でれみすさいもん

志菩龍彦

第1話 奇妙な死体


 陰気な雨の降る夜だった。

 閑静な住宅街に建っているアパートの二階で、その男は奇妙な姿勢で倒れていた。

 男の身体は、異常な程の海老反りになっていた。後頭部にペタリと踵がくっついている様子は、図形の「○」を思わせる。だが、人間の身体はそれほど柔軟にも器用にも出来ていない。彼の背骨は、明らかに砕け折れていた。

 しかし、何より異様なのは彼の肌の色だった。白蝋じみた不気味な白さは、そこに一切の生命の気配を感じさせず、全身の血が抜かれてしまったかのようである。パックリと開いた喉の切り口も色味を失い、どこかその肉体を紛い物めいて見せていた。

 不規則に明滅する蛍光灯の下、刑事の羽生融はにゅうとおるはにゅうとおるは魅入られたようにその死体を見つめていた。背広の下のシャツがジットリと濡れているのは、梅雨の蒸し暑さだけが原因ではない。無意識にネクタイを緩めてしまうのは、無性に息苦しさを感じるからだ。

「おう、来てたか」

 後ろから聞こえたダミ声に振り返ると、先輩刑事の大瀧重雄おおたきしげおが玄関で靴を脱いでいた。羽生より一回り年上で、幅の大きな体は特に腹が目立っている。しかし、蹲って作業している鑑識の職員を避けて近づいてくる動きは、意外に機敏でどこか若々しい。

「お疲れ様です」

 羽生が軽く頭を下げると、大瀧は手を振って応えてその隣に並んだ。羽生よりは頭一つ背が低いが、それで威厳が下がる訳でもない。顎の髭を撫でながら、死体をまじまじと見下ろしていたが、やがて呆れたように苦笑した。

「……何なんだ、こりゃ? こんな仏さんがあるもんかね?」

 羽生も同じ思いだった。刑事になってから何度も酷い現場には遭遇しているが、このような異常極まる死体を見たのは初めてである。何をどうすればこんな風になるのか、全く想像がつかない。

 鑑識の邪魔にならないよう死体の傍にしゃがみ込むと、大瀧は切り裂かれた喉の辺りを指差しながら、

「まあ、致命傷はまずこれだわな。ズバっと一発、相当な血飛沫が飛んだだろう。飛んだはずなんだが……」

 彼の視線に合わせて、羽生も狭い部屋の中に目を巡らせる。それこそ部屋中を真っ赤に染めてもおかしくない程の出血が予想されるのに、壁にも天井にも申し訳程度にしか血液は付着していない。畳にいたっては、シミ一つ無く綺麗なままである。

「別の場所で殺して死体を運び込んだってんなら、まだ納得出来るんだがな」

 意味ありげな目で見やる大瀧に、羽生は頷いてメモ帳を開き、

「第一発見者の大家が死体を発見する三十分前に、被害者が何者かと口論する声を、隣の部屋の住人が聞いています」

 薄い壁越しに、隣人は被害者の叫び声や誰かの不気味な笑い声を確かに耳にしたという。その後、猛烈な暴れる音がして、急に静かになった。暫くは様子を窺っていた隣人だが、怖くなり大家に相談。大家が部屋を訪ね、事件が発覚したのである。

 三十分という時間を考慮すれば、被害者が外で殺害され死体が運び込まれたという可能性は限りなく低い。といって、消えた血液の問題が解決される訳ではなく、何もかもが判然としない不可思議な状況だった。

 確実に解っているのは、死体の名前くらいである。

「財布に入っていた免許証によれば、被害者の名前は縄月宗一なわつきそういち。住所は県内になってますね。生憎と何の仕事をしてるかってのはまだ……。大家も彼のことはよく知らないみたいです」

「財布の中身は?」

「二万円と小銭が少々、あとはカード類です。犯人の指紋でも出てくれれば良いんですが……」

「望みは薄いだろうな」

 嘆息して立ち上がろうとした大瀧だが、ふと、何かに気付いて傍にいた鑑識の人間を呼んだ。大瀧の言葉に頷くと、彼は慎重に死体を少しだけ持ち上げた。死体と畳の間に出来た空間に、大瀧が手を突っ込み何かを引っ張り出す。

 大瀧が手にしていたのは、一冊の本だった。大きさはB5サイズ程で、年を経て変色した紙の束が和綴じにされている。表紙には崩れた字でタイトルらしきものが記されているが、容易には解読出来そうにない。

 大瀧は露骨に顔を顰めると、羽生を見上げ、

「これ、何て読むか解るか? お前、大学文系だろ?」

「すいません。流石に無理です」

 上から覗き込んだ羽生も、一瞥すると眉根を寄せた。大学時代は文学部の日本文学専攻に在籍していたが、専門は近現代で古典は門外漢である。必修科目として僅かに関わったのも昔の話で、今の彼にとって古文書の類いは暗号文と大差がない。

