第21話 眠らない日々

 久々に一切睡眠を取らない日々が始まって、俺の体調は急激に悪くなった。一度俺の身体が休息に慣れてしまったからなのか、同じ生活を続けていた以前よりずっと辛い。


 鏡を見ると俺の顔には相当酷い隈ができていた。

 顔色も悪い。


 俺の足を立たせているのは「俺は頑張っている」という自負だけだった。それがなければ、俺はとうに倒れ、学校に行っていないだろう。


「圭くん、大丈夫?」


 休み時間に自習を続けていると、譲葉が俺の顔を覗き込んだ。心配そうな表情。


「大丈夫だ」


 俺はすぐに手元にある教科書に視線を戻した。歴史は先生の気まぐれで何処から問題が出るのか分からない。授業中に話したことも含め、暗記だけでなくエピソードでも覚えなければならない。


「そう見えないから聞いてるんですけど」


 譲葉は俺の顔を掴んで、無理やり教科書から顔を背けさせた。

 頭が急に動くから、頭痛が急激に激しくなり、軽い吐き気が襲ってきた。視点が定まらない。


「先生も心配してたよ。流石に最近の圭くんは目に見えてやばいというか、完全に危険な状態だからね? 自覚してる?」


 譲葉は顔をぐっと近づけて、俺の目をじっと見た。鼻の頭に譲葉の妙に温かい息がかかる。


「……自覚してないわけじゃ、ない」 


 自分の出した声が、掠れていることに気付いた。疲れ切った声だった。


「でも、頑張らなきゃいけない時があるから、頑張るんだ」


 それでも俺は譲葉の目を見返して、そう言い放った。

 譲葉はいつかの周防のように、呆れた様子で溜息をつく。


「……周防さんと何があったのか知らないけど、自棄になってるなら、止めてよね」


「何でそこで周防が出てくるんだよ」


 左胸の奥のほうが、ちくりと痛む。


「空き教室にも行ってないみたいだし、前はたまに昼休みに話したりしてたでしょ? それが今はお互いに無視してるみたいじゃない」


 みたいじゃなくて、実際そうだった。


 あれ以来、周防と俺は話していない。互いに互いのことを無視し、関わることもなかった。そういう所まで、生活の全てが倒れる以前に戻ったような状態なのだ。今は。


 変わったと言えば、俺の心情くらいだろうか。


 周防の方がどう思っていたかは今となっては知る由もないが、俺は、彼女とは結構仲良くなっていたんじゃないかと思っている。


 だから、周防と喧嘩している状態が長く続くのは、歓迎できることではなかった。ただ、謝ったなら、俺は努力を止めなければならない。周防の意見を聞く必要がある。そうじゃないと彼女は納得しないだろう。でも、それだけは出来ないのだ。 


「まぁ、ひたむきなのも、一直線なのも私は美徳だと思うよ。思うけどさ、一つだけ聞いていい?」


 譲葉が俺の机の上にある、使い古した教科書へ視線を落とす。


「圭くんは、今、ちゃんと自分の意志で、好きなことをやってる?」


 それは、すごく譲葉らしい質問だった。


 俺は今、何のためにこんなことをしているのだろう。彩華に言われたからだろうか。彼女の不安を取り払おうとしたのだろうか。


 いや、俺は自分のために、勉強をしているんだ。

 悲願だった、彩華への勝利のために。

 今までの自分を、無駄にしないために。

 俺が、俺であるために。


「……」


 俺は、譲葉の質問に、黙って頷いた。


「前みたいに倒れたらやだからね」


 それだけ言って、譲葉は自分の席へ戻る。


 ふと、周防の席の方を見た。周防は何時も通り、うつ伏せになって寝ている。

 ある程度は覚悟していたけれど、あんなに強く、声を荒らげられる程に反対されるとは思わなかった。あの時の剣幕を思い出すと、休むのか好きとかそういう嗜好を超えたものが周防の中にある気がした。


