第23話 平和な一日

 それは爽やかな暑さが続く、7月の日曜日のことであった。渉は家庭教師のため、ふみの家へと向かっていた。勿論、瑠璃子も一緒である。瑠璃子とふみは二人揃って国史の成績が今一歩であった。瑠璃子はもうすぐ学校を辞めるが、修身と国史は教育の中でなによりも大切である。それ故に二人揃って国史の勉強をすべく、家庭教師として渉がつけられた。

渉は赤錆びた自転車を押しながら、瑠璃子は竹と絹でできた日傘を差しながら歩く。瑠璃子の家はふみの家から少し離れた場所にある。やがて、花緑青の車が停まる瓦葺きの家についた。ここがふみの家だ。ふみの家の前で小西家の女中が掃き掃除をしていた。

「ごめんなさい。石田と申しますが、お嬢様はいらっしゃっいますか」

「ハァイ、少しお待ち下さいませ」

 その明るい声をした女中は掃き掃除をやめ、家の中に入る。出てきたのはふみではなく、執事の宇喜多であった。宇喜多は手を震わせながら渉に一礼する。

「石田さま、少々お待ちを。我が家は今大変な問題を抱えている故」

「如何なされましたか。お姉さまに何かありましたか」

 瑠璃子は可愛らしく小首を傾げる。宇喜多は汗を拭い、鶯色の便箋を取り出した。

「お嬢様に恋人ができたそうです。今からその恋人が来る故、今日はお引き取りを」

 瑠璃子と渉は顔を見合わせた。ふみに恋人が出来た。それはまさに青天の霹靂であった。渉はふみが瑠璃子に一途な想いを寄せていることを知っている。まさか、新しい女の子に手を出したのかとも渉は考えた。渉が瑠璃子の方を見ると瑠璃子は動揺を隠せずにいた。無理もない。彼女は唯一無二の存在から大切なことを聞いていなかったのだから。

「瑠璃子さん、出直しましょう。美味しい甘味処にでも行きますか」

「でも、私お姉さまに会いたいです。会って色々と伺いたいことがあります」

 宇喜多は懐中時計を確認する。

「申し訳ござらぬが、もうすぐいらっしゃる時間」

「分かりました。ふみさんによろしくお伝えください。ほら、瑠璃子さん行きましょう。今日は秀臣くんと一緒に勉強しましょう。終わったら甘味処へ連れて行きますから」

 渉は瑠璃子の手を掴み、引きずるようにして歩く。瑠璃子は名残惜し気にふみの家を見ていた。渉は瑠璃子と一緒に歩く。瑠璃子は小さく呟く。

「どうしてですかね。お姉さま、私にどうして教えてくれなかったのでしょう」

「言いたくても言えない事情があったのでしょう。秘密の恋とか」

「まぁ。お姉さまったらまさか白蓮してるのかしら」

「まさかふみさんに限ってそれはないと思いますけど」

 爽やかな陽気の中、しばし歩いていると花緑青の車が二人の近くを通った。運転手はどこかで見たことがある顔である。渉が眉根を寄せているとそれは紛れもない、恋敵であった加藤正清の顔であったと思い出す。瑠璃子にはそれは見えていなかったようである。

「あの車、加藤さんが乗っていたね」

 渉は自転車のハンドルを押しながら呟いた。その呟きは瑠璃子には聞こえていなかったようで、空に呟きは消えていった。

 やがて、瑠璃子の家に着く。瑠璃子の家では秀臣が庭で本を読んでいた。秀臣は訝しげに顔をあげたが、瑠璃子と渉の姿を認めると顔を華やがせた。

「姉様、お帰りなさい。随分早かったですね」

「ええ。お姉さまがちょっとご用があったみたいで」

「それで、秀臣くん、勉強がてら甘味処にでも行こうと思うのだけど、どうだろう。たまには甘味処で勉強も乙ではないかい」

「先生、それいいですね。行きましょう」

 こうして三人は元町にある甘味処へと繰り出していったのである。渉は餡蜜を、瑠璃子と秀臣はカスタードプリンを頼む。

「渉さん、カスタードプリン、一口食べたくないですか」

 瑠璃子は穏やかに笑う。秀臣は自分のプリンを黙々と食べている。

「ええ、食べてみたいですね」

 渉は爽やかに言う。瑠璃子は嬉々として一口分を掬い、渉に向ける。

「あーん」

 そう、それは以前にも洋食屋で見た光景であった。しかし、秀臣が今回はいる。渉は恥じらう。

「何を恥じらっていらっしゃるのですか。ほら、あーん」

 渉は意を決して瑠璃子の銀食器を口の中に入れる。なんだか、レモンのような味がしたと渉は思った。

「もう、渉さんったら。ほら、口元にプリン付いてますよ」

 そう言って瑠璃子は渉の口元に付いたプリンを掬い、自らの口の中に入れる。瑠璃子は頬を染めながら、「ご馳走様です」と言う。秀臣はその様子を冷めた目で見つめていた。渉は羞恥のあまり、男として恥ずかしいが泣きそうになっていた。思わず鞄から国史の本を取り出す。

「ほら、瑠璃子さん、秀臣くん。勉強しましょう」

「先生、僕先に帰りましょうか」

「恥ずかしいから秀臣くんも居てもらえると助かります」

「もしかして、渉さん照れてますか」

「照れてなんかいません。恥ずかしいだけです」

 午後のきらきらとした日差しの中、子供たちはきゃいきゃいとはやし立てる。穏やかな午後。そんな一日が続けば良いと渉は思った。

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