18.見てはならないものを見た時、足は欲しいものの方へ向かう

 そして気がついたら、この店の前に来ていた。

 何杯かの茶を口にして、ようやく人心地ついたような気になる。思考も冷静さを取り戻してくる。


 ……あれが、俺ではなかった場合。


 そうではない、と自分の中の何かが叫んでいる。あれは本物だお前だ、と叫んでいる。だがとりあえずはその叫びは押さえ込み、冷静に頭を働かせる。実際その可能性はあるのだ。彼という存在を、各組織の上層部は知っていてもおかしくはない。あの水曜日の舞台に出た効果が、妙な形で出た可能性はあるのだ。

 自分の中では、それは違うと確かに叫んでいるのだが。


 ……そして、俺だった場合。


 彼の中では、それは既に決定事項だった。他の者だったらともかく、自分に関しては、その可能性はあるのだ。ドッペルゲンガーではない。確かにその時の恐怖は、ドッペルゲンガーを見た時の感覚とも言えるかもしれない。見えたら、死が近いのだと。

 だが違う。自分に関しては、その後の寿命が長かろうと短かろうと、その可能性があるのだ。

 髪は長かった。だが、少し前までの自分ほどではない。

 としたら。


 あれは、未来の俺だ。


 時間を飛び越えることのできる自分だから、それはあってもおかしくはないことだ、彼は気付いていた。


 だとしたら。


 短い髪に指を差し入れ、彼は思う。


 俺は、また時間を飛び越える予定があるというのだろうか。


 飛ぶのは、生命の危険がある時だ。それも、突発的で、避けることによってしか致命傷を負うことが判っている時。例えば爆撃。例えば墜落。

 からん、と音がして、最後の客が扉を開けた。ありがとうございます、とイェ・ホウとユエメイの声がした。ユエメイは後頼むよ、と言って、厨房の奥へと引っ込んで行った。その場にまた自分達だけが残されたことに彼は気付いた。


「お茶はもういいかい? サンド」


 ホウはそう言うと、カウンターの中から、彼の座っている横へと降りてきた。腕まくりをしたままの調理人は、その腕をカウンターのテープルに乗せた。


「うん、ありがとう」


 彼はそう言うと、ふっと横に座った相手の顔を見た。本当に、何処も似ていないのに。

 あの旧友の横顔は、鋭角的なラインだった。イェ・ホウが全くそうではないとは言えないが、あの旧友程ではない。声も違う。あんな声は、二人と居ないだろう。それだけで自分の思考を奪ってしまう声。この男はそんなものを持ってはいない。短い髪。大きな手。所々に傷跡があることを、この間知った。おそらくは、何処かの組織の人間だろう。もしくは過去にそうだった。

 だがそんなことをどうでもいい、と彼は自分が思っていることに気付いていた。

 足はこっちを向いてしまったのだ。


「昨日は大変だったんだって?」

「聞いたの?」

「聞こえてきたよ」


 ふうん、と彼はうなづく。さすがに耳が早い。上の層の話が、きっとここに通う客の中にも入っていたのだろう。そうでなくイェ・ホウ自体が掴んだ情報とも取れなくもない。


「失望する?」


 彼は首を傾け、相手の方をじっと見る。見られた方は、だがそれに動じる様子はない。黙って首を横に振り、逆に彼に問い返す。


「どうして?」

「あまり気持ちがいいもんじゃないだろ? する側もさせる側も悪趣味だ」

「でも女の子を助けたかったんだろう?」

「俺はそんな善人じゃないよ」


 そうだ善人じゃない。あれは仕事だ。


「それじゃ何、君はそうしたかっただけ、というの?」


 彼はふっと目を逸らし、軽く伏せた。無意識だった。


「かも、しれない」

「ふうん」


 イェ・ホウの声が、変わらぬ軽さで彼の耳に飛び込んだ。と。

 くっ、と彼は自分の顎が強い力で動かされるのを感じた。


「じゃあ何で、目を逸らすのかな」


 大きな手が。


「……ホウ」

「こんな、綺麗な目なのにさ」


 彼は苦笑する。口の減らない奴だ。だが確かにそう見えているのかもしれない。あの時見た自分自身は、客観的に見たら、確かに綺麗だったのだ。


「……本当に」


 目を伏せたまま、彼はつぶやく。


「何で俺、ここに来たんだろうな」


 それは殆ど、自分自身に対する問いでもあった。迷いがそうさせるのかもしれない。自分にとっての、あの絶対的存在に対する迷い。記憶を自分自身にも隠したあの時、一体自分はあのひとに対して、どうすることを選んだというのだろう。

 単純に敵対するとか、単純にそのままついていく、とかだったら何て簡単で、何て気楽だろう。

 自分は迷っているのだ。ただ迷っているのだ。

 では何故迷っているのだろう。それは簡単だ。自分はまだ、あの盟主の口から、何も聞いてはいないのだ。


「……もしも」


 彼は相手の手が、顎から頬に伝うのを感じながら、言葉を探した。


「もしもあのひとが、本当に俺のことを……」


 駒としてしか思っていないとしたら。一欠片も、そこに、いれ以外の感情が無いとしたら。

 それだったら、自分はおそらく、あの組織を後にするだろう。


「こないだ君が言った、大切なひとのことかい?」


 そう、と言うつもりだった。だがそれは微かにうなづくことで返すしかできなかった。相手の指が、耳元にと移動していた。

 でもこれでは駄目なんだ、と彼は自分の中の叫ぶ声を聞いていた。

 相手の指が心地よい。そのまま、冷静な意識を飛ばしてしまう程、この目の前の相手がすることなすことは、ひどく心地よいのだ。

 でもそれではいけないのだ。それでは、あの旧友に自分がしていたことと同じなのだ。


 だって。


 彼は自分の混沌をすくい上げる。


 俺の身体は、どうしてここに向いていたんだ?


 彼は相手の手を取ると、そのまま自分の方へと引き寄せた。がたん、と相手の椅子が倒れる。パランスを崩した相手の身体を引き寄せ、強く抱きしめると、彼はやや驚いた顔の相手を真っ向から見据えて言った。


「あんたが好きだよ」

「……サンド」

「好きなんだ。あんたが欲しいんだ。どうしようもなく、今、俺は、あんたが欲しいんだ」


 そうだ、と彼は言ってから思う。


 身体が、一番良く知っているのだ。

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