第1章08話 「唯一の特異点」

あらすじ

アオハルが予想外に発生した

―――――


 キャンバスのような少女だと、何度も思う。


 真っ白な紙には鉛筆の色もなく、誰も汚すことができない純正の白。

 無垢であるわけでもなく、高貴であるわけでもない。

 清純であるかといえば、そうでもない。


 だが、彼女はキャンバスなのだ。 

 だれかに汚されるのを待っているといった風の、真っ白で薄っぺらな紙なのだ。


「彩さま、大丈夫ですか」


 思考の合間のノイズ。かたむける価値もない、音色。


「ああ、まあ、うん。だいじょばない」


 けれどもそれは心地よくて、だから彼女に縋ってしまうのだ。


「それはよかったです」


「よかねぇよ。ほんと、マツリさんはマツリさんですねー」


「そうですよ。ですが、彩さまは一歩進みましたね。従者としてうれしい限りです」


「うれしいなら少しは表情に出せよ。正直、蔑まれているようにしか思えない」


「……わかったのですか」


「わかりたくありませんよーだ」


「いえ、いつもながら見境がないブタ野郎なんだな、と」


「………」


 軽口を叩こうとして、声が出なかった。

 何気ない言葉が、それでも的確に彩の急所をえぐる。


「後輩に告白されて浮かれていたのですか? その原因が何なのかもわからずに?」


「……やめてくんない」


「美少女であればだれでもいいんですよね、彩さまは」


「そんなこと……」


「ない? ないわけないじゃないですか。さきほどのやり取りを忘れたのですか? 本当にどうしようもない鶏だこと。三歩歩いたから忘れてしまったんですか?」


「………」


 八尋彩はろくでなしだ。くそ野郎だ。倫理観まる無視の非人間だ。

 それを知っているのは、彩だけではない。マツリも深く知っている。


「マツリ」


「なんでしょう」


「その薄い胸を貸してくれ」


「セクハラですか? 今では彼女ができたのに、もう浮気ですか?」


「うん。そんな、とこ」


 理由なんてどうでもよかった。

 そもそも、そんなものいらなかった。


 言葉は続かず、想いだけは続く。

 すべての原因は幸路あざねだ。あの少女が八尋彩を葛藤させる。

 今はもう、泣きじゃくることしかできなかった。



 *   *   *



 ふと、我に返る。


「俺はなんでここにいるんだ」


 いや、正確にはなぜこの家の主は自分を忌避しなかったのか、だろう。

 見るからに怪しい風体で、常に黒衣で顔を隠している。

 そんな人物を受け入れるだろうか。

 どれだけ心が広いというのだ、六堂院清順。


「ま、どうでもいいか」


 それだけで済ませてしまうというのも殺し屋という職業に置いている身を考えれば、いささか楽観主義がすぎたが、彼の実力を知るものならその性格であっても頷くだろう。

 そんな殺し屋はというと、広さはそこらの銭湯ぐらいの風呂へ入っていた。


 温泉を引いているわけではないだろうが、バスタブよりも快適だと感じるのは、橋渡結の錯覚ではないだろう。

 開放感あふれる風呂で、結は顔を黒衣でおおったまま浴槽に浸かっていた。


 ただ鍛え抜かれ、引き締まった身体は筋肉質で健康的であるのと同時に、いくつもの修羅場で負ったのであろう傷跡が無数に残っていた。

 かつての痛々しさを感じさせるが、今では皮膚も生え変わり、痛むこともなかった。


 静寂で包まれた浴場はなにか儀式的にすら感じられたが、結はそんなことにも気を留めず、身体がほぐされていく快楽に身を任せていた。


「ああー」


 たまにはこんな休日もいいか。

 そんな思考をさせる程度には、この殺し屋も精神を削っていた。


 来る日も来る日も、最近は業界が物騒になってきているようで、連日にわたる殺しの依頼はほとんど別の依頼主によってのものだ。

 儲けどきといったら楽観的過ぎるのだろう。


 事実、橋渡結というしがない殺し屋もまた、ひりひりとした危機感を覚えていた。

 そう、ひりひりと嫌な予感があった。


「あ?」


「え?」


 ただ、命を左右することはいつでも理不尽に訪れる。

 知っていても対処できるとは限らないし、備えていたとしてもいつ起こるかがわからない。


「……俺は悪くない。悪くないが、謝っておく。申し訳なかった」


「───」


