Section1-3 ダンディ、久しぶりに夜の時間帯に活動をする

 ようやく闇も一人前となり始めた、夜の8時。

 眠い目を擦って、薄暗い路地の奥にあるBARバーの扉をガラリと音を立てて開けた。ミクリル・ダンディの職を得て朝の早い時間帯に仕事をするようになってからというもの、こんな遅い時間まで屋外で活動するのは珍しいことではあるが――。


「いらっしゃい……」


 細長いカウンターの向こう側、その中央辺りでこちらに左半身を見せる姿勢で白い布を小刻みに動かして手にしたショットグラスに磨きをかけていたのは、俺が入店したショットバー『KATORIカトリ』の店主マスターらしき男だった。

 歳は俺と同じ40代半ばであろう。

 三つ揃えの黒色スーツをきりりと纏い、整髪料で艶々と光らせた髪をオールバック風に纏めている。


 今の俺にとっては、既に就寝前のだいぶ遅い時間帯だった。

 だが、世間的にはまだまだ宵の口の時間帯なのだ。特にバーという夜の街の申し子のような盛り場にとっては――。しかるに、店内には俺の他に客は誰もいない。

 やや抑えめのボリュームで流される、渋めな50年代フィフティーズのクールジャズ。そんな音波の充満する店内を進んでゆき、カウンター奥の席に座る。すると、すぐさまこちらに寄って来たマスターが、マスターの似顔絵がモチーフとなっているらしい店のロゴマークの書かれた紙コースターを俺の眼前に置いた。


「……何にします?」


 品定めするかのような、マスターの視線。

 まるで凹凸を図るレーザービームのように、俺の上端から下端まで舐めまわす。その隙を突き、こちらも彼の顔をじっくりと観察する。無精髭のような短めの髭が目立っていた。

 と、不意に彼と俺の視線がぶつかった。


 ――!?


 刹那、不思議な力の宿る目に、俺がたじろいだ。

 そんなことは久しぶりだった。ベテランスパイとして、あるまじき行為とも云える。動揺を隠しながら、俺は喉の奥から声を絞り出した。


「ターキー、12年トゥエルブ。ロックで」

「かしこまりました。シングル・ショットでよろしいですか?」

「ああ……シングルでいい」


 俺の横柄な受け答えにも表情一つ変えずに小さく頷いた店主マスターは、煌々と明かりに照らされた背後の棚から大きめのショットグラスを取り出すと、そこに大きめにカットされた丸い氷の塊を入れた。そして間髪を入れず、彼の背後に聳え立つ背の高い棚の中に納まる数えきれないほどの酒瓶の中から『12』という数字の書かれたワイルドターキーの瓶を選び出して、琥珀色の液体をとくとくとグラスに注いでいく。

 アルコール度数40度を超える液体を注ぎ終わったグラスにマドラーを差し込み、勢いよく掻き回す。氷がカラカラと回る心地好い音が、店内にこだました。


「どうぞ。ターキー12年、ロックです」

「うむ……」

「チャージはオードブルになさいますか? それとも――」

「ナッツでいい」


 淡々と答えているつもりの俺の声が、若干震えていた。

 右手でグラスを掴み、口へと運ぶ。口腔を通過し、喉へと注ぎこまれる琥珀色の液体。樽木を彷彿とさせるバーボンの香りが、俺の中で弾けた。

 そんな寛ぎのひと時を脅かすようにして、マスターが慣れた手つきで水の入ったチェイサーグラスとナッツの盛られた小皿を俺の前に置く。

 小皿がカウンターテーブルを叩くその音で現実に戻された俺は、喉に残るほろ苦さを感じながら店内を見回した。自慢げに店の壁の両端に構えられた大きな高級スピーカーが少し鼻についた。けれど、流れるBGMから溢れる俺好みの掠れたサックス音が、その感情を和らげた。


 と、不意にマスターがBGMのボリュームを落とし、右の口角を少しだけ上げるような奇妙な笑みを浮かべながら、低音の勝る声で話しかけてくる。


「この店は、初めてで?」

「ああ、そうだな……」


 スラックスの左ポケットに手を突っ込みながら、俺は答える。

 黄色掛かった暗い照明下の店主の顔色は、微塵も変化しない。流石だ。一方、俺はじりじりと渇いてゆく喉を潤すため、もう一口、バーボンを喉の奥に流し込んだ。


「で、早速だが――」


 調子を整えた喉を使って話を切り出したその瞬間だった。カランという音を立ててバーの入り口扉が開き、二人の女性が薄暗い店内に入ってきたのである。


「あら、中川さんじゃないですか! どうしてここに?」


 その美声――忘れもしない。

 紛れもなくそれは、マイ・マドンナ、丸山知美さんの声だった。何故か彼女の隣には、今朝がた俺も挨拶したばかりの彼女の上司、課長バーバラもいる。

 マスターの突き刺さるような視線を頬に感じつつも、俺は云った。


「……ほら、今朝話してくれたじゃないですか。行方不明になった社長さんがこの店の常連で、失踪した当日もここに来てたらしいって、ね。だから、僕も来てみたんですよ……。あ、もしかして今日は、山崎課長の歓迎会だったんですか?」


 俺の問いにはすぐには答えず、二人は俺の座る席から一つ間を開け、並んで座った。

 近い方が、バーバラ。遠い方が、知美さん。

 ……ちょっと残念だ。

 っていうかバーバラ、お前、邪魔だ!

