第26話~航太朗~二人の想いが重なる時
奏と過ごす日々が僕にとって安らぎだと感じ始めるのに、ほんの少しの時間さえいらなかった。
こんなに温かい日々なんて、じいちゃんが死んでから、ここ数年感じることなんてなかった。
家の中で、誰かがたてる音が微かに聞こえてきて、その音さえ愛おしいと思う。ファティマが部屋を出入りするから襖も少し開けているし。
閉じこもっていた生活から抜け出せて、僕は幸せなのかもしれない、この生活こそ僕が望んでいたものなのかもしれない、そう感じていた。
暗いモノクロだった部屋が、少しづつ色を重ねて一枚の絵を描くようにパステルで色を足して行く、奏との毎日が色づく。
「おはよう」と言う化粧っ気のない無防備な笑顔「美味しいね」と笑う無邪気な笑顔。風呂上がりの髪を束ねた姿。
僕はますます奏を好きになっていく。
和羽が、鳥のようにビルから飛び降りたあの日、一緒に魂が死んだはずの僕が恋をしている。
「ただいま」と玄関の引き戸を開けた奏の顔が何だか寂しそうで僕は思わず抱きしめそうになる。
「おつかれ、なんか仕事で嫌なことでもあった?」
「うん、ちょっと、とにかく先にシャワー浴びるね」
そう言って部屋に行く姿を見ながら、僕は作りかけのカレーをもう一度火にかけた。
奏が好きだと言った牛すじのカレー、ルーを入れてかき混ぜると完成で、奏を待った。
いつもより長い時間、浴室から台所に入って来た彼女は泣いていたのか、目を真っ赤にした奏を見るのが辛くてなるべく明るい声で話す。
「玄関に近づいてカレーの匂いがすると嬉しかったよね、今日は僕が作ったけどね」
「うんうん、そうだよね、航太朗ありがとう」
奏が少しだけ微笑んだ。
僕にも遠い昔そんな日々があった、母さんがまだ壊れる前で愛されていた頃。
その思い出を忘れるために僕は一人で生きて来たんだと思う。
「とにかく、ご飯食べよう」
鍋の蓋を開けて、炊きたてのご飯にたっぷりとカレーをよそう。
「航太朗のカレー美味しいよね、私が作るよりもきっと」
手渡したスプーンを手に取りながら奏は笑う。
食べ終えたあと、奏はぽつりぽつりと話し始めた。
「前に話した、結婚する予定だった人から突然電話が入ったの、彼女と上手く行ってないみたい、勝手だよね」
胸の奥が微かに痛むのを感じながら僕は奏の言葉を待った。
「明日会えないかって言われた」
「奏はまだ彼のことを忘れられないの?」
「とんでもない、もう二度と逢いたくないと思ってる、でもね私ももうすぐ30歳だし、何となく色んなこと考えちゃって、もちろん断ったよ……電話番号だって消してたし……」
食べ終えた皿を流しに持って行きながら奏が呟いた。
「もう、終わった恋だから」
お皿を洗いながらしばらく無言になる奏に、僕は思い切って自分の気持ちを話した。
「僕じゃ駄目?……僕は歳下だし頼りないかもしれないけど、僕は奏とこれからも一緒にいたいと思ってる」
奏が皿を洗う手を止めて下を向いた。
肩を震わせて泣いているのに気がつく。
「私が隠していた感情を航太朗は知ってた?」
震える肩を後ろから抱きしめながら僕は答えた。
「もちろん、少しだけ気がついてた、だけど僕は勇気がなかったんだ、伝えたら壊れてしまいそうだって思って……ごめん」
僕が回した両手に自分の手を重ねながら奏は消えそう声で言った。
「バカ!私だって、ずっと航太朗のこと好きだった……悲しいくらい好きだった……でも私、何年たっても歳上だよ、死ぬまでずっとだよ」
「うん」
「私、泣き虫だよ」
「うん、知ってる」
「そして、あまのじゃくだよ」
「うん」
重なった手を絡めながら僕は何度も答えた。
僕たちはその日初めてキスをした、優しくて切なくて愛おしいキスだった。
あの日ファティマが温もりを求めたように、その夜もずっと、朝まで抱き合って眠った。
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