第3話 心優しき魔女

「そういえば、エドさん」


 テーブルを囲んで向かい合うように座っていたエドは、唐突に名を呼ばれて飲んでいたラシャの紅茶を気管に詰まらせて盛大に噎せ込んだ。少し酸味のあるラシャの果汁も相まって、少しだけ気管が痛い。


「だ、大丈夫ですか?」


「お前……、何故俺の名前を知っている?」


「治療する為に服を脱がしたんですけど、その時に上着のポケットからこれが落ちて……」


 テーブルの上に置かれた金色の懐中時計を見て、合点がいく。手に取って蓋を開けると、その裏に「エド」と自分の略名が彫られているのが見えた。


「わざとじゃないんです。落ちた拍子に蓋が開いちゃって……」


「……構わん」


 短く答えて、それを仕舞おうと胸元に手をやるも、今更ながらに着ているものが違うことに気付いて呆れたように溜息をつく。その様子を見ていたジゼルが、何故か少し慌てたようにエドの名を呼んだ。


「あのですね、エドさん。それで、その時来ていた服なんですけど……血の染み抜き失敗しちゃって……ごめんなさい!」


 バサリと広げて見せた上着の背中部分、斜めに大きく切り裂かれた紺色の布地は見る影もなくまだらに白く色が抜けていた。


「いつもはこれで大丈夫だったんですけど、布地の種類が合わなかったみたいで……」


 さりげなく濁された言葉の意味を理解して、エドがジゼルから上着を受け取った。滑らかな手触りはそれだけで上等な代物だという事が分かる。普段ジゼルが着ているものと価値が違うのは見て明らかだ。

 布地が違えば染み抜きの方法も変わるだろうが、エドの持つ上着ほど上等なものを見たことがないジゼルにそれをしろというのも酷な話だ。それにエドはもう、この背中を斬られた上着には何の愛着もなかった。


「捨ててくれ」


「え?」


「この切り裂かれた跡を見るのも腹立たしい。替えの服があれば、それでいい」


「替えの服、ですか? その……家には私の服しかなくって」


 テーブルの端に放り投げられた上着を引き摺るようにして手元に戻し、ジゼルが眉を下げながらエドの方を窺い見る。


「数日後に街へ薬を売りに行くんですけど、そのお金で用意してもいいですか? 背中は縫うので、すみませんがそれまでこれを着ていてくれると助かります」


 だったら今着ている服は誰のだと言いかけて、エドの背筋がさぁっと凍る。道理で少し窮屈なはずだと思いはしたものの、その現実を認めたくなくて敢えて何も口にしない。そんなエドの気持ちを知ってか知らずか、ジゼルが慌てたように弁解した。


「今エドさんが来てる上着は買ったばかりで数回しか来てないから大丈夫です! 少し窮屈に感じるかもですが、よく伸びる肌着なので……それに傷の包帯代わりに、こうぎゅっと締め付けてくれますし」


「……黙れ」


 顔を覆い隠して項垂れたエドからは、とてつもない哀愁を帯びた溜息が零れ落ちていった。





 紺と白のまだら模様に背中の不器用な縫い跡が残る上着をエドが受け取ったのは、次の日の夜中のことだった。

 喉が渇いて目を冷ますと、まだ部屋の中は明るかった。室内を淡く照らす蝋燭の炎に照らされて、壁にジゼルの影が浮かび上がっていた。微動だにしない影は、どうやらテーブルに突っ伏したまま眠っているらしい。そろりと起き上がって近付くと、テーブルの上に修繕されたエドの上着が置いてあった。


 すぐに直せと言ったのは自分だったが、こんな時間まで起きて作業をし、挙げ句ベッドにも行かずに眠ってしまうジゼルにエドは呆れて溜息を漏らした。

 と、そこで気付いてはっとする。

 狭いこの家には他に部屋などなく、キッチンと食事をするテーブル、そしてベッドが全て一部屋に置かれている。エドはこの家で目を覚ましてからずっと、ひとつしかないベッドに寝ていた。だとすれば、ジゼルは今までどこで眠っていたのだろうか。


 こうして夜中に目を覚まさなければ、エドはそんな当たり前のことに気づきもしなかったはずだ。そう思うと、無性に怒りに似た感情が沸き起こる。

 あまりにも厚顔無恥な自分に腹が立つ。疲れて眠るジゼルの寝顔を見ながら、エドは自分自身に怒り、そして初めてと言っていいほど自責の念に駆られた。


「魔女は俺の方だな」






 久しぶりにゆっくり寝たらしく、今朝のジゼルの目覚めはいつもよりも幾分すっきりとしていた。

 たいして遮光しないカーテンから漏れる朝日が、ジゼルの意識を次第に覚醒させていく。寝起きだというのに今日の仕事の段取りをぼんやりと考えていたジゼルが、そこで自分の体が何か大きくて重いものに包まれていることを知ってはっと目を開いた。

 すぐ目の前に、驚くほど美しい寝顔のエドがいた。僅かに差し込んだ朝日を浴びて輝く金髪が、男とは思えないほど白く滑らかな頬を隠すように垂れている。間近で見たあまりにも美しいエドの姿に、ジゼルの胸が弾かれたようにどくんっと鳴った。


 ジゼルの微かな振動を感じ取って、エドの瞼が僅かに動く。そしてその奥に隠されたアメジスト色の瞳が、ジゼルのエメラルド色の瞳と重なり合おうとした瞬間。


「ひゃっ!」


 息を吸い込みながら奇声を上げたジゼルが、顔を紅潮させたままエドの腕の中から逃げるように身を捩った。その拍子に狭いベッドから転がり落ち、久しぶりの気持ちいい目覚めの朝が一瞬にして羞恥と打撲の苦い朝となった。


「……朝から元気だな、お前は」


「エドさんが驚かせるからいけないんです!」


 床に打ち付けた背中と後頭部が、鈍い痛みを伴ってジゼルの視界を歪ませる。じわりと滲んだ涙は零れるほどもなく、微かに潤んだ瞳で恨めしげにエドを見上げると――ベッドに横になったまま頬杖をついたエドが薄く微笑みながらジゼルを見下ろしていた。

 朝日を背に、少しだけ逆光で翳ったエドの初めて見る微笑みに、ジゼルの胸が今度は柔らかい熱を持って脈を打つ。


「お前……」


 アメジストの瞳に見つめられ、ジゼルが無意識に言葉の続きに淡い期待を抱いてしまう。収まりきらない鼓動が、とくとくと緩い振動を全身に響き渡らせていく。


「もう少し太れ。抱き心地が悪くて敵わん」


「何ですか、それ!」


「お前は痩せすぎだ。まぁ、ここの暮らしではそれも仕方ないかもしれんが、女は少しくらい肉が付いている方が抱きやすい」


 そう言って色気たっぷりに笑うエドの表情に、ジゼルの胸は不覚にも高鳴りを押さえられずに早鐘を打ち続ける。


「お、お肉なら心配しなくてもちゃんと付いてます!」


「あれで?」


 エドが手のひらを軽く丸めて何か形作ろうとし、それを見たジゼルが慌てたように立ち上がった。エドを睨み付ける顔は湯気が出そうなほどに真っ赤に染まっている。


「もうエドさんに薬なんてあげませんから! 痛みでわんわん泣き叫べばいいんです!」


 捨て台詞を吐き捨てて脱兎の如く家を飛び出していったジゼルだったが、朝食後にはいつもの薬を調合して、渋々ながらもエドに渡すのだった。

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