第四十一話 女将の占い

 みんなで夜中三時まで部屋で飲み明かしたのは私の作戦だった。三人を酔わせて眠らせ、起きてこないのを確認すると、朝六時過ぎに私は荷物を置いたままにして旅館を出た。自分の意志を自分で確かめたかった。みんなのところに戻れるか戻れないか、一人で考えたかった。


 確かに嬉しかった。カンナ、三島、漆原に心配されて、信頼できる仲間がいたということが分かって、本気で嬉しかった。流した涙に嘘はない。でも、私は別に癒やされたかったわけでもない。むしろ、心の何処かで誰かに癒やされること、或いは自分の苦しさに共感を求めていた。助けて欲しいと心の中で叫んでいた。だけど、その自分自身がたまらなく嫌だった。


 姉を殺したのは私だ。姉殺しの罪に向き合おうとせず、延々と逃げ続けたのがこの私の正体なのだ。必死で私を囲って庇ってくれたのに、あんなに辛い目にあっても私を守ってくれたのに、私は姉を守るどころか殺して逃げたんだ。確かに、酷いのはあの義父だけど、あの時、私が誤った選択さえしなければ姉は死なずに済んだのだから。やらなければお前を犯すという暗黙の脅迫に私は屈したのだ、姉は何度も自分が犯さえれて耐えていたのに。


 絶え間なく甦る昔の記憶に苛まれ続け、時折路上で立ち尽くしたり、しゃがみ込んだり、自分で身体がうまく制御できない。目的地にはそんなに遠くはないのだけど、まだ夜明け前の寒空の下、熱海といってもその南外れに位置する海岸近くの辺鄙な場所。路上には私以外には誰もいない。道の片側は鬱蒼と木々が茂る林になっていて、反対側は海に面した絶壁。


 辿り着いたのは、その絶壁の上に設けられた展望台になっている小さな公園だった。観光シーズンでもないし、辺鄙な場所だから、私以外こんな朝早く来る人はいないだろう。水平線の向こうは少し明るくなってきているようで、旅館を出た時に見えていた夜空の星ももうあまりなかった。海は穏やかだったけど、絶壁の岩場に打ち付ける波の音ははっきり聞こえる。私は、ベンチに腰を下ろした。


 自殺しようと思ったわけじゃない。以前に浮気調査で熱海に来た時に、調査対象の旦那の相手の女が、たまたまここで自殺すると言って喚いてその旦那を困らせていた、それを覚えていたからここに来たまでだ。でも選択肢の中になかったとは言えない。死ねば天国にもしかしたら行けて、姉にお詫びできるかも知れない、などと考えたり。多分ここから海面まで十メートル以上はあるよな……、下は岩場だし、一撃で――。


「あら、そこにいたはるの、お客さん違いますか?」


 その声に心臓が飛び出るかと思うほどびっくりした。ベンチから振り返ると、展望台に来るために降りてくる階段に私が泊まっていた旅館の女将さんが、スウェットの上下にダウンジャケットを羽織って、ゴールデンレトリバーを連れて立っていた。まさか人が来るとは全く思っていなかったのだけど……。


「おはようございます」

「おはようございます、隣に座らせてもらってよろしい?」

「……どうぞ」


 女将さんはそのゴールデンレトリバーをベンチの前に座らせて、私の左側に座った。


「いやぁ、お客さんが朝早うに散歩しにいかはったってうちのもんが……、ああすみません、私、京都生まれの京都育ちなので、旅館の外ではどうしても京都言葉になってしもて」

「そうなんですか。別に京都弁で全然構いませんよ?」

「そうでっか。すみませんね。ほな京都弁で……、別にお客さんを追っかけてきたわけやないんですけど、朝の散歩がてらにふらっとこっちに寄ったらお客さんいたはったから声掛けさせてもらったんですわ。無粋でしたかねぇ?」

「いえ、別に……」


 一人にしておいて欲しかったのだけど、口に出して言えない……。


「それで、ちょっと言いにくいですけど、お客さんに言わせてもろうてかましまへんか?」

「は? ……何の話ですか?」


 いきなり変なことを言うなと思ったけど、女将さんを見るとじっとこちらを真剣な眼差しで見ている。ちょっと怖いんだけど……。


「ここへ来はったんは、あれでっしゃろ? そこからドボンと飛び込もうと」


 なっ? 突然何を――。


「その顔は図星ですな。いやいや、別にそんな、気分悪くせんといて下さいね。昨日言うたでしょ? あの若造ちゃんを見つけた時に、私、占いやってるって。お客さんの顔見たら大体わかってしもうたんですわ。元々、人相見るのが本業なんで」

「はぁ……」

「勘違いせんといて下さいね。そう思ってはっても止めよう思うて言ってるんじゃないですからね。そんな自殺しようとまで思いつめてる人なんか、簡単に止められへんし。相当きついお悩みなんはわかってます。自分の話しさせてもろてよろしい?」

「ええ、別に良いですけど」

「すんまへんなぁ、タバコ吸わせてもろうてよろしい?」

「どうぞ」


 女将さんは、ダウンジャケットのポケットからタバコの入った金属製ケースを取り出して、そこから一本タバコを取り出し、同じそのケースの中に入っていたジッポライターで火を着けた。


