阿陀仁の蕩散(二次創作『荒絹』)

 昔々、ある山のふもと阿陀仁あだにという一人の美しい牧童があった。阿陀仁には美しい許婚いいなずけがあり、その少女は機織はたおりの名手であった。少女は日がな一日、その腕を振るって一帳ひとはりのとばりを織っていた。このとばりが出来上がれば、二人は結ばれて、そのうちで逢瀬おうせのときを過ごすのである。とはいえ、二人は許婚であり、やがて結ばれることになっているくらいであるから、身分違いの恋というわけでも、道ならぬ恋というわけでもなかった。少女が逢瀬のためのとばりを織っていたのは伯父の言いつけであった。阿陀仁は牛を連れて毎日々々、山へ登って草を刈り、ついでにこしらえた花束を女神のやしろに捧げていた。この伯父は、自分の社を訪れる美しい阿陀仁にれた山の女神が、二人の恋の障害になることをわかっていたのである。女神の嫉妬は若い二人の恋を歪める呪いであった。阿陀仁は未来の妻がとばりを作り上げるその日を心待ちにしながら、牛たちと山へ登り、一番美しい花束を少女が機を織っている屋敷へ投げ入れていた。この一番の花束は、阿陀仁が許婚と出会う前には、女神に捧げられていたのである。


 しかし、待てど暮らせどとばりが出来上がったという知らせはない。不思議に思った阿陀仁は許婚の伯父を訪ねて、少女の様子を確かめるように頼んだ。伯父は阿陀仁の頼みを聞いて少女の屋敷を訪れた。

 しばらくして、阿陀仁はこの伯父から一方的に縁談の破棄を勧められた。許婚はいなくなってしまった。失踪したのだと告げられたのである。阿陀仁は悩み苦しんだけれども、それでも諦めきれず、少女の行方の心当たりを伯父に尋ねた。伯父はしばし物思いにふけっていたが、やがて決心したように阿陀仁を少女の屋敷へ案内した。

 屋敷はうらぶれて、あちこちに蜘蛛の巣が張ってあった。そして、日の光をさえぎられた部屋の中には、少し虫に喰われたとばりがあった。とばりの上の方は可憐で情熱的で春の詩のような淡い恋の色合いに満ちていた。しかし、三分の一を過ぎたあたりから、そのとばりはどす黒い泥にかったかのような、妖しげで毒々しい色へと落ち込んでいた。阿陀仁はそのとばりを手にとって、しばらく呆然とそれを眺めていたが、徐々にその焦げ茶色の瞳はとばりの下の方と同じようなにごりを帯び始め、次第に深い暗闇へと落ち込んでいった。しかし、その瞳は異様な輝きをたたえており、伯父はそんな阿陀仁を目の当たりにして不気味に思いながらも、彼の許婚の行方について知っていることを教えてやった。伯父は阿陀仁に言われて少女の様子を確認しにきたおりに、屋敷から山へと続く糸を追って少女の隠れたところを突き止めていたのである。阿陀仁は山中の洞窟に許婚が隠れていることを知って直ぐに駆け出した。伯父は、くたびれた機の前で独り取り残されて、恋人のもとへ向かう阿陀仁の背を見送った。あの子は女神の嫉妬の呪いにかかってみにくい姿に変えられてしまったのだ、と伝えるのを躊躇ためらったまま。


 阿陀仁は伯父の言った通りの道で、いつもとは違い牛を連れずに山を登った。山の上の女神の社までやってきて、それからその裏の、日が差さず、花も咲かず、鳥たちのさえずりすら聞こえない荒凉たる山肌に、一つの洞窟が黒々とした口をぽっかりと開けているのを認めた。阿陀仁は伯父の言ったところに間違いないと確かめて、尻込みすることなく洞窟に入っていった。




 洞窟の中には無数の糸が縦横無尽に張り巡らされてあった。奥の方へと一歩踏み込むごとに身体中にそれがからみついてきて徐々に自由を奪ってゆく。そうして、私はその奥に愛しい彼女あなたの瞳を見た。私は彼女あなたの方へ手を伸ばして、そこで糸に絡め取られて身動きもままならないのであった。彼女あなたはゆっくりと私の方へってきて、両手に持ったおさを器用に扱って、私への想いをの体へと織り込んでゆく。私の体はみるみるうちにまゆのようになって、彼女あなたのとばりのうちへと包み込まれていった。私はすっかり彼女あなたの糸にいだかれて、その私の上に彼女あなたまたがっている。私は彼女あなたぬくもりを感じながら、しゅぅしゅぅという吐息を耳元にささやかれて少しずつ沈んでいった。私の胸郭に突き立てられた熱い接吻。彼女あなたの口内からあふれ出た唾液が、私の体内を満たそうとする。少し、ほんの僅かだけ、じくじくと内臓がうずいていた。彼女あなたは私のしん穿うがち、ねぶるようにちぅちぅと私の体液をすすり上げる。私はすがるように身をよじりながら、彼女あなたの中に流れ込んでゆく。彼女あなたの長い腕の中でとろとろにとろけながら、女神の手の届かないところへ、彼女あなたの、いとおしい私の恋人、荒絹あらぎぬの胎内へ、永遠の恋の中へと微睡まどろみはじめる。

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