梨花は人前で泣かない



 朝の特別面会は、碧の乱入によって幕を閉じた。元々今日は、碧と桃香はえみりの家に招かれていたのだ。


 梨花の病室を出て、病院のエントランスへ向かう。梨花が目覚めて嬉しいのか、碧はやけにはしゃいでいて、ピョンピョンと飛び跳ねながら歩いては顔馴染みの看護師や患者に挨拶して回っている。 

 

 せっかく梨花が目覚めたのだから、訪問は後日にずらして姉妹水入らずで過ごせばいいのに……と亮介は思っていた。外出を楽しみにしていた碧の手前、口には出さなかったが。

 と、そんな思いを読み取ったかの様に桃香が口を開いた。



「梨花ね、しばらく一人の時間が必要だと思う。アルバム持ってきてって頼まれてたの、置いてきたから」


 部屋を辞する際、桃香は数冊のアルバムや幾つかの資料を梨花に残してきていた。そういえばその時も、一緒に写真を眺めながら色々語り合えばいいのに、とも思ったものだ。


「きっと、泣くんじゃないかな。あの人、人前では絶対に泣かないから。だからさ、江木くん。夕方の面会時間まで、梨花を一人にしてあげてくれる?」



 亮介は言葉を失った。


 人前では、泣かないって? 実年令はともかく、中身は17の女の子だぞ? しかも、あんな儚げで物静かな……いや、少なくとも高校時代はそう見えていた。実際に話してみたらだいぶ印象は違ったけれど、それでも、17歳の女の子だ。



「それなら尚更、誰かが付いていてやった方が……」


 桃香は黙って首を振り、少し笑った。


「今まで何度言っても、江木くん信じなかったけどさ。今日、ちょっとわかったんじゃない? 梨花って、あの当時でさえ私より小さくて、色白で華奢でか弱く見えてたでしょ。声も細くて可愛らしいし」



 そう。清楚で朗らかで成績も良く、教師からの信頼も厚かった。賑やかなタイプではなかったけど、いつも周りには人が集まっていて、その中心で小さな花のようにたおやかに笑っている……そんな印象だった。

 そしてそんな彼女に、あいつは恋をしていた。中学からの俺の親友。俺の、初恋だった人。あいつは彼女に話しかける勇気もなく、ただ遠くから見つめるだけで……



「みんな見た目に騙されるんだよね。あの人、中身はものすごい負けず嫌いだよ。反骨精神の塊。めっちゃ頑固者。扁桃腺が弱くて咳が出やすいから、あまり喋らないし声も細いせいで、一見大人しく見えるけど」


 言葉だけだと姉の悪口にも聞こえるが、桃香の口調でそうでないとわかる。これは、悪口風の姉自慢なのだ。その証拠に、桃香は嬉しさを抑えきれないみたいにずっと微笑んでいる。



「人に弱みなんか見せないの。『私はいつもご機嫌ですけど何か?』って感じで、いっつもニコニコして。嫌なことも笑顔で躱して。悩み相談なんかも受けちゃって。でもね、たまーに、夜中にこっそり泣くんだよ。声も立てずにね、布団にくるまって」


 ふふっ、と小さく笑いながら、桃香は談話室へと入っていく碧を目で追った。おそらく外出に持っていく本を選びに行ったのだろう。


「ちょうど、あのくらいの頃だよ。みぃと同じくらい。朝起きて来た梨花の目が真っ赤でね、私、からかったの。そしたら梨花、ものすごく怒ってね。『私は泣いてない!』って。それでもしつこくからかったら、もう摑み合いの大げんかになってさ」


「ああ、おばさんが何度か話してたな。最初で最後の大げんかだった、って。おじさんが号泣してやっと収まった、ってやつ」


「そうそう。朝から大変だったぁ。でもそれ以来、梨花が泣いた痕跡に気づいても誰も触れなくなったの。同情されるのと心配されるのを、一番嫌うってわかったから。人のことはいつも心配するくせにさ」



 亮介にとって、それは正直、意外な話だった。高校1年当時の亮介には、彼女は「男子が守ってやるべき可憐な女子」と映っていたから。何故なら……あいつが。亮介の初恋相手でもある親友が、彼女をそういう目で見ていたからだ。

 不思議なものだ。10年経った今でも、そしていくつものエピソードを聞いた今でも、亮介の彼女に対する印象は高1の時のままで止まっていたのだ。



「昨日今日と少し話して、確かにちょっとわかった気がするよ。あの時さ、梨花が俺に向かって来た時……『あ、勝てない』って思ったって言ったろ? 『妹は私が守る』って気迫がさ、もの凄くて。それまで俺が持ってたイメージとのギャップに驚いて」


「それにビビって足滑らせたんだもんね」


「そうそう。完全に気迫負け。でも、あれがあいつの本質なんだな」

「だから何度もそう言ったのに」


「だな………実際に喋ってみるまでは、信じられなかった」


「まぁ、しょうがないかもね。あの人、ある意味アタマおかしいもん。ケンカした時にさ、ついこないだまでは指にトゲが刺さったくらいで大泣きしてたくせに~、って指摘したら『8歳までの事はカウントされない』とか言いだしたからね。そんなルール、初耳だよって話よね。でもあの人、それから本当に、人前で泣いてないの。すごくない? 9歳から意識してネコ被ってるって事だよ」


「小3にして、セルフプロデュースか。女って怖い」

「いやいや、あの人が特殊なだけですって」



 碧が本を手にやって来た。表紙に雪深い冬の森が描かれた児童書を斜めがけのバッグにしまいながら、満足げな表情だ。


「ライオンと魔女っていうの、借りてきた」


「ナルニア国物語か。それ、すごく面白いよ」


 きっと、表紙の森の絵に惹かれて借りたんだろうな。そう推測しつつ、桃香は碧の眠りの森を想像した。そこは一体、どんなところだろう。

 人前で泣かないと決めたあの頃の姉と、同じ年頃の少女。或る日突然に家族を亡くした少女。碧の中には、どんな思いが詰まっているんだろう………




 まだ誰もいないロビーを突っ切り、入り口に立っている守衛さんに会釈して外へ出る。空は雲ひとつなく晴れわたり、柔らかな風が吹いている。今はまだ涼しいけれど、日が高くなれば暑くなりそうだ。


「じゃ、行ってくるね。あ、そうそう……」


 ジャケットのポケットから車の鍵を取り出し、亮介に手渡す。


「車は好きに使って。5時半までにここに戻しておいてくれたらいいから」

「おう」


「ねぇ、江木くん。梨花、大丈夫だから。あの調子なら、大丈夫」

「……おう」



 「じゃ、また後で」と駅へ向かう二人に手を振り見送ると、亮介は巨大な建物を見上げた。小高い山に生い茂る膨大な緑を映す無数の窓が、朝日を受けてキラキラと輝いている。


 あまりにも眩しくて、涙が滲んだ。


 俺だって、泣いてない。反射した朝日が眩しいだけだ。亮介は、一つだけ開いている窓に向かって心の中でそう言い訳し、車へ向かった。




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