 そんな俺の思いなどわかる由もない知美さんは、一息入れるようにアルコールでほんのり赤くなった顔で小さく頷くと、ようやく俺の質問に答えてくれた。


「ええ、そうなんです。明日も仕事があるってことで一次会で解散になったんですけど、課長がどうしても私に2次会に付き合えって……」

「あらぁ、私、そんなこと云ってないわよ! 知美ちゃんがどうしてもって云うから来たのッ」

「もお! そんな事云ってませんよ、私……。それより課長、一次会から飛ばし過ぎじゃありませんか? どう見てもヘロヘロですよ。もうお帰りになられた方が――」


 仕事には強いが酒には弱いタイプらしい、バーバラ。大分ご機嫌な様子だ。

 朝にはあれほどビシリと決まっていたスーツにもあちこちに皺が寄っており、朝にはあれほど真っ直ぐだった背筋がふにゃりと折れ曲がって、まるで生まれたての赤ちゃんの首のように頼りなく体を揺らしている。

 だが、それよりなにより気になるのは、そんな動きで知美さんへの俺からの視界が時折遮られることだった。ええい、忌々しいバーバラめ!

 とここで、ようやくその存在を現したのは、この店のあるじだった。


「知美ちゃん、いらっしゃい。何、飲みます?」

「じゃあ、私はモスコミュールをください。……あ、そうだ。マスターに紹介しておくわね。こちら、今日から私の部署に課長として赴任された、山崎・バーバラ・美香子さん」

「初めまして。山崎さん」

「んもう、何よ、その他人行儀な呼び方……。私の事は、バーバラって呼んでいただいて結構よ!」

「そ、そうですか」

「……ごめんなさい、マスター。課長にはお水だけでいいです」

「承知しました」


 知美さんとマスターとの会話の馴れ馴れしさが、何とも腹が立つ。知美さんがこの店の常連であることは確実だ。

 商売としては上がったりだが、知美さんのお願いを素直に聴いたマスターが、バーバラの前にごく普通の水が注がれた氷入りのチェイサーのみをそっと置いた。


「誰が水なんて頼んだの!? 私もalcoholアルコールの入ったやつ頂戴! ……ってまあ、しっかし何なの、あの五竜田路って野郎は? 『社外でのお付き合いは一切お断りしております』とかなんとか云って歓迎会に参加しないなんてさ、これからが思いやられるわッ!」

