3-5

 愛花の教えてくれた理論というのは、こういうものだった。


 俺の左目と愛花の左目は世界を越えてつながっている。

 それは視覚情報と音声情報を行き来させているということになる。


 であれば、これらを起点にして情報の出入り口を広げることができれば、人間が通り抜けることも可能なのではないか。


 愛花からはよくわからない専門用語が飛び出し俺は何度も困惑させられたが、おおむねこんな内容で合っているはずだ。


 なにより俺が困惑したのは、あの万年赤点ギリギリの愛花が、異世界とはいえしっかりと理論や体系を学んでいることだった。

 前々からやればできる子だとは思ってたけど、ここまでだとは思っていなかった。


 そんな愛花が提案した具体的な手順はこうだ。


 愛花はまず魔法で自分の左目の複製を作る。


 そこがもっとも強力に異世界とつながっている部位だからだ。

 精巧な複製であれば、異世界とのつながりも複製できるかもしれない。

 これも仮説だけど。


 で、そこからマナさんの研究していた術式を展開して入り口を作る。


 このトンネルの出口は俺の左目だ。


 しかし、このままだと俺の左目からずるりと愛花が出てくることになる。

 そうなれば義眼だけでなく俺の身体もどうなるのかわからない。


 危険を最小限にするためには義眼を外し、十分なスペースのある場所に固定しておく必要があった。


 言ってみれば俺がこっちの世界でやることはそれだけだ。

 魔法的な部分は愛花が担っているため、俺は横断幕でも持って愛花を出迎えればそれでいい。


 ただし、失敗すればどうなるのか。


 もしもなにかのきっかけで今のつながりさえ閉じてしまえば、声を届けることも、視界を共有することもできなくなってしまう。


 唯一のつながりである左目を使うということは、そういうことだ。


 だがその程度で済めばまだいい。


 一番の問題は、マナさんがかつて似た実験を失敗している点にある。

 また失敗すれば今度は命を落とすのが愛花になる。

 それは二度と見たくない。


 だが愛花に言わせればゼロから異世界とのつながりを生み出すのと、か細くともすでに存在するつながりを広げるのとでは意味や術式が違うらしい。


 だからといってそのことが安全性を担保するわけではないはずだが、愛花はやる気だ。


 そして俺は残念なことに、他の案を持ち合わせていない。


 こうなったらやるべきことをやるだけだ。


 翌日、日曜日の早朝。

 俺は早々と家を出て準備を始める。


 儀式の場所は「パンダの公園」を選んだ。


 なにが起こるかわからないので、屋内よりかは屋外のほうがいい。

 愛花が派手に飛び出して、どこかに頭をぶつけては気の毒だ。

 それでいて人目のない場所がいいはずだ。


 これらの条件を満たしている場所は、さびれたパンダの公園しか思いつかなかった。


 だから時間も早朝を選んだ。

 これなら偶然近くを通りかかる人もいないし、いつかのように母から飯田さんへ捜索願が出されることもないだろう。


 午前五時の町はまだ薄暗い。


 こんな時間から活動することはめったにないので普段なら眠いはずだが、気分が高揚しているせいか今は眠気を感じなかった。



「じゃあ外すからな」


「うん。待ってて」



 愛花と短いやりとりを済ませて、俺は義眼を外す。


 あとはもう、今のが最後のやりとりにならないことを祈るだけだ。


 空洞を晒しておくのも気が引けて、ポケットから取り出した白い眼帯をつける。


 それから長年子どもさえ触れていそうもない砂場に、外した義眼を埋めた。

 こんなことをしたら、どちらにしろこの義眼はもう使えないだろう。


 十万円。


 頭の中に六桁の数字がそびえるのを振り払う。


 もう一度愛花に会えるなら、これくらい安いものだ。

 親には謝って、貯金箱を開けるか、バイトをして稼げばいい。


 砂場が視界におさまるベンチへと下がる。

 遊んでいる子どもを見守ることのできる位置に設計されているのだろう。

