勿忘草の物語

瀞石桃子

第1話


身の丈に合わなかったのかもしれない。

遠距離恋愛をするにはあまりに心が脆すぎた。若かったこともある。友人からは近くの人を探したらいいじゃない、と何度も言われた。

当時の、浮ついた気持ちのただなかにいるときは、恋愛している人間にそんな軽はずみなことを言わないでほしいと突っぱねていた。自分の恋愛の価値観を否定されているようで、赦せなかったのだ。

と、過去を冷静に分析したところで、愛に成り切れなかったわたしの気持ちはあの人の一言をもってぷちんと切れてしまった。ピアノ線をペンチで切るみたいに、呆気なく。

ひとまずのところ、わたしの恋愛はこのとき終戦してしまった。心臓の壁面には、剃刀で切り込まれた多数の生々しい傷がざっくりあって、未だに不安や欺瞞、かなしみや切なさが切り口からとめどなく流れ出している。まだ日が浅いのもあって、なだらかな復興の目処は立っていない。


一週間が経っても、ぎしぎし揺れる吊り橋を歩いているみたいな浮遊感が間延びしていた。まだ失恋に身体が慣れていないのです。

奇しくも、今日は遠距離恋愛のマエストロとも言うべき織姫さまと彦星さまの逢瀬たる七夕の日とかで、散歩をしている途中、幼稚園のそばを通りかかると、園内からはささのはさらさらの歌が聞こえてきた。

七夕のお願いか。

どうか、わたしに、真実の愛の姿を見せてください。


✴︎


「見えます、見えます。あなたは恋についてお悩みですね」

わたしの座る椅子の前には、怪しげな紫色のローブを被った中年の女性がいて、ぶつぶつ唱えながら、いかにも怪しげな水晶玉を撫でていた。

占いの洋館──わたしは自分の澱んだ気持ちをさらさらと洗い流したくてやってきた。話を聞いてもらえれば多少はすっきりすると思ったのだ。


「あなたの恋に対する考え方はルビーの宝石、柘榴の果実、とてもパッショナブル、ゆえに嫉妬心も人一倍あります。もちろんそれは相手を想う一途さの賜物です。しかし、思い込みが激しくて、小さなすれ違いでも精神をすり減らすほどの不安に感じてしまうのです。違いませんか?」


ええ、はい。そんな気がします。

遠距離恋愛をしていたんですけど、毎日辛かったです。自分のいないところだと相手が何をやっているかわからないし、メールを送って返信が遅いと、何も手につかなくてそればかり待ってしまうんです。お互い頻繁に会える距離でもなくて、次第に自分はこのままの関係を続けながら精神を保っていけるのだろうか、という不安が大きくなりました。

「それで別れてしまったのですね」

わたしはこくりとうなずいた。

もちろん相手に会うと、嬉しくて、ずっとそこにいたくなります。何日も何年も一緒にくっついていたいんです。包み込んでくれる心地よさが全部満たしてくれて、うっとりして。

けれどいつからでしょうか。

会いますよね、好きでいますよね、そして離れてしまいますよね、そうするとふっと熱が冷めてしまうようになったんです。

要するに、わたしは会ったときだけ相手を愛して、会ったときだけ相手に愛されようとしていたんです。

それに気づいた途端に、自分がひどくはしたなく思えました。ゾッとしました。

わたしの愛し方は下手とか泥くさいとかじゃなくて、けがれている、と思いました。


もしも今後誰かを好きになったとき、どういうふうに相手を愛してあげればいいか、わからなくなりそう。正解を知りたいんじゃないです。わたしが思う真実の愛のかたちを、はっきりさせたいだけなんです。


「すこし落ち着きましょう。あなたに必要なのは余裕です。まあ、お聞きなさい。占い師はべつにあなたの悩みを解決する仕事じゃありません。あなたの中で、靄のかかっている不明瞭な視界を鮮明にすることです」

優しく語りかけるように、占い師の方はわたしの手を取って諭してくれた。

「謂わば、その人個人の過去・現在・未来の解像度を高くする仕事です」

解像度?

「むずかしい話はやめましょう。さて、話題を変えて、あなたの前世についてお教えしましょう」

わたしの前世ですか。

「はい。あなたの前世は非常に特殊ですね。まさしく今のあなたのように、愛に一生を懸けるようなお人、いえ、実際に愛のために生きたお人のようでした」

はじめて聞きました。とても素敵ですね。

「ええ、素敵です。その方の生まれ変わりがあなたなのですから、いずれ運命が真実の愛へと導いてくれますよ」

そうですか、ありがとうございます。嬉しいです。


「......」

あの、差し出がましいお願いかと思いますが、何か、これを身につけたら運気が上がるみたいな物があったら、教えてくださいませんか。

「うーん、そのような物は自分で見つけるのが一番良いでしょう」

と、やんわり断られたので残念に思って俯いていると、ただし、という言葉とともに占い師のその人はわたしの目をすっと見据えた。

「あなたはあと数年すると、運命の周期に突入します。恐らくこのとき、あなたは運命の人に出会います。そしてその相手は間違いなく、 ammonite のアクセサリーを身につけています。このことを絶対に忘れないでください」

ammonite のアクセサリー?

