子育て支援課〈前編〉

 「もう結構です、これ以上話しても埒が明きません。自分で考えますわ!」


 目の前の相手は憤然と言い放ち席を立った。窓口で、私は深々と頭を下げる。

 「申し訳ありませんでした……」

 遠ざかるハイヒールの主に、謝罪の声が届いたかは分からない。溜息をつき、席に戻る。意気消沈した私に、朗らかな声が降ってきた。

 「お疲れさん。どうだった?」

 私はうんざりしながら、隣の男性を見た。土屋係長の人を食ったような笑顔が、いつも以上に癪に障る。

 「窓口の声、聞こえませんでした? 散々ですよ。相談者の方を怒らせちゃいました。埒が明かないから自分で考えるって言われましたよ」

 クッと土屋係長は喉の奥で笑った。私は唇を引き結び、涙を押し留める。絶対、この人の前で泣いたりするもんか。

 「花ちゃん大変だったね。悪い悪い、ちょうどお客さん来てたもんで、出れなくてね~」

 「私も会議が長引いて。でもゆっくり話聴いてもらって、相手の方も整理できたんじゃないかな」

 「丸山さん、香月さん……」

 再び涙が零れそうになる。私は向かいの席の女性達に鬱憤をぶちまけた。

 「育児相談ってことでしたけど、3歳のこどもの習い事の相談だったんですよ! 将来のために英語やプログラミングをさせておくべきかとか、一時間も延々と……。専門家の意見を聞きたいって言われても、さっぱりですよ!」

 私の話の腰を折って、土屋係長が口を挟む。

 「おい、コイツ甘やかすなよ。バンバン窓口に出せ、ただでさえ相談対応避けてやがるんだから」

 「なっ……! わ、私は、せっかく相談に来て下さったなら、専門家に聴いてもらう方がいいんじゃないかって……!」

 「お前もケースワーカーだろうが」

 「まぁまぁ。花ちゃんは今年から相談業務やってるんだから、少しずつでいいんじゃないですか」

 香月さんの助け舟に、土屋係長はニヤリと笑った。

 「相手は『自分で考える』って言ったんだろ。上等じゃねぇか。下手に助言なんかするもんじゃない、決めるのは自分だからな」

 「は~い、肝に銘じます!」

 丸山さんが豪快に笑って、話はお開きになった。私は恨めしい思いで席に座る。土屋係長は、何かというと「お前もケースワーカーだろ」だ。好きでなったわけじゃないのに。そもそもの元凶は……。


 「ちょっとぉ、聞いてよ!」


 高い女性の声にクラっとする。長い髪をかき上げて現れたのは、課長だ。こんな声を出す時はロクなことじゃないと思ったら、案の定だった。

 「トイレのゴミ箱が撤去されてたのよ! いくらゴミ削減の取り組みだっていってもあんまりよ! 鼻をかんだティッシュをどこに捨てればいいのよ?」

 「はぁ……」

 皆がさり気無く目を逸らす中、なぜか課長は私の目を見据えて言う。

 「総務課に一言、お願いね!」

 「はぁ……」

 区民からの苦情を装い伝えるべきか悩んでいると、歩み去ったはずの課長が戻ってきた。作り笑いを浮かべた私に、付箋を差し出す。

 「さっき、み~んな出払ってたでしょ? 私が電話受けてあげたの。保護課から花岡さんによ。一緒に支援してほしいケースがあるから、地域保健福祉課と三課で打合せをしたいって。21歳の妊婦さんで、単身世帯ですって。忙しくなるわね~」

 私は頬が引きつるのを感じた。課長はいつだって、私に爆弾を落とす。

 もうこんな仕事、嫌だ。こんなはずじゃなかったのに。



 子育て支援課は、子育ての総合相談窓口だ。こどもに関する手当や保育園の申込関係手続、地域の子育て活動支援事業等、その業務は幅広い。

 私は昨年この課に異動した。配属先は育児相談を受ける部署で、相談に応じて関係機関と連携し、必要な社会資源に繋ぐ、いわゆるケースワークが主な仕事だ。私以外の係員はケースワーカーとして専門職が配置されており、香月さんは心理職、丸山さんは保育士だ。土屋係長は私と同じ事務職だけど、長年児童相談所で働いてきた福祉のプロだ。

