乳酸飲料なダンディ

Section1-4 ダンディ、後輩ができる

　昨日は、珍しく夜更かしした俺。

　起きるのが辛い朝は、久しぶりのことだった。

　いつものスウェットに着替え、ランニングとともに“職場”へと向かう。

　入り口のドアを開けると、俺を待ち構えていたかのように総務の安田係長が事務所の入り口近くに立っていた。まるで玄関に置くタヌキか何かの置物のようだ。

　だが、今日の事務所の雰囲気はいつもと微妙に違った。

　なんというか――華やかなのだ。

「おっはようございまーす、中川さーん」

　刹那、耳に飛び込んで来たのは、若い女性のハイトーン・ボイスだった。アニメ声とでも云おうか。

　脂ぎった安田係長の横に立つ、まだ二十歳（はたち）そこそこにしか見えない女性。

　というよりは、女子（じょし）という言葉が合いそうだ。

　くりくりとした大きめの瞳を輝かせる彼女は、この晩秋というのに、半袖の薄いチェックのシャツに白いホットパンツの格好をしている。俺たちの時代で云う、“ぴちぴち女子（ギャル）”だ。

「彼女はね、未婚だけどウチのような仕事がしたいと飛び込んできてくれた、我社のホープです。ここはひとつ、優秀な佐川班長とダンディさんのお二人にご指導をお願いしたいと思います」

「え？　まだ新人に毛が生えた程度の、この私が？」

　そう云って戸惑う俺になど構わず、新人の彼女は間髪入れずに挨拶を始めた。

「初めましてー。今日からお世話になる、鈴木（すずき）花子（はなこ）と申しまーす。ご指導、よろしくお願いしまーす」

　――いちいち語尾が伸びるの、なんとかならんか。

　そう思った、矢先だった。

　頭を下げた彼女の、剥き出しの白くむちむちとした太ももと大きく突き出たシャツの胸の部分が盛大に揺れるのを、天の恵みとばかりに俺の両眼が目撃してしまったのだ。

　――うむ、ならば仕方ないな。

　断っておくが、これはただの偶然であり、事故だった。

　決して、決して――そこばかりが気になって見ていたからではない。

　こうして彼女の口調を許す気になった俺だが、そんなことよりも気になるのは、係長の声質だった。

　いつもに比べ、断然、明るい調子。

　普段は糖度30パーセントの激甘果汁のようにねっとりとした彼の声が、まるで南国の海のように、朝から澄み渡っている。彼も未婚――なのだろう。

　と、いつの間にやら場に加わっていた佐川班長（リーダー）が、横から口を出した。

　だがその眼は何故か、きらりと鋭い光を宿していた。もしや佐川班長は若い娘に厳しいタイプ？

「あらら、未婚の女性ですって？　ふーん、珍しいのね……。それにそのお名前、その辺にいそうだけど実際にはほとんどいない率ナンバーワンのお名前よね。実際にいらっしゃったとは、意外……。まあ、いいわ。私の指導は厳しいわよ。ついてこられるかしら？」

