第6話 瑠璃子のお返し(上)

その晩、渉は結城邸で泥のように眠った。三日三晩と言わず約一週間彼は自転車で峠を越え、川を越えた。その疲れが安心した途端出たのであろう。

 翌朝、午前9時過ぎに起床した。彼にとって久々の寝床であった。眼鏡をかけ、呼び鈴を手探りで探していると、小さなノック音が聞こえてきた。渉は小さなあくびをしながら、「どうぞ」と訪問者に告げる。訪問者は瑠璃子であった。瑠璃子はにこにことしながら、食事の支度ができたことを告げた。瑠璃子に礼を言い渉はベッドから抜け出した。

 朝食はハムと卵とトーストであった。焼き立てのトーストを齧っていると、対面に座っていた瑠璃子が眼を輝かせていた。

「なんでしょう、瑠璃子さん」

「渉さん。渉さんから昨日いただいた翡翠、大切に致しますね」

「ハハ……そう言われると照れますね」

「私もお返しをしたいのです。お恥ずかしいことに私は渉さんと違って自分で何も出来ない上、父に頼ることしか出来ません。それでも貴方が喜ぶものをお贈りしたいのですが、何か欲しいものはありますか」

 渉はちょっとだけ考える。現在自分の欲しいものは特になかった。それでも目の前の少女は自分が何かを欲しがっていることを期待している。その期待を裏切ってはいけないと思ったが、何も欲しくはない自分の無欲さを呪った。

「瑠璃子さん。瑠璃子さんの気持ちの収集はつかないとおもいますが、俺はその気持ちだけで十分だ。それにお返しなんて望んではいけないよ」

 そういい瑠璃子に微笑んだ。すると、反対に瑠璃子はむくれていた。

「そう言って……。渉さんは卑怯です。一人だけ格好つけて」

「歳上ですし、何よりしたくてしたことです。格好いいもへったくれもありませんよ」

 瑠璃子の頬はリスのように膨らんでいる。渉はなんだか可愛らしさのあまり、瑠璃子の頬をつつきたくなった。

「渉さん、本当に何か無いのですか」

「ウ……そうですね。今は特に」

「では、こうするのはいかがですか。私を渉のお宅に連れて行ってください。そこで足りないものを私が見つけて、それを贈る。そうでもしないと気持ちの収まりがつきません」

 渉の長屋はお嬢様育ちの瑠璃子にとって想像を絶するものであろう。自宅を見れば瑠璃子はあれもない、これもない、と言い始め膨大な数の贈り物が渡されてしまう。その様子が渉の脳裏によぎる。

「それは嬉しいのですが……いま、原稿を溜めているので、とても女性を入れることができません。また片付けたらお呼びします」

 嘘だ。いま、自分のところに原稿の依頼は来ていない。部屋はほぼ空っぽの状況だ。しかし瑠璃子は食い下がった。

「そうしたら何を贈ればよいか分からなくなってしまいます」

「イエ……本当に瑠璃子さんのその気持ちだけでありがたいのです。それ以上には何も入りませんよ」

 ちらりと部屋の時計を見る。もう10時30分だ。時計。渉は思いついた。

「そうだ、瑠璃子さん。私が大学を卒業したとき、銀時計をいただきました。しかし、私が無精なせいか、いまでは壊れてしまって動きません」

「あら。それは大変ですね。さぞ思い入れのある時計でしょうに……」

「エエ。思い出がたくさん詰まっています。しかし、歴史を学ぶ者としてはよくないですけれども、思い出も大事ですが新しい未来と共に歩みたいと俺は思います」

「なるほど……私、ひらめきました。今度渉さんに会ったときにお渡ししたいものが出来ました。少し、席を外してもよろしいでしょうか」

 そう言って瑠璃子は勢い部屋を出ていく。その様子を渉はハムを食べながら見守っていた。

 朝食を食べ終えた渉は自転車を押しながら帰路に着いた。結城氏の邸宅にこれ以上世話になるわけにはいかないと思ったからだ。結城氏に挨拶をしようと思ったが、何やら立て込んでいたようだったので、女中に言付けをしてから邸宅を出た。横浜山手は高いところにあり、空が近い。大学で仕事をもらってこなければそろそろ生活費が危ないことを思い出し、急ぎ坂を下り始めた。坂を勢いよく下り、砂埃を立てながら自転車を漕ぐ。自宅に着くまで自転車で1時間30分。今日の最終郵便集配には間に合う時間に帰りたかった。家路を急ぐ渉の後ろから黒い車が急に抜かしてきた。渉が思わず止まると、車から瑠璃子が降りてきた。

「まったく。私とお父様に一言もなしに帰るなんてひどいではありませんか」

「アァ……女中さんには言付けたのでそれで良いと思いましたから。旦那様はお忙しいようでしたし」

「だからといって私に声をかけていただけない理由にはなりませんわ」

「今日は貴女の可愛らしい顔を良くみますね」

 瑠璃子は眼を丸くした。渉は頭を二、三度掻いた。

「膨れた頬が愛くるしい」

 瑠璃子の顔と耳が真っ赤になってゆく。それにつられて渉の耳も少しだけ赤くなる。

「それはそうと、瑠璃子さん。俺に何様ですか」

「ああ……その……えと。文句を言いにきただけです」

「そうですか。それは、失礼致しました。急ぎの用事があるのでこれにて。」

 渉は頭を下げ、再び歩き始める。

「あの」

 渉は振り向く。瑠璃子の顔はリンゴ顔負けに真っ赤だ。

「私……その……今度伊勢佐木に一緒に行きませんか。私、その時に貴方に贈り物を致しますから……それまで楽しみにしていただけますか」

「ええ、ぜひ」

 瑠璃子は満開の花のように、笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る