第2話 今日は暑いからね

 その日、清太郎君は職場で体調を崩し、上司の命令で会社を早退した。倦怠感からして、おそらく風邪でも引いたのだろう。

 早く帰宅して、ベッドで横になりたい。

 清太郎君は自宅を目指してフラフラと歩いた。


 そして、自宅アパート前を通るとき、自分たちの部屋を見上げた。二階の真ん中の部屋。そこに雛子さんが待っているはずだ。


 そのとき、カーテンの隙間から、雛子さんと目が合ったような気がした。なぜか雛子さんは急いでカーテンを閉め、すぐに見えなくなってしまったが。

 雛子さん、やけに露出が多い格好をしていたように見えた。まさか、家の中では裸で過ごしているのだろうか。


 そんなことを考えながらアパートの階段を上っていると、突然踊り場で中年男性とすれ違った。

 ジーパンのチャックが開き、ベルトがちゃんと締められていない。顔はサングラスでよく分からなかったが、彼は尋常でない量の汗をかき、随分と慌てた様子で階段を駆け下りていった。


 狭い階段を駆け下りるなんて危ないなぁ。

 しかし、今の男性は誰だろうか。

 あんな人、このアパートには住んでいなかったはず。誰かの部屋でも訪ねていたのだろうか。


「ただいま」

「おっ、おかえり……清太郎君」


 玄関の扉を開けると、雛子さんが出迎えてくれた。


 しかし、その様子はどこかおかしい。

 彼女も先程の男と同様、尋常ではない量の汗をかき、シャツのボタンをずらしてかけるなど衣服の乱れが生じている。息も荒く、体全体で呼吸していた。


「何か、帰るの、早いね」

「体の調子が悪くて、早退させてもらったんだ」

「ひ、一言、連絡してくれれば、よかったのに……」


 雛子さんは何か残念そうに目を伏せ、冷蔵庫から食材を取り出して夕食の準備を始めた。


 今日の雛子さん、妙に胸のラインが浮き出ている気がする。


「雛子さん、もしかして、ノーブラ?」

「えっ? ああっ。きょ、今日は暑かったから」

「涼しいような気温だと思うけど……」

「そんなの、個人差でしょ? 私は暑かったの」


 清太郎君が寝室の扉を開けると、部屋はむんわりとした熱気と、イカのような匂いが充満していた。この部屋だけ異様に暑い。日当たりの問題だろうか。


「じゃあ、僕はベッドで寝てるから」

「あ、うん……」


 清太郎君は体を休めようと、スーツを脱ぎ、ベッドに腰を下ろした。


 しかし、指先の感触に驚き、清太郎君はすぐに立ち上がった。


 何だこれ……。

 ベッドが濡れている?


 ベッドだけではない。よく見ると、フローリングの上にも大小の水たまりができている。

 そのとき、雛子さんが急にキッチンから寝室に飛び込んできた。


「ああっ、ごめん! 私、ここでお水を溢しちゃったの!」

「お水? 何でベッドの上に水なんか持ってきたの?」

「水分補給って大事でしょ? 急な脱水症状にならないよう、非常時にも備えて、寝室にもペットボトルで水を用意しておこうと思ったの。今日は暑いし」


 雛子さんはキッチンから急いで雑巾を持ってくると、床の水溜りやらベッドの染みを拭き始めた。何やらかなり焦っている。時折、雑巾に吸われた液体を嗅ぎ、匂いをしきりにチェックしているようだった。

 ただの水を溢しただけなのに、何をそんなに気にしているのだろうか。


「でも、すごい飛び散り方してない? どうやったらこんな部屋の隅まで水滴が――」

「は、派手に転んじゃったの! そのときに、プシャーって!」

「え、転んだの? 怪我はない?」

「うん、大丈夫。ごめんね、後でちゃんと拭こうと思ってたんだけど……」


 雛子さんはフローリングに四つん這いになり、水を拭き取っていった。

 そのとき、清太郎君は気づく。雛子さんのミニスカートから、何かポトポトと滴っていることに。かなり粘度を持っているのか、雫は糸を引き、音も立てずにゆっくりと床に落ちた。


「雛子さん、スカートの中から何か垂れてますよ?」

「え? ああっ! 今日は暑いから汗かいちゃったんだよ」

「汗って、こんなに糸を引くものなの?」

「脂汗だって、けっこうネバネバするでしょ? きっと私の汗も、今日はネバネバしてるんだよ。暑いから」

「暑いんじゃ仕方ないね」


 雛子さんは汗っぽい液体も素早く拭き取り、そそくさと寝室を去っていった。

 清太郎君はあまり暑さを感じなかったが、世間的には暑いのかもしれない。

 彼は乾かしている途中のベッドから踵を返し、リビングのソファで眠りに就いた。

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