眠りの森 手離せない母親<塚田美枝子>


 チラチラと光が瞬いています。彼女は手をかざして目を覆い、指の隙間から周囲を見回しました。ここは……森の中?


「起きてください、塚田美枝子さん」


 急に名前を呼ばれ、彼女は驚いて身を起こしました。それまでは倒木に半ば背を預け、しっとりと柔らかな苔の上に横たわっていたのです。もたれていた姿勢から急に起き上がったせいか頭がクラクラするようで、目元を覆ったまま緩く頭を振っています。



「ここは、眠りの森です。あたしの、夢の中です」


 声の方へゆっくりと目を向けると、彼女の左隣には小さな少女が膝を折って座っていた。




 少女は女性の手を強く握り、まっすぐに彼女の目を見て言いました。


「延江碧、9歳です。あたしの身体は今、ムーグゥ特別室のあなたのベッドで一緒に寝てます。ここはあたしの夢の中で、あたしは手を繋いで寝るとその相手をこの森に連れてこれるの」


 塚田美枝子は片手を頬に当て、戸惑った表情で周囲を見渡しています。


「何を言っているの? 親御さんはどこ? 迷子かしら」


 碧は美江子の注意を引くように、握った手を揺すりました。


「迷子じゃないよ。ここはあたしの夢の中。あたしが、あなたを連れてきたの。えみりちゃんのお母さん」


 美枝子の体が、ビクンと跳ねます。息を飲んで目を見張り、ふんわりと整えられた髪をオロオロとかき乱し始めました。


「えみり! えみりはどこ? あたしの赤ちゃん。あたしの赤ちゃんを返して」


「赤ちゃんじゃないよ」


 碧は手を繋いだまま、立ち上がりました。頭を掻きむしっている美枝子の手を取り、そっと握り締めます。

 向かい合って両手を繋ぐ格好のまま少女の顔を呆然と見上げる美枝子に、碧は固い表情で繰り返しました。


「えみりちゃんはもう、赤ちゃんじゃないよ。4歳でしょ。小さい子だけど、赤ちゃんじゃ、ない」


 美枝子は碧の顔を見上げたまま、震えるように小さく首を振ります。瞬きもせずいっぱいに見開かれた目が、みるみる潤んでいきます。


「違うわ。赤ちゃんよ。私が抱っこしてあげなきゃ、すぐにぐずりだして泣いてしまうの。私の腕の中で、幸せそうに眠るのよ。目が覚めると、小さな手を伸ばして私の顔に触るの。嬉しげに声をあげて、笑うのよ。私の可愛い赤ちゃん……あの子は、どこ?」


 ドン! と突然足を踏み鳴らした碧に驚き、美枝子は身を竦ませました。


「しっかりしなよ、おばさん。えみりちゃんはもう、4歳だよ。お喋りだって出来るし、走ったり飛び跳ねたり歌うたったり、お使いだって出来るんだよ。もう少ししたら、ランドセル背負って小学生だよ。いつまでも赤ちゃんじゃないの!」


 横坐りの姿勢から、美枝子は膝立ちになり、碧の小さな手を強く握りました。縋り付くように、強く。


「違うわ。あの子は、特別なの。私がいないと、あの子は」


 唇がわなわなと震え、握りしめた碧の手をグラグラと揺すります。痛いくらいです。

 碧は苛立って、片方の手を乱暴に抜き取りました。そして、レモンイエローのリボンとシャーベットオレンジの花飾りがついた麦わら帽子を指差して言いました。


「この帽子、今日買って貰ったの。このスカートも。可愛いでしょ」


 淡い色のデニム地に小さなレースをあしらったギャザースカートの裾を広げて見せます。


「えみりちゃん、起きたら可愛い服着たいと思うよ。お母さんと一緒に公園に行って、遊びたいと思う。ブランコ乗って滑り台して、お母さんの作ったお弁当食べるの。暑くなったら噴水のお水に入って、お砂場でおままごとして、お父さんが帰ってきたら玄関まで迎えに行って『おかえり』ってするんだよ」


 いつの間にか、美枝子は元の横坐りに戻っていました。体から力が抜け、それでも少女の顔を凝視し続けています。迸る言葉を掴みかね、その意味を求めるように。

 碧もまた、縋り付くような美枝子の視線から、目を逸らしません。


「ご飯の後はみんなでお風呂に入って、泡で髪の毛を角にしたり手でお湯を飛ばしたりするの。お風呂出たらアイス食べるの。遠足の前の日は、お菓子買ってもらうの。お遊戯会や運動会の日は、お父さんお仕事休んで動画撮るの。それで、何度も何度も動画見るんだよ。お休みの朝は、お父さんとお母さんがまだ寝てるから、音をうんとちっちゃくしてテレビ見るの」


 話しながら、碧はポロポロと涙を流しました。声は完全に涙声だけれど、口調はしっかりとしていて、その目には伝えようという強い意思が見えます。


「水たまり、お父さんとお母さんが手を持って、ピョーンって飛び越えるの。ソウとかわりばんこに、おっきい水たまりだって、体がふわってなって飛び越えるの」


 袖口でゴシゴシと涙をぬぐい、大きくひとつ鼻をすすると、碧は美枝子の正面にしゃがみ込みました。


「えみりちゃん、このままだと楽しいこと何も出来ないよ。お友達と遊んだり、喧嘩したり仲直りも出来ないよ。そんなの、かわいそうだよ」



 今や、美枝子が涙を流していました。乱れた髪のまま、声も出さず静かに涙を流し、唇を震わせて碧を見つめています。


「……でもあの子、ずっと目を覚まさなくて……あの子の夢の中に入ったら、抱きしめたら、温かくて、柔らかくて、あの子の匂いがして……」


「おばさんはそれでいいかもしれないけどさ。えみりちゃんは? このまま、眠ったままでいいの? えみりちゃんは、生きてるんだよ」


 ああ、と小さな声を漏らし、美枝子は目を閉じました。肩を震わせてとめどなく涙を流し、そして蹲ってしまったのでした。




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