「……」


 妙に発音の良いアルコールの部分が心地よい。

 そんなバーバラの勢いに押されたのか、マスターがたじたじとなる。

 知美さんも、お手上げという感じで肩をすくめた。

 荒れつつあるバーバラをなだめようと、仕方なく俺も会話に混ざることにする。


「いや、今はもうそういう時代なんですよ。こんなおじさんが乳酸飲料の販売員やってる時代ですからね」

「ふん、そんなものかしらね……。あら、あなた。云われてみれば、朝、ウチに来たミクリル販売のお兄さんでしょ……よく見たら、いい男じゃない?」

「いやいや、課長。お酒で、目があまり見えてないんじゃないですか?」

「あらあら。そんな謙遜、帰国子女の私には通じなくってよ。……ところでさあ」


 やはり、彼女はかなり酔っているようだ。

 急に話題を変えるところが、酔っ払いそのものである。


「うずらの卵って何の卵なの?」

「う、うずら?」

「また、その話ですか? 課長ったら、1次会のときからうずらの卵がにわとりの卵だって云い張るんですよ」

「は? 鶏がうずら!?」

「うん。だって……そうでしょ、ダンディさん」

「……あははは。面白いことおっしゃいますね」


 引き攣った笑いでその場をやり過ごそうとした、そのときだった。

 知美さんの衝撃発言が、俺の耳に飛び込んで来たのだ。


「うずらの卵って、孔雀クジャクの卵の事ですよね?」

「――へ?」


 俺は思わず言葉を失った。

 うずらの卵って、“うずら”という鳥の卵以外にも存在するのだろうかと頭が一瞬混乱したが、


 ――こんな美しい才女にも、弱点はある。


 と、納得することにする。

 そんな、俺の人生において貴重な教訓を得た瞬間。

 マスターにちらりと目をやると、彼の目が「知美さんの名誉のために話題を変えろ」と訴えていたので、さりげなく話題を変えてやった。


 それから、30分ほどの時間が経過――。

 バーバラの俺への絡みがエスカレートし、いつの間にやら、ひとつ分空いていた席へと移動した彼女が、時折俺の肩へ容赦なくその体重を預けるようになっていた。

 そんなとき、バーバラの相手を俺に委ねることにより彼女から解放された知美さんが、マスターに話しかけた。


「ところで、吉田よしだ社長の件なんですが」

「ああ、あの件ですね……」


 吉田という名前を聞いた途端、マスターの表情がどんよりと曇った。

 ちらちらとこちらを見遣る状況からして、どうやら俺の存在が邪魔なようである。ならば上等と、意地でもここに居座ることに決めた。


「吉田さんが失踪した日の夜、この店に来たっていうのは本当なんですよね?」

「ええ、そのとおりです。でも……失踪するなんていう兆候は全然なかったですよ」

「そうですか……。誰かに脅されているとか、そんな話も?」

「なかったです。ごく普通に会話して、いつもの時間に帰って行きました。それは警察にも話した通りです」

「うーん。やっぱり手掛かり無しか……」

「はい、すみません。でも、その件は警察に任せておいた方がよろしいかと――」


 とそのとき、耳がダンボな状態の俺の肩に、今まで経験したことがないような強大な力がのしかかったのである。


 ――人ひとりの命がかかってるし、俺の肩も重くなるはずだよ……って、お前か!


 その重圧の原因は、やはりバーバラ課長だった。

 アルコールがまわり、ついに酔いつぶれてしまった彼女が自身の頭を使って全体重を俺の左肩に載せている。


「知美さん。課長、寝ちゃいましたね」


 課長を起こしてしまわないように俺がそう囁くと、知美さんは「あらら、これはもうだめですね」と云って、帰り支度を始めた。

 俺の耳元で「うずらのたまご……うずらのたまご……」とバーバラが寝言を呟き始める。きっと、うずらの卵を産む鶏の夢でも見ているのだろう。仕方がないなと顔をそちらに向けた瞬間、俺の胸の中の何かがドキリと音を立てた。

 迂闊にも、彼女バーバラの寝顔の可愛さに見惚れてしまったのだ。


 ――いかん、いかん。俺は、知美さんひと筋なのだ。


「すみません、マスター。来たばかりですみませんが、課長を送って帰ります。それから、中川さんも、心配いただいてありがとうございました」


 支払いを済ました知美さんがふらつくバーバラの肩を支えながらBARを出て行った。

 にしても、俺へのお礼の言葉が取って付けたような“オマケ感満載”だったのは気に食わない。

 不貞腐れる俺に、マスターは声を掛けてこなかった。

 彼も、俺と同じように淋しい気持ちでいっぱいなのだろう。そして当然の如く、二人の美しい女性が去った店内はこの世の終わりのように静まり返っている。

 しかし、ここで俺は帰る訳にはいかない。

 ここでやらねばならない“仕事”が、俺には残っているからだ。


 ――これからが、本番だ。


 俺は、スラックスの左ポケットに手を突っ込むとそこから俺の体温でほどよく温まったミクリルを1本取り出して、マスターに向けて投げつけてやった。ミクリルは、空中を一直線、まるで手裏剣のように飛んでゆき、マスターの眼前まで迫った。

 だが彼は全く動じた様子を見せなかった。

 素早く動かした右手で、それをいとも簡単にキャッチしたのである。

 と同時に、マスターの表情が一気に緩んだ。俺は少し砕けた感じの調子で云った。


「久しぶりだな、大五郎だいごろう。まさかお前と、こんなところで会うとは」

「フン……。それはこちらの台詞だ、総一郎そういちろう。この世で一番見たくもないツラを再び拝むことになるとはな。今日は、何て幸運ラッキーなんだ!」

「へっ、相変わらずの憎まれ口の叩き方だな。……まあ、それはいいとして、お前、故意わざと知美さんに重要な情報を伝えなかっただろう?」

「フン……それはどうかな。だとしても、お前には関係ないことだ」

「そんな冷たいこと云うなよ、久しぶりに会ったんだからさ……。あ、そのミクリル、今朝の配達の残りだけどお前にくれてやるよ」

「フン――仕方ねえ、貰ってやるか」


 俺は、ジャケットのポケットに仕込んであったミクリルを一本、取り出した。

 そして、二人同時にミクリルのアルミ蓋を剥がすと、お互いの目線の位置で翳した。


「……再会を祝して」

「しっかし、これ生温いな。お前の体温だと思うと、胸くそ悪くなる」

「まあ、そう云うな」

「フン……」


 奇跡の再会を果たした俺たちは、カウンター越しにミクリルで乾杯したのだった。

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