 一年目は事務職として主に事業を担当し、庶務や経理等の仕事をこなした。専門職の人達は事務処理が分からないと話し、「花ちゃんのおかげで助かるよ!」と感謝されるとやりがいも感じた。


 「せっかくここに来たんだから、ケースワークやってみましょうよ!」


 穏やかな日々は、課長の思い付きで崩壊した。私の抵抗も虚しく、今年からケースワーカーとして相談業務も担当させられることになった。課長は「大丈夫よ。初任者研修もあるし、私と係長があなたを育成するわ!」なんて言っていたけれど、そもそも無理があるのだ。

 電話が鳴る度、自分宛ではないことを祈る。初回訪問前夜は眠れなくなる。

 ……人見知りのケースワーカーなんて、致命的だと思う。



 ――雨沢あめさわ璃乃りの、21歳。

 幼少時から母親は男性の元を転々としており所在不明。母方祖母が本人を引き取り養育。知的障がいがあり、小学校から特別支援学級に在籍。中学生の時に療育手帳を取得し、高校は特別支援学校に進学。卒業後は就労継続支援事業所で勤務していたが、翌年に母方祖母が病死。グループホームに入所したが、間もなく退所し事業所も退職。知人男性を頼り、魚美味市に転居。寮付きの職場で働いていたが、最近妊娠に気付き退職。胎児の父親は不明。退寮期限が迫り、貯金も無いため生活保護を申請。


 「璃乃でぇす、よろしく~」

 目の前の女性はあっけらかんと微笑んだ。濃いアイメイクで年齢より上に見えたけれど、口調はあどけない。

 保護課の矢野さんがゆっくり話しかける。

 「雨沢さん、こちらが子育て支援課の花岡さんと、保健師の梅原さんです。花岡さんは、いろんな手続きを手伝ってくれるよ。今日はこの後、一緒にヘルパーの申請をしに行ってね。産後のこともあるし、家事を手伝ってもらえるようにした方がいいから」

 一瞬、雨沢さんの笑顔に亀裂が走ったような気がした。確かめようとした時、私の横で明るい声が弾けた。

 「初めまして、保健師の梅原です。出産準備や、赤ちゃんのお世話についてお手伝いします。とりあえず、受診しないとね!」

 「あぁ、病院予約してたんだけど、寝坊して」

 「そっか〜、でもお腹も大きいから早く受診しないとね! いつ行く?」

 「来週予約とる」

 「一緒に行こう!」

 「自分で行ける」

 雨沢さんは会話を打ち切るように言う。その可愛らしいワンピースの腹部は、丸く盛り上がっている。資料の内容が甦り、私は考え込んでしまう。

 こんなに若くて一人で育てるなんて、大丈夫なんだろうか……。



 事前に打合せをした時、矢野さんは言った。  

 「最近妊娠に気付いたからまだ受診してないって言うんだ。もうお腹大きいのに。産後も心配だから、療育手帳を使ってヘルパーを申請するよう勧めてるんだけど、のらりくらりで。利用開始までに時間がかかるから、早く申請した方がいいんだけどね。僕一人じゃ手が回らないから、手伝ってほしいんだ」

 「はぁ!? 未受診とかヤバいですよ、早く受診させないと!」

 いきり立つ梅原さんに、私は気後れした。暗澹としている私と違って、同期の梅原さんはもうケースに向き合っている。落ち込む自分を叱咤して、矢野さんに質問する。 

 「あの、胎児の父親って本当に分からないんですか? 実は支援してもらえたりしないでしょうか」

 「聞いても『彼氏かもしれないけど、もう連絡とれない』って曖昧でね。……仕事、会社の事務としか言わないんだけどさ。もしかしたら風俗で働いてて、お腹の子の父親は客だったのかもしれないな」

 矢野さんは言葉を切った。私はメモをとっていた資料から顔を上げる。

 「職場の人が雨沢さんを保護課に連れてきたんだけど、カタギじゃない様子だったよ。雨沢さん、普通の仕事は見つけられなかったのかも。ギリギリまで働かせて、あとは行政に面倒みてもらえってことなんじゃないかな。雨沢さんが手帳持ってることも知ってたようだし」