「はい、もちろんでぇーす。よろしくお願いしまーす」

　圧倒的に、返事が軽い。

　まあ、それが今の若者にとっての普通なのかもしれないが……。

　そのやりとりを見た安田係長は安心したのか、孫を見るお祖父さんのように温かい目ををした。

「じゃあ、後は頼みましたよ。佐川さん、そしてダンディさん！」

　上機嫌の安田係長がその場から去った、その瞬間。

　あの、キレキレの班長がとんでもないことを云い出したのである。

「ということで、新人（このこ）の指導は、ダンディさんにお任せしますわ」

「えーっ！」

「じゃあ、あとはダンディさんに訊くのよ、花子ちゃん」

「はーい、班長。ダンディさん、よろしくお願いしまーす！」

「えーっ？　えーっ！？」

　――まさに丸投げだよ。これが噂に聞く、丸投げというものに違いない。

　俺は、ようやくこの歳にして、この世の不条理を知った。

　と、俺が戸惑っている間にもさっさと販売に出かけて行ってしまった、班長。俺は遂に観念した。

「……わかった。とにかくまずは、ユニホームに着替えてこい。話はそれからだ。あ、それから、俺のことは“ダンディ”と呼ぶようにな」

「はいっ、ダンディ先輩！」

　数分後、俺と新人の鈴木花子は、事務所の入り口に集合した。

「では、今日から栄光の“ミクリル・レディ”としての一歩が始まる訳であるが……って、まあ、面倒くさい話はいいか。とにかく今日は、俺に付いて来い」

「了解でーす！」

　こうして、後輩の新人ミクリル・レディ、鈴木花子への俺による指導が始まったのだった。

　☆

　なにせ、多少自惚（うぬぼ）れはあるが、今までの人生をほぼ一人の力で生きてきた俺だ。新人指導なんてしたことがない――。

　丸投げされても、正直、要領を得ないのだ。

　とにもかくにも、まずはミリア電子へ向かうことにする。

　恐らくではあるが、あの会社は新人の教育には格好の題材なのだろう。根拠はない。が、きっとそうなのだ……。

　もちろん、教えるのは「関門突破」の方法である。

　逆に言えば、俺が教えられるのはそれだけとも云える訳だが……。

　ただし、そう簡単には身に付かないだろう。なにせ俺の突破技術は、とびきりの笑顔と強烈な“ウインク”という高級技術であって――。

　などと考えていたものの、予想は簡単に覆（くつがえ）された。

　俺は特に何も教えていないのに、この、鈴木花子という新人、何故かサクサクと会社の奥へと進んでしまったのだ。

　受付の女子ともすぐに仲良くなるわ、おじさん受けは抜群に良いわ……。

　――こ、こやつデキル。恐るべし、花子。

　俺が教えることなんか、何もないんじゃないだろうか。

　そんな風に思うとちょっぴり傷心した俺だったが、とにかく俺の心の砦（とりで）、そして生きる糧（かて）とも云える企画開発課へ急いだ。

　今日はいつもより人数が少ないように思える。

　もしかしたら、昨日の歓迎会が影響しているのかもしれない……。

　しかしながら知美さんは、昨日の疲れた顔も見せずにいつもと同じキラキラとした笑顔を俺に振りまいてくれたのだ。やはり、俺の心の拠り所。

　だが、そんな温まった俺の心を急激に冷やしたのは例の五竜田路だった。

「おはようございまーす！　私、新人ミクリル・レディの鈴木花子と申しまーす」

　張り裂けんばかりの元気さとはち切れんばかりのボディで攻めるも、敵はあの無感情の塊、五竜田路だ。びくともしない。

「……そんなもの、いらない」

　眉毛ひとつ動かさず、彼がぽそりとそう呟いた。

　そんなやりとりの間にも、彼の視線は机上のパソコン画面から動きもしないのだ。とにかく、負のオーラがハンパない。

「失礼しました……」

　さすがのダイナマイトボディも、しゅんとなって引き下がる。そういうこともあるさ、と俺が慰めにかかる。

　だが、今日は彼女の初出勤の日でもあるし、ここに長居する訳にもいかないのだ。

　いつもならじっくり腰を据えてサーチするミリア電子の企画開発課も、今日は早々に切り上げて出ていくことにする。

　ここで、ふと俺は気気付いた。

　あのバーバラの姿を、今朝は見かけなかった気がするのだ。

　――もしかしてあいつ、二日酔いで来れなかったのか？　大丈夫かよ。

　他人事ながら、そりゃあ多少は心配でもある。

　でも、ここにいつまでも留まっているわけにはいかない。俺と花子君は、二人してミクリルの入ったカートをガラガラと引いて、町外れに移動することにした。

　それから暫くの後のこと、やや背の低いビルの立ち並ぶ街並みの中に、目指す「吉田精密設計株式会社」はあった。

　3階建ての、住居兼社屋。そんな風情の佇まい。１階はカーポートの駐車場、２階が事務室で３階が社長宅――といったところか。

「花子君、ミクリル・レディたるもの、新規開拓も大事だぞ。今日は、この会社を開拓してみよう」

「了解でーす！」

　カーポートの横、建物の側面にへばり付いた感じで存在する非常階段のような屋根付き階段を昇って行くと、２階事務所のドアの前に辿り着く。

　そこは小さな踊り場のような空間だった。

　ドアの開閉には邪魔にならない場所に置かれた、小さな物置台。その上に鎮座する、昔ながらのタイムレコーダ。出退勤のタイムカードの枚数から、社長を含め、社員7人ほどのこじんまりした会社らしいことがわかる。