「……専門家に頼めば何とかなるだろうさ。貴重な証拠品になるかもしれん。この部屋にあるものにしちゃあ、変に浮いてやがる。臭うね、どうも」

 ジロジロと部屋を見回しながら、大瀧は言った。それを聞いて首を傾げていた羽生だが、大瀧の視線を追う内に、その言葉の意味が何となく飲み込めてきた。

 隣人の証言によれば、相当な格闘があったはずだが、部屋の中はそこまで乱れているように見えなかった。というよりも、そもそも、散らかる程に物がないのだ。箪笥も無ければ、食器棚も無く、壁にかけられたハンガーが唯一の家具と言っても過言ではない。テレビや雑誌といった娯楽の類いも無く、空き部屋と言われても信じてしまいそうである。

「寂しい部屋ですね」

 蛍光灯の白々しい光に目を細めて、ボソリと羽生は呟いた。

 生活の匂いが希薄な部屋だった。腰を落ち着けて生活しようとする人間の意思がまるで感じられない。この部屋で暮らす被害者の姿が、上手く想像出来なかった。

 そんな中、被害者の下敷きになっていた古書は、確かに良くも悪くも目立っていた。被害者である縄月宗一という個人に繋がる何かが秘められている可能性は高い。大瀧が注目するのも当然だった。

 逆に言えば、たかが一冊の本が目立ってしまう程に、この部屋は無味乾燥過ぎるのである。ここに比べれば、羽生の家はあまりにも生活感で溢れていた。家具類は言うに及ばず、妻の服だの、娘の玩具だの、足の踏み場もありはしない。そんな騒がしい場所に比べると、この部屋の静けさは薄ら寒いものがある。

 家族のことに思いを馳せていた羽生は、無意識にスマホを取り出して画面を眺めていた。そこでは八歳になったばかりの娘が無邪気な笑顔を浮かべている。誕生日の時に撮った写真を壁紙にしているのだった。

 愛娘の笑顔に自然と頬が緩みかけていた羽生は、ふと、この部屋で発見されたもう一人の人間のことを思い出した。

「大瀧さん、例の子は今どこに?」

 鑑識の人間と何やら話し込んでいた大瀧は、尋ねた羽生の方を見ようともせず、ぞんざいに親指で外を指差し、

「下のパトカーの中。婦警が一緒だ。取り敢えずは、児童相談所で保護だろうな」

 大瀧に礼を言ってから、羽生は人いきれで熱気の籠もる部屋から外に出た。

 降り続く雨のお陰もあって、外の方がまだ多少は涼しい。パトランプの赤い光が切り裂く夜闇の中に、何本もの花が咲いていた。物好きな野次馬達の傘の群れである。足下の悪さも気にならないのか、遅い時刻なのに結構な人数が集まっていた。彼等の下世話な好奇心には呆れる他ない。

 忌々しげに彼等を一瞥し、羽生は足音も高く赤錆びた階段を降りていった。地上に着くと、背広が濡れるのも構わず、停まっている一台のパトカーの中を覗き込んだ。

 車内灯に照らし出された後部座席に、制服姿の婦警に付き添われ、一人の幼い少女が座っていた。

 歳の頃は十歳前後で、何処か日本人離れした顔立ちをしている。背中まで伸びる黄金の髪は、染色ではなく地毛なのかもしれない。長い睫毛の下で、円い瞳が呆然と見開かれていた。小さな唇をキュッと結び、膝の上で両手をきつく握っている。群青色の袖無しワンピースからのぞく細い両肩は、カタカタと小さく震えていた。

 そんな彼女の様子を、羽生は痛ましげに見つめていた。

 少女は、事件の部屋の押入に隠れていたところを駆けつけた警官によって発見された。 

 保護されてから現在に至るまで、己の名前はおろか一言も言葉を発していない。医者の診断はまだだが、精神的なショックを受けての一時的な失語症状態の疑いがある。

 今のところ、彼女が何者であるかは全くの謎に包まれていた。当然、縄月宗一との関係も不明である。警察としては、彼女が落ち着くのを待つしかなかった。当事者である彼女の証言に期待したいところだが、無理強いは出来ない。

 パトカーからそっと離れて、羽生は明かりの漏れる部屋を見上げた。

 あの異様な死体を、一体誰が作り出したのだろうか。

 あの異様な死体を、一体どうやって作り出したのだろうか。

 あの異様な死体を、一体何の為に――。

 後から後から湧いてくる疑問に、頭が熱を持ったようにぼうっとしてくる。羽生は脳髄の痺れを払うように頭を振り、二階に戻ろうと階段に足をかけた。

 その時、階段と階段の隙間から覗いた地面で、何かが煌めいたように見えた。思わずその場に腰を落とし、隙間に顔を近づけてみる。

 暗い空間に差し込むパトランプや街灯の光が、確かに何かに反射している。その何かは、ゆっくりと動いていた。輝く鱗を纏った太く長い胴体をうねらせながら、湿った地面の上を這いずっている。光の加減のせいか、頭は見えず尻尾も見えない。見えるのは胴体だけのソレが、誰も見ない、誰も気にしない夜の影の中を潜るように移動していた。

 羽生は息をするのも忘れて、ソレが消えるまでの間、ッと眺め続けていた。降り込む雨に背中が濡れるのも気にせず、ひたすらに。

 何故、目が離せないのかは、彼にも説明出来なかった。不安とも焦燥ともつかない、奇妙な感情がそうさせたのだろうか。

 本能的な欲求、或いは衝動が、彼を忘我の境地へと駆り立てていた。

 彼は呪われたように見つめ続けた。

 夜を這う者の姿を。


                                  つづく

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