第2章

眠りの森 自殺未遂の男<佐藤竹広>


「ここは……なんだ? 地獄か? 思ってたのと違うな」

「地獄じゃないよ。この森は、ぼくの夢の中、です。おじさんは生きてて、体は病院のベッドで眠ってます」


 男は首を巡らし、辺りの様子を観察しました。目を眇めて注意深く周囲を見回し終えると、今度は自分の身体をキョロキョロと見下ろしています。


「怪我、してない。なんも」


 少年が、繋いだ手を引いて男の注意を促します。目が合うと、少年は少し言い出しづらそうに唇を噛みました。


「佐藤竹広さん。あのね、病院に居るおじさんは、両足ヒビと骨折で、手首も折れてるって。でもちゃんと治るって、看護婦さんが言ってた」

「ちょ、君。痛いことをさらっと言うねぇ。で、君は?」


「延江蒼一。そうちゃんです。9歳です。ぼくも今、同じ病院に入院してます。おじさんは、お仕事辞めた日にお酒飲んで飛び降りたんだけど、途中で手摺かなんかにぶつかって落ちたから、死なずに済んだんだって。最初は大きい病院に運ばれて、なかなか目覚めないからってこっちの病院に移ってきたの」


 男は慌てた様子で、繋いでいない方の手を大きく振り回します。


「待て待て待て。いきなり情報が多いって」


「ごめんなさい。教わったこと早く言わないと、忘れちゃうといけないから」

「ああ、悪かった。そうだな。うんうん、思い出してきた……会社の隣のビルにの屋上に上がって、仕事してる同僚たちを眺めながらビールやらストロング缶を何本か空けて……」


 男の声はだんだんと力を失っていき、やがて男はしょんぼりと肩を落としました。


「……そうか。死ねなかったのか。俺は自殺にさえ、失敗したのか」


 少年から顔を背けたまま、男は掠れた声で尋ねます。


「なぁ、そうちゃんとやら。俺がここで首吊ったら、俺は死ねるのか? もし、お前を殺したら、どうなる? 俺もお前も死ぬのか?」

「そんなこと出来ないよ。だってここは、ぼくの夢の中だもん」


 途端に側の木の枝から数本の蔓が音もなく伸びて絡まり、男の足は地面に固定され、繋いだふたりの手を拘束しました。


「ね?」

「……なるほど。だが、舌を噛んだら」


「無理だよ。だってぼくの、夢だもん。おじさん自身の夢の中でだったら、もしかしたら死ねるかもね」

「そういうもんなのか」


「わかんない。でも前に、絵本で読んだことがあるの。本当に本気で生きていたくないと思ったら、健康な人でも眠ってる間に心臓が止まっちゃうことがあるんだって。だから、体が生きてるってことは、ほんとは生きていたいの。だから、心臓が動いてるうちは生きなきゃいけないんだって」



 男は、少し言葉に詰まった様子を見せましたが、小さく鼻を鳴らして笑いました。


「……ガキのくせに説教か。参ったな」

「べつに説教じゃないよ。絵本の話だから、本当かどうか知らないし。そもそも猫の家族のお話だったし」


「猫かよ。まぁ今の俺なんざ、猫にも劣るってな。な、そうちゃんよ。もう物騒なことは考えないから、これ解いてくれないかな」


 逆再生のようにスルスルと蔓が引っ込み、男はゆっくりと倒木に背を委ねました。少年もそれに倣い、手を繋いだまま男の横に座ります。男は少し目を細め、葉の隙間からこぼれ落ちる柔らかな光を全身で受け止めようとするかのように、体の強張りを緩めました。