　名前から察するに、女性社員は一人だけらしい。

　――社長の名前は吉田（よしだ）光男（みつお）、と。この同じ名字の吉田（よしだ）佐和子（さわこ）というのが、奥さんで専務ってところだな。

　社内は土足禁止だった。

　入り口横の靴箱に靴を入れ、来客用のスリッパに履き替えて中へと進む。歩くたび、脇に抱えたショルダーバッグの中でミクリルが揺れているのがわかった。

　すぐに現れたのは、“事務室”と札の張られたドアだった。この扉の先で、社員が作業しているらしい。

　目と顎を使って花子君に合図を送り、声を出せと指令を送る。

「ごめんくださーい、ミクリルでーす」

　黄色いアニメ声が自宅兼社屋に響く。

　若干の間が開いて、事務室と書かれた札の張られたドアが開いた。中から現れたのは、若手の男性社員だった。

「どうですか？　乳酸飲料のミクリル。おししいですよ」

　両掌で支えた一本のミクリルを、彼女は笑顔とともに彼の前に差し出した。

「いやあ……。今、ウチの会社、大変なことになっててそれどころじゃないんで……」

　ニタニタ顔で断ろうとする男に、花子は「いや、そんなこと云わず――」と、一歩前に進んで猛プッシュする。そんなやりとりが聞こえたのか、この家の奥さんで会社の専務らしき女性が、とことことスリッパを鳴らしてやって来た。

　50歳前後で落ち着いた感じの、柔和な笑顔がその場に溢れる。

「澤田（さわだ）君。大きな声を出して、どうかしたの？」

「ああ、専務。みかりん、とかいう小さな容器に入った飲み物をこの人達がどうですかって」

「みかりん？　……ああ、ミクリルのことね」

「どうですか、専務さん。これから日々通わせていただきますので、こちらで販売させていただきませんか？　体にもいいですし」

　ここぞとばかりに俺も前に出る。

　すると専務が首を傾げ、少しの間、考えた。

　けれど澤田とかいう若者が花子を見ながらデレデレと鼻を長くしているのに気付くと、急に目を吊り上げて怒り出したのだ。

「こら、澤田君！　あなたは、奥に入って仕事してなさい」

「あ、はい……」

　礼儀に厳しい――のか。

　そんな彼女に、背中をきゅんと丸め、まるで縄張り争いに負けた猫のようにすごすごと奥に下がった澤田。

　花子も、急変した専務の態度に驚き、思わず後ずさる。

「まったく、どうもすみません。ウチの若い人、礼儀がなってなくて……」

「いえいえ、そんなことありませんよ……。それより、専務。まずはお試しに飲んでみませんか？　今日は無料で結構ですので……」

　奮発して、二本のミクリル100と濃厚なウインクを、俺は彼女にプレゼントした。

　途端、彼女の表情が明るくなった。

「……ん？　あらまあ、これよろしいの？　わかりました、いいですわよ。明日からいらっしゃい」

「ありがとうございますっ！」

　俺たちは「社員の方々にもどうぞ」と、彼女にもう数本のミクリルを手渡すと、礼を云って外に出た。

　階段を降り切ったところで、花子君に声を掛ける。

「今日はこれで終わりだ。この会社は明日から花子君の担当にするから、よろしくな」

「はーい、ダンディせんぱいっ！」

　“緊張”とか“疲れ”という言葉を知らない、キュートな笑顔を振りまき続ける花子君に、俺はゆっくりと二度、満足げに頷いた。