プロローグ「記憶」

あらすじ

青いシチューを食べた

─────


 記憶というものは少々いびつな形をしている。

 そもそも有形の概念ではないそれは、時間とかというものと同様に人間の信仰により生じた何ものかなのだ。

 過去の蓄積とも、現在の存在理由とも、はたまた未来への切符ともいわれている。


 たとえ話なら、昨日食事をとった、ということを題材にすればわかりやすい。

 無論、彩という少年が三日ほど前に食べてしまったシチューのような何かのことは忘れてあげて欲しい。本人の記憶から抜け落ちることはないだろうが。


 過去の蓄積として、その「昨日食事をとった」という事象が記憶に残る。

 現在の存在理由として、「昨日食事をとった」のだから今朝はそこまでの空腹を覚えない。

 未来への切符として、「昨日食事をとった」時点でそれ以降のしばらくは空腹にならない。


 ただの言葉の綾ともいえるし、そうでないともいえる。

 なぜなら有形の概念ではない、無形の概念であるがゆえに。

 それではいびつな形もあったものではないではないか、といわれてしまうのだろう。


 ただそれを例外とするものがある。

 魔術、というものが代表視されるだろうか。


 無形の概念を操るスペシャリスト。

 記録と記憶に特化した魔術師、八尋彩にとってしてみればどうしようもなく形が存在してしまっているのだ。






幸路ゆきみちあざね、という少女を知っているかい?」


 知らない、とマツリが首を振るまでもなく、彩は知らないよね、と断言した。


「幸福の幸に道路の路、ひらがなであざねと書いて、幸路あざね」


 出生は二〇〇四年の八月九日で、現在十五歳。

 身長、体重、スリーサイズはまでは語らなかったけれど、勝気な性格で負けず嫌いだということと気配りのできる点を挙げていた。


「勝負事ではあきらめが悪く、それでいて他人を見ることもできる。なかなかどうして、僕たちとは正反対だね」


 家族構成は父親と母親を持つ核家族で、父親と母親は夜遅くまで共働き。

 そういう環境にあったからか、幸路あざねという少女は幼少から料理や家事などが得意ならしいことも、彩は語った。なんでも幸路あざねの肉じゃがは絶品らしく、機会があればご馳走してもらいたいものだ、と冗談紛れにうそぶいた。


「好奇心というものはだれもが抱える悩みの種だろうけれど、幸路あざねも人並、いやそれより少し大きいそれを持っていた。奇異に映ったものを追いかける程度の、やや夢見がちで、けれど平凡な少女だった」


 幸路あざねの、平凡な日常とやらは儚くも崩れ落ちた。

 塾の帰り道。物音がする路地に踏み込んでしまったがゆえに。

 かくも簡単に、現実は壊れるのだと齢十五の少女が知る由もなく、いつの間にか壊れていた。


「マツリは橋渡はしわたりむすぶという殺し屋を知っているかな」


 首を横に振る。殺し屋というものはたしかに業界では一般的な部類の単語だったが、フリーの魔術師をしている彩ほど業界に詳しいわけでもなかったのだ。


「ワンクリックで商品が届く世の中になったわけだけれど、それくらい気軽に、かつ表に顔を出さないように処理する。ここらでは結構有名なほうの殺し屋だそうだよ」


 幸路あざねは非日常に踏み込んだ。

 ただ幸運とも不運ともいえるのは、幸路あざねは死ななかったことか。


 死地は決まっていた。運命は確定していた。

 けれど、それを許さなかった人物がひとり。


「結論からいうと、二度、僕が介入して助けてあげたのが幸路あざねっていう子なんだ」


 一度は、路地で。一度は、病院で。


「まあ、恩をきせるような意味じゃない。もう彼女は僕を忘れている。僕を知らなかったことになっている」


 怪物からその命を救ったことも。病院で殺し屋を退けたことも。

 幸路あざねは知らないことになっている。いや、そもそも何も起こっていないことになっている。

 記録と記憶に特化した魔術師、八尋彩にとっては日常の一部といっても過言ではない。


「かわいい子だったから助けたのでしょう? まったく見境がないですね、彩さまは」


 記憶を言葉にすれば、それは無形の概念になり下がる。

 それでも彩は言葉にせずにはいられない。それを知っているからこそマツリという少女は何をするでもなく、冗談をほのめかす。


「人を盛りのついたネコみたいにいうんじゃない」


「かわいかったのは認めるのですか」


「ま、まあ、美少女だったのは認めよう。うん」


「………」


「おい、無言で距離を取るな。果物ナイフを武器代わりに身構えるな」


「貞操の危機を感じましたので」


 思春期盛りの少年と少女。広い部屋にふたりきり。もちろん何も起こらないはずがなく──


「感じるなよ! おまえとふたりで住んできて貞操の危機なんてなかっただろうが」


「そうですよね。彩さまは童貞ですものね。わたくしみたいな美少女相手に何かできるはずがありませんでしたね。失礼しました」


「勝手に納得しないでくれるかな?」


「童貞であることは否定しないのですね」


「うっ」


 八尋彩にとって記憶は有形のものだ。

 彼に経験がなかろうと記憶はある。記録が残っている。

 それを知っていてなお、マツリという少女は踏み込んでいく。地雷を踏み潰す。


「お、おまえだって処女だろうが!」


「ええ、何か問題でも?」


 論破された。

 結局、今日も今日とて日常は過ぎていく。

 彩がマツリに口げんかでボロボロにされて終わり。

 軽微にしか変動しない無表情の漸化式のような表情は、それでも八尋彩の日常をいろどる可憐な花のひとつにすぎない。






 彩はそれを「自己の分別」と呼んでいる。

 だからマツリもそれをそう呼び、認識している。


 八尋彩という人間の意味のないような言動が、すべて意味あるものに変わってしまうのだと知っているし、かわす会話がどれだけの意味を持つことになるかも知っていた。


 妄想のような、決して妄想ではない話。

 だれもがあたりまえのようにわかっていて、けれど彩しか認識できない世界のことを。


「少しだけ筋肉質になったでしょうか」


 ベッドの中、背後からしがみつき寝息を立てる彩の腕を撫でて、マツリは独り言ちた。

 機械のように表情は変わらず、けれど彼女は心の中で優しくほほえむ。


 人の記憶を垣間見るのは、人にはできない。

 他人を理解することも、できやしない。


 できるのはたったひとり、八尋彩だけ。

 他人を理解することでしか自分を存続することができなくなった壊れた機械に、それでも彼女は寄り添うと決めた。

 それは変わらず、だれよりも八尋彩が知っている。


 記録と記憶に特化したフリーの魔術師、八尋彩。

 他人を理解することしかできない壊れた人形は、今日も寝息を立てて、安らかに。

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