 メモをとる手が完全に止まった。療育手帳のこと、知的障がいがあると知っていて、その上で……。

 もっと早く、ここに辿り着いてくれていたら。

 どうしようもなかったかもしれない。それでも、そう思わずにいられなかった。



 顔合わせを終え、福祉・介護保険課に来た途端に雨沢さんは言った。

 「ヘルパーとか嫌なんだけど」

 私は目が点になった。助けを求めたくても、矢野さんも梅原さんもいない。さっきまで笑顔だった雨沢さんの顔は、仏頂面に変わっている。

 「自分で家事やってるよ。知らない人が家に来るのイヤ。産後の世話とか要らないし」

 「え、と……」

 どうしよう。固まっていると、窓口の男性が「次の方、どうぞ」とこちらを向いた。雨沢さんがくるりと背を向ける。思わずワンピースの裾を掴んだ。

 「ちょっと、何するのよ!」

 「すすす、すみませんっ、あの、でもっ」 

 裾から離れた手があわあわと踊る。雨沢さんの険しい表情に、私は泣き出しそうになる。

 「あの、ヘルパー嫌って、なんで……」

 「なんで私じゃ無理って決めつけるの? 今まで一人でやってきたもん、誰も要らない。私一人で育てられる!」

 吐き捨てるように言った雨沢さんに、私は言葉を失った。

 一人でやってきた。

 ……頼れる人はいなくて、一人でやらざるを得なかった。

 言葉は、ずしりと重たかった。

 立ち去ろうとする雨沢さんに、無意識に手を伸ばしていた。腕を掴まれた雨沢さんが、凄い形相で振り返る。心臓が悲鳴を上げ、手が震えた。でも。

 この人を、一人にしてはいけない。

 「……無理じゃ、ないです」

 雨沢さんは黙ったまま私を睨みつける。どう言えばいいか分からないまま、必死で言葉を継ぐ。

 「あなた一人で出来るのかもしれない。でも、すごく無理する、と思う。産後はしんどいって聞くし、心配なんです。会ったばかりなのに、勝手ですけど」

 どうしたらいいんだろう。私だって、知らない人がずっと家に来るなんて嫌だ。でも、初めての子育てを一人でやるなんて自信が無い。そう考えた時、閃いた。

 「あの、お試しっていうのはどうですか。とりあえずヘルパー使ってみて、要らないと思えば止める、とか。無理して倒れてから『ヘルパー使っておけばよかった』なんてことになったら、残念すぎます。手続きはしておいて、後で考えたら。……私がこんなこと言っちゃいけないかもしれないんですけど」

 マズイことを口走っている、と思ったけど止まらなかった。雨沢さんが探るように私を見る。窓口の男性に「あのぅ」と話しかけられ、私は肩を震わせた。

 「話だけでも、聞いていきませんか? せっかく来られたんですし」

 優しそうな男性の笑顔に、救われた気持ちになる。雨沢さんを見ると、仏頂面のまま体の向きが変わった。慌てて窓口の椅子を引くと、無言だったが腰掛けてくれた。ホッと息をつく。柱に掛かった猿面が、私達に微笑みかけたように見えた。


 翌週、私は受話器を見つめて溜息をついた。土屋係長が隣で笑う。

 「何だ辛気臭い。深刻ぶってもいいこと無いぞ」

 「連絡がつかないんです……」

 「あの妊婦さんか。出産準備できてるかも未確認なんだろ。家行った方が早いんじゃないか」

 土屋係長の言葉に詰まる。訪問のために電話を掛けるのさえ緊張するのに。何度架けても、雨沢さんから連絡は無い。それなのにノンアポで行ったら、どんな反応をするだろうか。


 一人でやってきた。


 彼女の言葉が甦る。なんとかヘルパーの申請はしてくれたけれど、利用に至るかは分からない。望まれていない中で電話するのも訪問するのも、土足で踏み込むことのようで躊躇う。

 「花岡さんっ!!」

 威勢のいい声に振り向くと、梅原さんだった。訪問帰りらしく、大きな体重計を背負っている。

 「雨沢さんに連絡つきました!?」

 「いえ……」

 「そっちもか〜。一昨日、家にも寄ったんですけど出てくれなくて。病院も行かないままだし、どういうつもりだろ。出産で死ぬことだってあるのに! 自宅出産で墜落分娩とかヤバすぎですよ!」