「私もね、五年前にここから飛び込もうってしてたんですわ」

「……」

「それまで京都で占い師やってまして。結構評判でしたんですよ、……ああ、お日さん上がってきましたね」


 水平線を見ると、雲の切れ間からまばゆい陽光が見え始めていた。


「でもね、ある人に騙されてね、偉い借金背負わされてしもうて、ここまで逃げてきたんですわ。借金より、その人に騙されたのがショックでね。まさか占い師の私が、信頼していた人にころっと騙されて何もかも失って、……悔しくてね。失意のどん底っていうんですかね。誰も信じられなくなって、自分自身も信じられなくなって、もう、どうしようかってね。ちょうどお客さんもそんな感じでしょ? 自分を罵りたくなる、みたいな。違う?」

「……」

「まぁ人それぞれやと思いますけどなぁ、とにかく、私もお客さんとちょうど同じ部屋に泊まってたんですわ。ほんで、そこからお客さんみたいにここまで来て、もう死のうかってここで迷ってたら、旅館の先代のオーナーさんが声掛けてくれはったんです。それで、その時のこと思い出したんですわ、お客さんもその時の私とちょうど同じところに座ったはったんで。せやからある意味、私はお客さんの先輩ですねん」


 女将さんはそう言って、私に笑顔を見せた。でもそんな顔を見せられても、愛想笑いですら今の私には出来なかった。それが気不味かったので、前にいた大人しく座っているゴールデンレトリバーの事を話して誤魔化そうと……。


「大人しそうなワンちゃんなんですね」

「大人しい言うか内気なんですけどね。……ほら、ミッチ、お客さんにご挨拶しなさい」


 ミッチと呼ばれるそのゴールデンレトリバーはゆっくりと立ち上がって、私の直ぐ側でまた座ると、私を見て首を一回、まるで人間が頷くような仕草をした。それが可愛くて、思わず私はその頭を撫でてあげた。女将さんは吸っていたタバコを携帯灰皿で火を消した。


「……それでね、先代は私に、死ぬんやったら死んでもいいけど、その前に、うちで働いてくれないかって、言わはったんです。アホか思いましたわ、そんなん言うて自殺止めたいだけやろって。でもまぁ、そうやって説得されてる最中に、そう言えばまだ旅館で夕食食べてなかったなぁと思い出して、私もアホですわ、死ぬ前に美味しいもん食べといてから死のか、思いましてなぁ。うちの旅館、お食事美味しかったでしょ?」


 味なんか分からなかったし、半分も食べずに食べた分も全部吐いてしまっていたけど、まぁ不味くはなかったなと、私は頷いた。


「それで、先代に説得されたわけやないんですけど、その場は飛び込むの一旦やめて、旅館に戻ったんです。そしたら、びっくりですわ。ほんまにその日で私の前の女将さんが辞めはったんです。なんや先代のオーナーと喧嘩したらしくって、急に辞められてしまうから、大事なお客さんも来るのでって、私に何もわからんでも良いからカッコだけでも女将さんやってくれって。先代、本気やったんですわ」


 太陽はすっかり東の空に顔を出していた。十分防寒してきたけど、ここへ来る前よりかなり冷え込んで鼻水が流れてきたので、ハンカチを取り出して鼻に押し当てた。


「それでいつの間にか五年も経ってもうた、って話ですわ。先代のオーナーは去年亡くなりましたけどな。まぁそんなこんなで、前の辛いこと忘れたわけやあらしまへんのやで。それからも何遍も死のうかってここに来て……。でも、来る度に次にしよ、次にしよって、先延ばししてきただけで……。なんかね、死なれへんのですわ。なんやようわからんのでっけどな。別に女将さんずっとやりたいわけでもないんですけど、なんかこう、どうしても死んだらあの世で後悔するんちゃうかって。私やっぱり、悔しい思いするのは嫌ですねん。死んでから悔しい思いしても、どうしようもあらしまへんやろ?」


 ……まただ。お父さんの言葉と同じ。後悔だけはするなって。どうしてこの言葉が私にそんなに響くんだろう?


「せやから、もしかしたらこれも運命かもしれまへん、こうして私が死のうと思ったこの場所で、お客さんみたいな後輩に出会えたってこと。出会いって不思議ですなぁ、そう思いまへんか?」

「はぁ……」

「つまりや、私は人相見て人の悩み事見抜いたり相談したりするのが得意ってこと。もしそれで、お客さんにまだ死なれへん理由見つけられたら素敵やと思いまへんか?」


 死ねない理由? そんなのあるの? ……ぽかんとしていると女将さんは唐突に私の顔を両手で挟むようにして、女将さんと向き合うようにした。


「しっかりこっち見て。力抜いて、……ふーんなるほど、よしっ、今度は両手見せて」


 私は両手を素直に差し出した。占いなんか信じたことないんだけど……。


「ふーん、そうか。よしっ、大体わかったわ。あなた、もしかして、同い年の男の御兄弟いるでしょ? 双子かな?」


 はぁ? ったく、これだから占いって信用……、いや待て、それってあいつのこと?


「その顔は当たったみたいね。どうしてその御兄弟のことをあなたは信じないの?」

「え……、信じないって、意味がわからないんですけど?」

「そうかな? たしかにあなたは酷く辛い過去を抱えているんだと思うけど、その過去は同じように御兄弟もご存知なんでしょう?」

「ご存知……、と言われても」

「どっちなの? それはあなた御自身がよく分かってるはずよ? ちゃんと出てるんだから。その御兄弟の知ってることを聞かないで死んだら、あなた後悔するわよ?」


 嘘みたいだ。占いなんか信じないと思ってたのに、バッチリ当たってる。そうだ、私はまだ、慶一郎の言った「真実」を聞いてなかった――。




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