『蝶に憧れて』

 蝶が羨ましかった。彼らは正しく成長さえすれば、必ず殻を破り大空を舞うことができるからだ。私は蝶に憧れを抱いていた。


 卵から孵化した幼虫は、餌を食べて成長したのち蛹化する。そうして蛹となり羽化を経て成虫となる。完全変態と呼ばれるこの形態変化は、節足動物の多くに見られる。芋虫の頃は非常にみすぼらしく基本単色で地味な姿だが、成虫になれば瞬く間に煌びやかな姿へと変貌するその様は、憧れ以外に何を抱こうか。


 蝶にも種類がある。私がよく見かけるのは、アゲハチョウだ。一般的なナミアゲハから黒く鮮やかに光るクロアゲハ、薄い青が見事なアオスジアゲハ等。多種多様、そして同じ仲間でありながらそれぞれが一様に存在感を放つ姿は羨ましい。


 私はどうだろうか。一言で言ってしまえば、みすぼらしいことこの上ない。華やかさなどないし特別誇れるような要素もない。だからこそ、こうして私の頭上を優雅に飛び回る蝶を見ては、憧れ以上に憎さも感じ、そしてそれ以上に自分自身が憎くて憎くてしょうがなく、それを上回るように今置かれている状況、ひいては世の中が憎くてたまらないのだ。


 仄聞するところによれば、人間というものはそうした美しい蝶を針責めにするらしい。私はこうした卑しい存在なので、今真上を飛ぶこいつらが、人間どもによってそのようにされればよいのにと感じるのだ。端から見れば私は非情な考えの持ち主なのだろう。


 分かっている。これが世の摂理なのだ。一週間のうち、蝶は百個以上の卵を産むそうだ。そのうち、きっちり成虫まで成長を遂げ、次の世代へ繋げる準備を行うことが可能になるのは、百分の一にも満たないという。それほど生存競争というものは厳しいものなのだ。孵化できなかったり、鳥に捕食されたり、せっかく蛹になってもハチに襲われたり。世知辛いがこれが自然界の掟である。


 私の今置かれた状況は、まさに背水の陣だ。ただし背後にあるのは、見たことはないが海であったり、どこかの河川というわけではない。皆様方には想像できないだろうが、ただの水たまりであっても私にとっては大海のようなものなのだ。


 先刻、雨が降った。風は吹いていなかったがなかなかに強く降り続けた。雨に沈められた私はこの時点で弱ってしまったが、幸いにも晴れ間が見えたのだ。このまま何事も無ければ生存で来ただろう。


 水たまりに沈み、もぞもぞと動く私を見つめる二つの眼があった。雨をしのぎ、餌を探しに来た鳥だった。孵化し五齢期を迎えて、間もなく蛹化できるだろうという頃合いの出来事だった。


 私は、蝶に憧れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る