 タオル一枚しか装備のなかった関原ひびきは、顔を赤面させたまま、しばらく硬直した。


「………」


「………」


 無音が居心地悪くなって、ひびきはかぶりを振るとタオルで身体を隠しながら、シャワーを浴び始めた。


「見たら殺すから」


 そんな言葉のあとは水がタイルに跳ね返る音だけが続いた。


 もっとも無防備な瞬間は、食事、睡眠、排泄だと聞くが、ある意味では身体をあらためる入浴という行為もこれに限定されるのでは、と結はふと思った。

 長い髪をつたう水滴と、やわい肌を流れる温かさ。

 本能的に水を防ぐ瞳は瞼によっておおわれ、髪からのぞく耳もシャワーによってその機能をかき消される。


 禊という儀式は、たしか神に身をささげるためのもので、神に能うように格を高めると同時に歯向かう意思を拭い去る場でもあるはずだ。

 なるほど、そういうことであれば、もっともこの場で優位なのは結なのだろう。


「……休暇はいい」


 暗器がなくてよかったとつくづく思う。

 もしも武器があったのならば、結はここで彼女を殺していただろうから。


 武器がなくては男女の差を考えても実力は五分。むやみに殺しはしないのが、彼の聖一杯の人間性だったが、脅威足りえるものは削除しなくて生きていけないのもまた道理。


「なあ、おい」


「なんだ」


「おまえ、別嬪だな。自分の身体はきちんと大事にしろ」


「───。きゅ、急になに? セクハラ? 殺すけれど」


「急くな。俺とて死地に立ちたいとは思わない。命は大切にしろ。……まあ、俺がいうのもおかしな話だが」


「そういえば、あんたとはゆっくり話もしなかったわね」


「そうだな。それで一緒の風呂に立ち会うとはおかしな話だ」


「そうね」


 髪を洗い終え、身体をそそぎ、タオルで髪をまとめたひびきは少し頬を赤く染めながらも結の浸かる浴槽から離れたところで湯につかった。


「年頃の淑女ならば、むやみに男に肌を見せるものではないと思うが」


「命のやり取りをしようとしている相手を男女で判断するほど、私は常人じゃないの」


「羞恥があるなら引くべきだと思うが」


「しゅ、羞恥じゃないし。暑くて身体が火照っているだけだし」


「………」


「………ていうか、なんでお風呂にまで顔を隠しているのよ」


「俺は殺し屋だ。つまり、そういうことだ」


「意味わかんないわ」


 浴槽の端と端で、互いに相手を見ずに会話をする姿は何とも奇妙だったが、殺し屋と用心棒の距離感だとしたらこれは間違いでないのかもしれない。


「ひとつ、聞いていいか?」


「質問にもよるわ」


「八尋彩について、どう思った」


 その問いはひびきの顔色を変えさせた。

 それは背中合わせの結にはわからなかったし、本人でさえどんな顔色をしているのか想像もできなかったが、確実に感情が切り替わった。


「あんた、八尋を殺すの?」


「状況次第ってとこだ。なんだ? あいつのことが好きなのか?」


「好悪は複雑だけれど、八尋は私の友達なの。傷つけることは許さない」


「そうかい。なら、できるだけ殺さない方針で行くかな。嬢ちゃんとは殺り合いになりたくないしな」


「……その、嬢ちゃんっていうのやめてもらえるかしら、気持ちが悪いわ」


「俺は嬢ちゃんの名前を知らん」


 その言葉の意味を察して、少し言葉を濁した。


「私はカナデ。それだけよ」


「了解した、カナデちゃん」


「そっちのほうが気持ち悪いのだけれど」


「そういわれてもな」


「……まあ、いいわ。で、八尋をどう思ったか、だったかしら」


「ああ、俺はあいつをよく知らんが、どうにもおかしいように感じた」


「私も、業界にかかわっていると知ったのはついさっきなのだけど、確かに異常だったわね」


 あのときの顔は、どうしようもなく記憶にこびりついていた。

 吐き気を催したかのような顔色に、心を失ったかのような瞳孔。


「ねえ、聞いてもいいかしら」


「どうぞ」


「あの子、幸路あざねって子のこと、知っているんでしょう」


 結局、行きつくのはその名前。

 それが一番の問題点で、だれにとっても少女であるとしかわからない一般人。

 それこそが、唯一の特異点。


 単純だった話を複雑怪奇と化させた、ただの少女だ。

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