 どうしてあいつは、俺にあんなに良くしてくれたのだろうか。

 どうしてあいつは、あんなに休むことを大事にしているのだろうか。

 俺の事情ばかり話していて、思えば、俺は周防のことを何も知らなかったのだと気付く。


 テストまで、あと一週間だ。

 終わったらまず、周防に素直に謝ろう。自分の行動が間違いだとは思わない。でも、俺は確実に、周防の気持ちを裏切った。だから、俺は謝らなければならないだろう。

 許してもらえないのなら、それはもう仕方がないことだと思うしか無い。


 取り敢えず、最優先は勉学。それだけは間違いない。他ごとはテストが終わった後に考えるべきことだ。無理やり自分の心を割り切って、俺は再び机に向かう。


 授業中も、休み時間も、生きている時間全て、俺は勉強に費やすのだ。

 長く集中し続けると、段々頭が重くなってくる。トイレに行くため立ち上がると、上手に歩けなくなってくる。それでも、頑張る。それが天才に勝つ唯一の方法だと信じて。


 そして俺の集中は家に帰っても続いた。

 一人、ただただ問題を解いていく。脳がこれ以上情報を入れるのを拒んでも、とにかく詰め込む。


「けーちゃん」


 部屋のベッドが軋む音がした。

 ベッドの上に大量に置かれていた参考書の山が崩れ、雪崩のようにして部屋の足場を減らしてゆく。


「彩華?」


 振り返ると、そこには見慣れた幼馴染が居た。制服のまま、ベッドに横たわっている。

 そういえば、もうテスト期間なのだから、バスケ部も休みか。


「調子はどう?」


 彩華はベッドの上で丸まって、そう聞いてきた。ベッドのそばで床に座っている俺と、目線の高さはだいたい同じ。その瞳には楽しげな色があった。


「体調のことを言ってるならあんまり良くないが、勉強で言えば結構好調だぞ」


「なら良かった」


 彩華は満足げに寝返りをうち、仰向けになって笑った。

 俺は机に向き直って、途中だった式をもう一度考える。

 沈黙。

 彩華は何をするでもなく、帰る気配もなく、ただベッドの上でぼーっとしている様子だった。


「……邪魔しにでも来たのか?」


「いや、ちょっと勉強の合間の休憩に、ね。あ、そうだ。あと、あれを頼まれたからってのもあるかな!」


 彩華が指をさした先には、キッチン。そこには幾つかのタッパーが置いてある。どうやら、おばあさんがまたお裾分けをしてくれたらしかった。


「おばあさん、本当に料理上手だよなぁ」


 この前食べた筑前煮を思い出し、ふと呟く。


「胃袋掴まれちゃった?」


 彩華が身を乗り出し聞いてくる。


「そうかもな」


 問題を解きながらの会話なので、必然応答は適当になった。


「いやー、流石の私もけーちゃんが義理の祖父ってのはキツイかなぁ」


「お前の頭の中では胃袋掴まれたら即結婚か」


「いや、でも、胃袋を掴むって結構大事だと思うよ。欲求に関わる人って忘れづらいでしょ。食べ物をくれる人とか、好きな人とか……安心する人とか、ね」


 特に彩華も何かを意識してその発言をしたわけではないようだった。彼女もベッドに積まれていた参考書をパラパラ見出していたし、殆ど無意識から出た言葉だろう。


 安心する人。

 ベッドに寝転がる彩華が、よく寝ていた誰かと重なる。


「なんかボーッとしてるけど、流石に疲れた?」


 彩華が首を傾げる。長い髪が少しだけ動いた。


「いや、疲れてはいない。まだやれる」


 自分に言い聞かせるようにそう言って、両手で頬を叩き、気合を入れ直す。

 そんな俺の様子を見て、彩華は楽しげに微笑んだ。


「なんか、いつものけーちゃんが戻ってきたって感じ」


「そんなに変わってたか? 俺」


「微妙な変化でも、分かっちゃうんだよ。小さい頃から一緒だから!」


「そういうもんかな……」


 ずっと一緒だった俺の目線から見ると、彩華は背こそ伸びたものの、子供っぽさも元来の天才基質もあまり変わっていないような気がする。


 例えば、これが突然茶髪にしてみたりしたらびっくりするだろう。それと同時に、寂しくもなるかもしれない。彩華が俺に感じたことも、そういう類の感情とそう変わらないんじゃないだろうか。


「けーちゃんは、ずっと変わらないって思ってたけど、そうじゃないんだもんね。いつか本当に彼女が出来ちゃうし、私から離れていく」


「そうかもな」


「私、昔から周りより自分が器用な方だって、気付いてた。皆褒めてくれたけど、私を雲の上の存在みたいに言って……。けーちゃんだけだったんだよ。私と勝負し続けてくれるのは。私を勝負の対象として見て、同じ目線で戦ってくれるのは」


 彩華は未だに参考書を捲っている。音が聞こえるのだ。しかし、彼女はきっともう、参考書など見ていないだろう。俺も、彩華の話に耳を傾けて、勉強が手についていなかった。


 俺はただ、ずっと負け続けてきた彩華へ意地になって勝負を続けているだけで、今の話のような美談は決してないはずなのだが、どうやら彩華の中では、そういうことになっているらしい。


「ありがとね」


 最後に、短い感謝を部屋に響かせて、彩華は自分の部屋へ帰っていった。感謝されることなんて、何もない。むしろ俺が感謝すべきなくらいだ。彩華への敗北が、俺の努力の糧だった。ここまで努力を重ねられたのは、彼女のおかげだ。

ふと、『努力は裏切らない』という言葉が脳内にリフレインする。


 彼女のおかげで、俺はこんなにも努力が出来る。そして俺は、その努力が無駄でないことを証明しなければならない。俺の人生が無意味か有意義化は、この勝敗で決まる。


「よしっ!」


 とにかく、がむしゃらにやるしかない。

 思考の海に潜って、息も絶え絶えに、泳ぐ、泳ぐ。


 それは周防に言ったように、本当に命を燃やしている感覚のある作業だった。

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