 今砂場にいるのは子どもではなく義眼で、見守っているのは親ではなく俺であるあたり、つくづく気の毒な使われ方をしている場所だ。


 ベンチに座った俺は残された右目で砂場を見つめながら、なにかが起こるのを待つ。


 静かだった。


 試しに目を閉じてみても異世界は見えないままだ。

 入院していた頃は義眼がなくても見えていたはずの景色が今はまったく浮かんでこない。

 もちろん愛花の声は聞こえず、俺はただぼんやりと砂場を眺めているしかなかった。


 どれくらい経ったのか。


 あまりになにも起こらないため、もしかしたら愛花になにかあったのではないかという不安が膨らんでくる頃。


 みしり、という音が聞こえた。


 空気がきしむような音だ。


 俺は思わず立ち上がり、数歩砂場に近づく。


 義眼を埋めた砂場の周囲は、ひび割れたレンズを通したかのように景色が歪んでいる。

 正面から風が吹いてくる。

 湿度の高いじっとりとした空気ではなく、吸い込んだ肺が張り付いてしまいそうなほど冷たく乾いた空気だ。


 流れ込む風が強くなり、俺は思わず目を閉じてしまう。


 そしてそれが突然止んだ。


 薄くまぶたを開けると、目の前に人が立っている。


 間違えるはずもない。


 腕を伸ばせば届きそうな距離にいるのは、御堂愛花だ。


 声は出てこない。

 そのとき俺が最初に感じたのは安堵だった。


 左目が見ていたのは幻覚じゃなかった。

 聞こえていた音声は幻聴じゃなかった。

 こうして無事に再会することができた。


 それらすべてを含めた、大きな安堵感が押し寄せてくる。


 立っていることができず、俺はその場に座り込んでしまった。



「久しぶり、ゲンちゃん」



 事故が起こってから、まだ一ヶ月も経っていない。

 それなのに愛花の微笑みはかつてより少しだけ大人びて見えた。



「眼帯してるなんて、なんだか海賊みたいだね」



 しかし口を開くとやっぱり愛花は愛花のままだった。



「なんだよそれ」



 苦笑しながら立ち上がる。


 まごうことなき、感動の再会だ。


 俺は愛花に会いたかったし、向こうも多分そうだと思う。

 しかしこういうときの喜び方がイマイチよくわからない。


 握手とかするべきなのか?

 それとも感激の抱擁を交わすのが正しいのだろうか。

 むしろ今までどおり、昨日も会っていたみたいな態度でいるのがかっこいいのか。


 悩んでいるうちに、愛花のほうから抱きついてきた。


 あまりに勢いよく飛びついてきたため、受け止めるのに苦労する。

 一歩だけ後ろに下がってしまった。

 これはかっこ悪い。



「本物のゲンちゃんだ」



 首に腕をまわした愛花が耳元でささやく。


 しばらくの間、愛花の声は自分の脳に直接響いていた。

 だからこうして鼓膜を経由して声を聞くのとでは少し味わいが違う。


 そんな些細なことさえ今は感慨深い。



「そっちは、本物の愛花か?」



 なんと言うべきかわからず、間抜けな質問をしてしまう。

 すると愛花はくすくすと笑った。



「当たり前じゃん。ゲンちゃんはバカだなぁ」


「ああ、そうだな」



 いつもとは立場が反対のやりとりをして、ようやく俺の気分も落ち着いてきた。

 今、腹の底からこみ上げてきているのは恥ずかしさだろう。


 愛花が耳元でくすくすと笑い声をあげる。

 それにつられて俺も笑った。


 なにか大切なことを見落としているんじゃないのか。

 そんな漠然とした不安はあった。


 けれど、今はそれを無視できる。

 根拠のない嫌な予感よりも、根拠のある喜びを優先してもいいだろう。


 俺たちは誰もいない公園で子どものように笑いあった。



「ただいま」



 愛花がささやくように言う。

 その声を間近で聞けることはとても幸せなことだった。

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