十 不開の間の謎(2)

 藤巻執事が古くて立派な観音開きの扉を開き、先生と僕はその扉を潜って食堂へと入る。


 ここで食事をするのはもう何度目になるのだろうか? そう考えると、僕らもだいぶこのお屋敷に慣れてきたというか、かなり長居をしてしまっているような、そんな感慨に捉われる。


 ……だが、相変わらず慣れないのはこの重苦しい空気である。


 僕らが食堂に着いた時、ショックで臥せっている彩華夫人以外の、まだ残っている・・・・・・・家族達は全員集まっていたが、この食卓を取り巻く空気は昨日にも増して暗く、重く、そして息苦しい……やはり、この陰鬱な空気の濃度は屋敷の人口密度と反比例しているようだ。


「ああ、先生方も参られましたね。では、そろそろお夕食にいたしましょうか」


 その陰気な重力に支配された空間へと足を踏み入れると、桜子さんが僕らの到着に気づき、いつもながらの凛とした声でそう執事に合図を送る。


「毎日申し訳ありませんが、今夜もご馳走になりま…」


 そんな桜子さんに会釈をし、僕らも自分の席に着こうとしたのであったが……その挨拶の言葉も途中で止め、不意にその場で硬直してしまう。


「先生? どうかなさいました?」


 その傍から見れば奇妙な行動に、首を傾げて桜子さんが問いかける。


 だが、僕らは口を半開きにしたままの状態で、黙って彼女の方を注視する……いや、実際に見つめている対象は桜子さんではない。僕らの視線が向けられているのは彼女の後――そこに位置する窓の外である。


 なぜならば、そこにはこちらをじっと見つめたまま佇む、一人の不審な男の姿があったからである!


 もちろんこの家の者ではない。三十代半ばだろうか? 頭にバンダナを巻き、髭面で、アーミー系のシャツを着て、その上に釣り人の着るようなポケットのたくさん付いた黒いベストを羽織っている。


 しかも、その背格好……昨夜見たあの黒い人影に似ているような気もする。


「せ、せ、先生……あ、あれって……」


 僕は震える声を振り絞って、なんとかそれだけを呟く。


 その呟きに、そこにいる全員が僕達の視線の先を追って窓の方を振り向く。


「ん? なんじゃ? 何があれなんじゃ?」


 だが、昨晩と同様、どういうわけかその不審人物にはまるで気づいていないらしく、幹雄主人は訝しげな表情でこちらを睨むと、僕らにそう尋ねた。


それは、他の者達にしてもやはり同じで、怪訝な瞳を僕らの方へと向けている。


「あっ!」


 そうこうする内に、その不審人物と僕らの目が合い、男は飛び上がるほど驚くと、転げるようにしてその場から逃げ出した。


「御林君!」


「はい!」


 僕と先生は目配せをすると、これまた昨夜と同じ様に慌てて食堂を飛び出そうとする。


「先生! いったい何がどうしたって言うんですの?」


 その背中に、やはり昨夜の行動を繰り返すかのように桜子さんが声をかける。


「またです! また誰かが外にいたんですよっ!」


 僕は振り向きもせずにそう叫ぶと食堂の扉を開け、先に飛び出す先生の背中を追って駆け出した。


 僕らは一寸先も見えない、濃密な霧に満たされた夕暮れの庭をひた走る。


「どうです~? そっちは~?」


「…ハァ……ハァ……駄目です……どこにも見当たりません……」


 ……だが、これも昨夜同様、さっき見た人物の姿は何処へともなく掻き消され、どんなに庭内を探しても僕らにそれを見つけることはできなかった。


「……もう…ハァ……ハァ……敷地の外に逃げちゃったんでしょうか?」


 激しく肩を上下させながら、まるで息の上がっていない先生に僕は問いかける。


「そうかもしれませんが……でも妙ですね。藤巻さんの話では、この霧が出ると道に迷って、ちっとも進めやしないということでしたが。実際にこうして見ても確かにこの霧は危険です。それなのにそんな中、このわずかの間に敷地の外なんかへ逃げられるものでしょうか? いえ、それ以前に、ここまでどうやって来たんでしょう?」


「もしかして、この霧で道に迷った旅人か、もしくは近隣住民とか? それで、このお屋敷を頼って庭の中まで…」


 そう僕は一瞬考えたのだが、瞬殺でその考えは先生に否定されてしまう。


「それならあんな風に逃げることなく、僕らを見つけ次第、すぐに助けを求めてくると思うんですがね。そう考えると、あの人はやっぱり変ですよ。この事件に関わっているかどうかは別にしても、不審人物以外の何者でもありませんね……」


「……やっぱり、昨日見たあの人影と同一人物なんでしょうか?」


 二人ともしばしの思惟を巡らした後、僕の方からぽつりと尋ねる。


「おそらくは。背格好はだいたい同じに見えましたからね。それに何より、あんな怪しげな人物が二人も三人もいるようには思えませんよ。まったく、何がどうなっているものやら……」


 けっきょく、またしても何もわからないまま、僕らは今日も無駄に息を切らしただけで、仕方なく食堂へととぼとぼと帰った――。




「――いいえ。僕らは誰も見ていませんけど」


 どうにも得心のいかぬまま戻った食堂で、柾樹青年が眉をひそめてそう答える。


 他の人々の方を覗っても、その返答にうんうんと首を縦に振っているだけだ。


 予想はしていたことだが、今回も僕ら二人の他にあの人物を目撃したという者はいなかったのである。


「あのう……昨日もそのようなことをおっしゃられていましたけど、やっぱり、わたくし達は誰もその人物を見てはおりませんの……連日の捜査で大変でしょうし、きっとお二人とも疲れておいでなのですわ」


 さらに追い討ちをかけるようにして、桜子さんにまで心配そうな顔で労わられてしまう。


 ……おかしい。やっぱり変だ。昨日もそうだったが、今日も全員があの人物の立つ窓の方を見ていたはずである……なのになぜ、誰も気づいた者がいないんだ?


 しかし、その不可解な疑問の答えが出ることはなく、今夜も僕と先生はお互いの顔を不思議そうに眺めるのみである。


 そんな騒動があったため、僕らは新たにわかった不開あかずの間についての事実もすっかり忘れ、それが食事の話題に上るようなこともなく、悶々としたまま夕食の時は過ぎてゆく……。


「こんな状況ですので皆さん、夜はくれぐれも部屋の戸締りに気をつけて、誰かに呼ばれるようなことがあってもけして外には出ないようにしてくださいね」


 念のため、晩餐の最後に先生がそのように注意を促し、よりいっそう事件の謎を深めただけの夜はゆっくりと暮れていった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る