あ、はい。わかりました、ありがとうございます。

頑張ってくださいね、という励ましの言葉を背中に受け、わたしは占いの洋館を後にした。


✴︎


夜。七夕の夜。

人は笹を立て、願いを込めた短冊を吊るし、星のまたたく夜空を流れる天の川に祈りを捧げる。

わたしは地域の北に位置する高さ数百メートルほどの低い山の中腹に奥にある神社に赴いていた。

麓からなだらかな山道を歩いて石段を登って行くと、鳥居が見えてきて、その空間を通して星空とひっそりと鎮まった社殿を拝むことができた。

そこから苔むした石畳みの道を進んでいく。道の脇には看板が立ててあったが暗くて読めなかった。

神社に来たことに理由はなかったけれど、なんとなく何も考えたくなくて、または今日の占い師の方に言われた言葉の意味を考えたくて誰もいない静寂の中に来てしまった。


それで、来たはいいけど、特別することもなくて、とりあえず本殿にお参りをし、奥の暗闇へ入ることができそうだったので、靴を脱ぎ慎重に中に足を踏み入れた。

抜き足差し足で奥に進んでいくと、もはや何も見えなくなる。足元のぎしぎしと音が鳴るのを頼りに足だけで場所を探る。

すると、右足が何かにぶつかった。ごとりと音がして、わたしは驚いて声を上げそうになるが、口を押さえてなんとか封じた。一瞬硬直して冷や汗をかく。

まさかこんな夜中にわたし以外に、珍客などいないと思う。思うんだけれど、身体を強張らせ、数秒ほど息を止める。

「......」

何もなかった。

そりゃあ、何かあったら、むしろ困る。困り果てる。とにかく何もなくて良かった。


誰もいないことを確認して、わたしは携帯のカメラで足元を照らした。円形の光は直方体の箱をとらえた。わたしの足にぶつかったものだろう。

箱には蓋がついていた。触ってみると開けられそうな雰囲気があった。わたしは念入りに周囲の様子を確認した上で、すみません、お邪魔します、という一言をきっかけに、蓋を開けた。

その瞬間にまばゆい光が箱の中から噴き出して、本殿の中をくまなく照らし、わたしの網膜に世界が映る前にわたしの意識はぷっつりと途絶えた。


✴︎


昔、ある所に、若い娘がおりました。娘は気立てが良く、両親にたいそう可愛がられました。彼らが住んでいたのは人里を離れた小さな村で、土地の広さの割に民家は点々としており、外観は殺風景なものでありました。

また山々に囲まれており、村は閉鎖的であり、土壌の性質も然程良くはなく作物は育ちません。村のなりは、住人たちの人となりを左右しますし、食べ物はろくな栄養もなく、結果として村全体にも活気はありませんでした。

その中で太陽だったのは年頃の若い女子でした。

彼女たちの無邪気な姿は村にとって希望のしるしでした。

然し乍ら、女子は有る程度成熟しますと村を出て嫁ぎに行かなければなりませんでした。それが当時の社会に於いて至極当然の在り方であり、殆んど素性も判らぬまま男女は夫婦になりました。

あるものは時間をかけて愛の花を育み、あるものは愛の花を摘み、あるものは自ら花を落としました。


この若い娘も、本来であればじきに村を出なければなりませんでした。ですがそれは叶いませんでした。

なぜならばこの若い娘は病気を患っておりました。結核でした。村の医者からは一生治らないと、非情な宣告を受けました。その当時結核に効果的な有用な薬はなく、その若い娘に結核が見つかると離れの小屋に隔離されることになりました。

周りから手厚くされていた娘は、結核が発覚するや腫れものにさわるかのように避けられ、厭われ、のけものにされてしまいました。

彼女のそばにいたのは両親だけでした。両親は必死に看病を続けました。治らないと言われた瞬間から死ぬまでこの子の面倒を見ようと、彼らは決心していました。この家族は村の人々にこの恐ろしい病いが拡がらないように、家を出ることを許してもらえませんでした。


病気になってから一年と少しの月日が経ちました。不思議なことに両親に結核が感染することもありませんでした。ですが、娘は目に見えて徐々に弱くなっていきました。

再び村の医者が診察したとき、彼は愈々時間がなくなってきていることを悟りました。然しそのことを僅かはたちにも満たないこの娘に告げるのは余りに残酷であり、代わりに彼女の両親にだけ伝えました。

母は泣き崩れ、父は口を真一文字に結んだまま、何も言うことができませんでした。

その以後、彼らはよりいっそうの愛情を娘に注ぎました。一日一日、希望が萎んでしまわないように、精いっぱい優しくしました。


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