1章 第2話 降ってきた麦藁帽子

「待ってくれ、玲華!」


 がばっと起き上がって、〝元カノ〟の名前を想い出し、叫んだ。


「……って、あ?」


 自分の部屋だった。玲華の部屋から遠く離れた地の、自分の部屋だ。どうやら机に突っ伏したまま寝ていたようで、課題の最後の頁が涎で濡れていた。夏休みの宿題が終わって、そのまま寝てしまったらしい。

 今日は夏休み最後の日だ。

 さすがに、一か月費やして終わらせる夏休みの課題を三〜四日で終わらせるのは無理があった。終わった途端ベッドにいく余裕すらなくそのまま永眠していたらしい。しかもあんな夢を見るなど、最悪だ。


(もう忘れていたはずだったのに)


 そんな後悔と胸糞悪さだけが残っていた。

 さっき見ていた夢は、俺の過去そのものだった。昨年の高校一年の六月、俺がまだ東京に住んでいた頃に起こった事だ。憧れの女の子と付き合っていて、両想いだったはずなのに、俺の不甲斐なさが原因で、結果的にお互いに傷つけ合っていた。それに痺れを切らした彼女から、遂に切り出された別れ話。

 一年以上経ってもう完全に忘れていたと思っていたのに、僅かな睡眠と栄養ドリンク、そして決死感だけで宿題に取り組んだのはまずかったらしい。悪夢を見てしまったようだ。

 ただ、その努力の甲斐あって、本来四日はかかると思われたものが三日で終わった。御陰様で夏休み最後の一日を自由に過ごせる。伸びをして、クーラーを切って窓を開けてみた。

 まだ、朝方の五時が過ぎた頃だ。遠くの森で鳴く蜩の歌声が朝焼けを幻想的なものに導き、田舎独特の朝の匂いが身に染み渡る。東京にはない景色と匂いだ。

 ──ちょっと散歩に行ってみようか。

 ふと、そんなことを思いついた。

 クーラーは好きだが、さすがに数日クーラー漬けだったから体の具合がおかしい。幸い、今は朝方故に涼しかった。散歩をしても、汗だくにはならないだろう。それに、気分転換がしたい。何で今更彼女の事を思い出さないといけないのだ。

 そんなことを考えながら、部屋着からジーンズに履き替え、家族を起こさない様にそっと階段を降り、玄関からでた。


 夏の朝方ほど、気持ちのいいものはない。田舎故にもともと人通りは少ないが、その中でも特に人が通らない道を歩んでいく。遠くから聞こえる蜩と透き通る様な草木の香りが心地よかった。

 田舎には、田舎なりに良いところがある。昨年東京からこんな片田舎に引っ越してきた時は、あまりの何も無さにうんざりしたけども、今では結構気に入っていた。

 いや、うんざりなら今もしている。遊ぶところはほぼ無いし、時間の使い方はきっと都内に居た頃よりずっと適当で、時間を持て余す事が多い。だが、逆に言えば東京では味わえない風情と匂いがあるし、時間はゆったりと流れる。そんなこの町が、少しずつ好きになっていた。


(そうだ……久々にあそこに行ってみよう)


 俺は思いついて行き先を変えた。田舎だからこそ出来る、自分だけのお気に入りの場所作り。夏場は暑くて行きたいとは思わなかったが、今の時間帯なら平気だろう。

 音慶寺の石段を登り、その裏手にある森の細い石畳の道を抜けたところにあるお気に入りの場所。自宅から徒歩約十分と少しといったところに、この田舎町を見下ろせる高台があるのだ。俺はあの場所が好きだった。

 何もないこの町で、唯一その〝何もなさ〟を受け入れられた場所ともいえる。何もないからこそ美しいものもある、と。

 音慶寺の石段を登って、細い石畳の道を抜けたところに町の景色が広がる──はずだったが、俺の視線はふわりと舞ってきた麦藁帽子に奪われた。

 その麦藁帽子がぱさっと足下に落ちたので、視線も当然足下に向かう。


「あっ……」


 そんな漏れる様な女性の声が、正面から聞こえて、ハッと顔を上げた。そこには白いワンピースに身を包んだ若い女性。彼女はこちらを見て固まった様に立ち尽くしていた。

 そして、これがこの暇でしかなかった俺の生活を根本から変える出会いとなるのだった。

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