 「受診できない事情があるのかもな。まぁでも、せめて未受診からの飛び込み出産で病院で産んでほしいよな」

 「係長、それも十分ヤバいですよ!」

 土屋係長はカラカラと笑う。こっちは悩んでるのに、どんな神経してるんだろう。げんなりしていると、丸山さんがひょいと顔を出した。

 「公用携帯で連絡してみたら? 固定電話には出なくても、携帯なら出る人もいるよ。ショートメールには返事くれることもあるし」

 「なるほど……」

 着信を残してメールを送る手はあるかもしれない。私は何の気無しに公用携帯を手にとった。コールを一回。切ろうとした時、電話から暗い声がした。

 「もしもし……」

 「あ、雨沢さん!? えっと、花岡です、子育て支援課の!」

 叫んだ私に、梅原さんが駆け寄り耳をそばだてる。握りしめた受話器から、苦し気な声が漏れた。

 「お腹、痛い……」

 「えぇ!?」

 固まった私から、梅原さんが受話器を奪い取る。

 「保健師の梅原です! すぐ行くから、ドア開けてね! それまで横になってて!」

 電話を切るなり駆け出す梅原さん。私も追いかけようとすると、ぐいと肩を摑まれた。係長が庁用自転車の鍵を差し出しながら言う。

 「もし陣痛なら救急車じゃないからな。タクシー呼べよ」

 不吉な助言に顔が引きつるのが分かった。丸山さんがグイと親指を突きだして頷く。泣きたくなるのを堪え、今度こそ走り出した。


 雨沢さんが住むマンションには、自転車をとばして10分で着いた。梅原さんがインターホンを鳴らす。二人で固唾をのんで見守る中、ゆっくりとドアは開いた。

 「大丈夫ですか?」

 雨沢さんは青ざめた顔で、無言のまま部屋に歩いていく。上がっていいものと解釈し、私達も後に続いた。最近社員寮から転居したためか、段ボールが積まれた室内は殺風景だ。雨沢さんは畳んだ布団にもたれるように座りこむ。梅原さんが傍にしゃがみこんだ。

 「まだ痛い?」

 「マシになってきたけど、お腹が固くて……」

 「血が出たりは?」

 「無い。部屋の片付けしてたら、痛くなってきた」

 「動き回ってお腹が張ったんだと思うけど、受診した方がいいね。張り止めの薬が必要なこともあるから。休んで動けるようになったら、一緒に病院に行こう」

 「……イヤ。怖い」

 雨沢さんの顔が歪んだ。梅原さんが宥めるように言う。

 「大丈夫だよ。診察はお腹にエコー当てるだけだから痛くないよ」

 「そんなんじゃない!」

 「でもこのままじゃ、雨沢さんにとっても赤ちゃんにとっても危ないよ?」

 雨沢さんは膝を抱えて泣き出した。梅原さんが途方に暮れた顔になる。私は所在なく立ち尽くし、室内を見渡して気付いた。段ボールの陰に隠れたもの。

 可愛い小さな服、哺乳瓶、抱っこひも。ベビー用品だった。

 ちゃんと準備していた。ちゃんと出産に向けて考えてる。それでも、受診できない何かがあるんだ。

 「あの、怖いってどういうことなんでしょう」

 返事は無いかと思ったけれど、雨沢さんが少しだけ顔を上げた。私も屈んで視線を合わせる。

 「受診しなきゃって、分かってるんですよね。でも受診できないのは、何か理由があるのかなぁって。よかったら、教えてくれませんか」

 雨沢さんの唇が震えた。

 「ばあちゃんが……」

 ぽろぽろと、涙がこぼれる。

 「ばあちゃんが、病院で死んだから……」

 雨沢さんは小さなこどもみたいに、大声で泣き出した。


 母方祖母が病死。


 資料に書かれていたのは一文。けれどこの人にとっては、どれだけ大きな出来事だっただろう。


 「そうだったんだね……」

 梅原さんが、そっと雨沢さんの背中を撫でた。

 「おばあちゃんの代わりには、なれないけどさ。私達もいる。一人じゃないよ」

 堪えてきたものが堰を切ったように、雨沢さんは泣いた。



 雨沢さんは、私達と病院を受診した。

 妊娠37週。ギリギリで受診できたことに、私は安堵した。

 けれど、私はまだ知らなかったのだ。

 本当に大変なのは、これからだということを。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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