短編集『彼此』

琴波 新 (水)

南海白夜

 いずれ、雪が降るのだろう。

 雲はその灰色の体でそのように語っていた。

 空はまだ明るく、ずっと明るいままであるように感ぜられる。

 おそらく、遠くの稜線上にて、すっぽりと雲に覆われたお日様が、沈むまいと踏ん張っているのだろう。

 太陽はだらだらと抵抗を続けながら、地平線に沿って転進を繰り返す。


 冷たい風が、甲板に彳む私、私たちの、わずかに露出している目や耳なんかをちくちくと突き刺して、鋭角に逃走する。

 陽光は遍く此処を照らし上げて、私は終わり続けている逃避行の最中にある。

 やがて、私はこの光の中を歩み始めることができるのだろうか。

 想いや私など、どれも蜃楼の如く移ろう。

 まだだ。

 まだ、捕まるわけにはいかないらしい。

 全てを白昼の下に還すことはできない。

 此処私たちがいつも既に生き就いている哀鴻遍地。

 いくつもの私が折り重なって累々としているようである。

 延々と訪れることのない夜を追って、私は甲板に立ち尽くしている。

 南の海で冬至の雲に見下ろされて、ぼぅと逃げている


 波の向こうで、緩やかに溶け出した砂糖鯨が、水に溶けた塩と戦って、そのシェアを競っている。

 数秒にも及ぶ激闘の末に、ほのかな甘い香りが立罩める。

 香りは冷たい風に乗って灰色の雲に吸い込まれて、やがて、ゆっくりと、甘い、甘い、あまい粉雪が、曖昧な薄光を連れて甲板に、私に降り注ぐのだろう。


 此処の、へらへらとした妥協の中で、やがて、雪が降るのだろう。

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