偶然答えを持っていた僕がそう言うと、答えを期待していた訳ではないらしかった古賀さんは目頭をピンと動かした。


「すごい、物知りなんだね」


「たまたまだよ」


 雑学が好きな、陰気な性格なだけだ。

 そしてこれは、ついさっき仕入れたばかりの雑学だ。コンビニで古賀さんを待っている間に、音楽を聴きながら喫茶店にまつわる雑学を調べていた。喫茶店営業許可というものがあって、これを受けているものが喫茶店、飲食店営業許可を受けたものがカフェだとか。四月十三日は二本に初めて喫茶店が出来た喫茶店の日、だとか。


 なにもこういうシチュエーションを期待していて、という訳ではない。ただ、ほんのちょっとした暇つぶし。……まあ、多少は、そういうことも考えたけれど。

 だから、この知識が役に立ったことに対して、僕は心の中でぐっと拳を掲げた。


「じゃあわたし、サンデーにしよっかな。パフェってファミレスにあるけど、サンデーはあんまり見ない気がする。一樹くんは?」


「うん、決まった」


 サンドウィッチと、コーヒー。

 これなら古賀さんもつまむことができるだろう。


 若干気後れするけれど、なけなしの勇気を振り絞って、「すみませーん」と手をあげる。他にお客さんがいないから、まだ言いやすい方だった。


 おしゃれで若い女性の方で溢れている喫茶店に入ったら、僕はどろどろに溶けて蒸発してしまうだろうな、なんてよく分からないことを考えた。よく分からないことを考えるくらいには緊張していたのだ。


「はいはい」。返事はすぐに帰って来たが、店主さんはなかなかやってこなかった。

 店主さんが温厚そうな性格だったのも、良かった。変にこだわりのある、常連だけで切り盛りしているような店じゃなくて助かった。チェーン店と違って、個人経営店はそれがある。


 ……ふと。

 店主さんが先程の去り際の言葉が思い起こされる。遠慮せずに声かけてくださいね。


 おそらくこういう場所に不慣れな、注文をするのに気後れしそうな気の小さい人間に見えたのだろう。気を遣わせてしまった申し訳なさと、そんなものどうでもよくなるほどの恥ずかしさから、僕は水を一気に飲み干した。

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