第15話~優しい時間

 航太朗君と仔猫が住む家に毎日通うようになっていったのは自然なことだった。


 仔猫のファティマも私に懐いていたし静かに流れる時間が愛おしいと思う。


 柊堂に寄り、鍵を預かり航太朗君を待つことが多い。

 そんな日は簡単な食事を作り仔猫一緒に飼い主を待つ。


 この古い家には小さな庭がある、

 雑草だらけの庭だったが、2人で少しだけ綺麗にした。



 月明かりに照らされた静かな庭は湿っていて、夏の虫がリリリ……と鳴いている。風が吹くと、草が揺れて、密やかな音を立てる。


 ファティマはその庭が大好きで走り回る、高い塀もあり逃げ出すことも出来ないけれど、仔猫も、小さな虫を追いかけたり本来の猫らしさをその庭で取り戻す。


 縁側に座って、深呼吸をする。

 夕日は落ちて、夕闇が迫っていた。

 今にも朧月夜が始まろうとしていた。心許ない青い月光が静かに出番を待っている。


 スマホに着信が入る。


 航太朗君からだった。

「奏さん、スーパーに寄ったけど、何か買って帰る?お弁当でも買ってく?」


「台所お借りして、簡単だけどご飯用意してるから大丈夫です、でも甘い物を少しだけ」


 航太朗君に気を使わせないように少し甘えてみる。


「ありがとう、ご飯楽しみだな、アイスとかでもいい? あとお酒は?僕は少し飲みたいし 」


「いいですね、私も1本だけお願いします、レモンサワーを」


「うん、分かった」


 スマホを閉じて、ファティマを呼ぶ、ちゃんと自分の名前だと分かってきた仔猫はぴょんと縁側に登り。身体を擦り寄せてきた。


 まるで小さな仔猫と大きな仔猫だと思う。


 きっと私が大きな仔猫。


 まるで、なかなか慣れない野良猫が、少しずつ知らない家に入って行くような……そんな感じだと思う。


 この部屋にはたくさんの本も並べられている。

 本からは、嗅ぎきれない紙の不思議な匂いが立ち上がってくる、それはきっと過去からの匂い。


 それは私の知らない柔らかくてせつない匂い。


 堪らなくなってファティマをそっと抱きしめる。



 日なたみたいないい匂いがした。

 深呼吸をしていっぱいにそれを吸い込む。

「いい匂い、航太朗君の匂いだ」

ファティマは気持ちよさそうに目を細める。


大好きな人の優しい匂いだ。


玄関のガラスの引き戸に、影が映る。

まるで自分の家のように「おかえり」と言う。


2人で向かいあってご飯を食べる、そうすると包みこむようなふかふかした空気が部屋に充満しているように感じる。


おいしいけれど小さすぎるお菓子をかじるときのようだった。

もったいないから、ゆっくり。

すこしずつ。願わくば、もっとゆっくり。


「この煮物美味しい、僕の好きな味」


優しく笑う航太朗君


「良かった、また作るね」


私は失ったものと、これから失うはずのものを思っていた。

静かに時を過ごす、この時間が消えてなくならないようにと願うには私は若くないのだ。

せつなくて儚い幸せな時間。

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