「ここは静かでいいな。ちょっと暗いが、かえって気持ちが落ち着く」

「うん。ぼくもここが好き」


 縦横に折重なる枝と幾重にも生い茂る葉から落ちる木漏れ日が、音も無くちらちらと体の上で揺れています。



「……なあ、おじさん、ずっとここに居ちゃ駄目かなぁ」


「無理だよ。ぼくが疲れて目覚めちゃうもん。そんなに長くは居られないんだ」


 男は初めて白い歯を見せて、笑いました。笑うと、目尻に優しい皺が浮かびます。


「寝てるのに疲れるのか。おかしなもんだな」

「そう。疲れてこの夢から起きて、自分のベッドに戻ってまた寝るの。すごく変だよ」


「それは残念。ここはこんなに気持ちいいのに」



 しばらく沈黙が続いた後、男は大きく息を吐きました。


「静かすぎるのも、案外退屈なもんだね。鳥の声や風の音が恋しくなる」

「歌でも歌えば?」


「いや、もしよかったら、さっきのお話を聞かせてくれないかな。猫の家族のお話」


 頷いて静かに語り出した蒼一の声に、男は耳を傾け、やがて目を閉じました。





 □□□□□□□□□□




 ある街の片隅に、猫の家族がいました。


 おとうさん猫、おかあさん猫と、ふたごの猫です。


 ふたごの片っぽうは、立派で強く、かしこい子猫。もういっぽうは、体が小さくて動きも遅く、餌を取るのもへたくそでした。


 おとうさん猫ときょうだい猫が狩りに出たある日、小さな猫は言いました。


「ぼくはチビでのろまで、ダメな子だ。いつもネズミを逃すし、ご飯も少ししか食べられない。けんかも弱いし逃げ足だって遅い。しょっちゅう怪我ばかりしてる。きっとこのまま、死んでしまうんだ。ぼくなんて、生きていたって仕方ないもの」


 それを聞いたおかあさん猫は、静かな声で言いました。


「坊や、お耳を母さんのお胸に当ててごらんなさい。ほうら、トキトキと小さな音がするでしょう。それはね、母さんだけの、大事な宝物。坊やの胸にも、坊やだけの宝物があるのよ。それが動き続けている限り、生きていかねばなりません」


 どうして? と坊やは尋ねます。だってぼくは、こんなに惨めで辛いのに。


「その宝物は、心が形になったもの。だから怖い時にはドキドキするし、嬉しい時にはあったかくなる。辛い時には痛くなったりするでしょう?」


「ほんとうだ、ドキドキしたりあったかくなったり、痛くなったりするね」


「それと同じに、もう生きていかれないとなれば止まってしまうものなのです。坊やの宝物は今、どうかしら」


 坊やは耳を澄ませます。トキトキと、小さな音が聞こえます。


「可愛らしい音がしているよ」


 おかあさん猫は坊やを抱き寄せて言いました。


「そうね、可愛い坊や。生きていけば良いのです。宝物の音をようく聞いて、ただまっとうに、生きるのですよ」


 小さな坊やは、それでもまだ不安げです。


「宝物を持っていること、忘れないで。自分だけの、素敵な宝物。大切にしなさいね」


「はい」と坊やは言いました。宝物が胸の奥で、じわりと暖かくなりました。



 時が過ぎ、小さな猫は大人の猫になりました。相変わらず喧嘩は強くないけれど、逃げ足だって遅いけれど、片方耳が欠けてるけれど、立派な猫です。

 お父さんもお母さんも、兄弟猫ももう居ません。でも、寂しくはないのです。


 だって、胸の中に大切な、宝物を持っているから。



 □□□□□□□□□□




「……空で言えるのか。すごいな」


 いつの間にか流れていた涙を袖でぬぐうと、男は鼻声のままそう言いました。


「何度も読んだから、覚えちゃった」


 少年は、淡々と話し始めました。その内容とは裏腹に、まるで物語の続きを読むかのように、淡々と。


「ぼくのお父さんとお母さんと、お姉ちゃんは、死んじゃったの。交通事故で、3人いっぺんに。ぼくも一緒に死んじゃえばよかったって思ってた。その時にね、談話室からお母さんに似た声が聞こえてきて、行ってみたらボランティアのお姉さんがこの絵本読んでくれてたの。桃香ちゃんっていうお姉さん。それでね、後で本を借りて、何度も読んだんだ」


「そうか……お前も、大変だな」

「まあね。でも、心臓が動いてるから、生きなきゃ仕方ないよ」


 妙に大人びた言い方に、男はふっと笑いました。


「生きなきゃ仕方ない、か。すごいセリフだ、こりゃ参った」


「おじさんも起きようよ。参ってる場合じゃないよ。病室にお母さんとお姉さんとお兄さん? が来てて大騒ぎなんだよ」


「おふくろ来てんの? マジか」

「なんだっけ、お姉さんがね、おじさんの体を揺すりながら『パソコンのパスワード突破してやった』とかって言ってた」


 男は飛び跳ねるように上体を起こし、大声で叫びました。


「嘘だろ!?」


「あと、データふくめん? とかって騒いでた。おじさん怪我してるのに、腕とか肩とか揺さぶってね。引き剥がすの大変そうだったし、ぼくも煩くてなかなか寝付けなかった」


「あの姉貴ならやりかね……おい待て。データ復元って言ったか?」

「ああ、そうだったかも。よくわかんない」


 男は空いた手で、ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟ります。でも、片方の手はしっかり繋いだまま。


「起きる、今すぐ起きるぞ。どうやったらいいんだ」

「え、よいしょって感じでいいんじゃない? じゃ、手を離すよ。せーの」


「よいっしょぉぉぉ!!!!」



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