七 検証実験の後(1)

 トリックの検証を行う前に招かれた今日の昼食会も、相変わらず尻の座りが悪く、ろくに料理の味もわからない憂鬱なものだった(先生はそうでもないようだったが……)。


 無論、それは料理が不味かったからではなく、そこに集まる人々の醸し出すネガティブな雰囲気のせいである。


 とはいえ、今の状況が状況なだけに普段からそんな険悪なムードであることを差し引いても、皆を取り巻く空気が重苦しかったのも当然といえば当然であるのだろう。


 だが、その割には思った以上に昼食会への出席率はよかった。死亡した咲子婦人を除いて家族は全員、昨日と同じように集まっている。特に驚いたのは、さすがに元気はなかったものの、予想外にも薫君までがその場へ顔を出していたことだ。


 母親の死に、もっと落ち込んでいて姿を現さないだろうなと思っていたのだが……そこら辺が、やはり梨花子さんの言っていた「彼と両親の間にも何か平穏でない事情があった」というのの現れなのだろうか?


 まあとにかく、その針の筵の上で食べるような重苦しい昼食の時間は、皆、寡黙なままにしずしずと過ぎてゆき、まったくリラックスなどできぬままに午後の調査再開である。


 再び事件現場の部屋を訪れた僕らは、誰も入らぬようにとドアに貼っておいた封印を解き、冷んやりとした静寂に満たされる室内へまたしても足を踏み入れた。


 視線を落とすと、床にはまだ咲子婦人の遺体がそのままの姿勢で横たわっている。


 それは警察が来るまで動かさない方がよいと思ったからなのだが、さすがに剥き出しのままというのもなんなので、遺体の上から白いシーツをかけ、とりあえず見えないようにはしてある。


 しかし、そうは言ってもそのシーツの膨らみの下に何があるのかは当然知っているのだから、シーツがあろうがなかろうが、気色の悪さにそれほどの変わりはない。


「本当にワイヤートリックで鍵がかけられるか? また、窓から出て壁伝いにとなりの薫君や柾樹君の部屋まで行けるのかどうか? それでは実際にやってみましょう!」


 まるで霊安室であるかのような肌寒い空気が漂うその部屋の中で、先生が意気揚々と、ひどく不釣り合いに明るい調子で実験開始の合図をする。


 犯人が行ったと思われる同じ方法で、実際にトリックが可能かどうか試してみるのだ。ちなみにその実験を行うのは、もちろん肉体労働をしない先生の代わりにこの僕である。


「は、はい……」


 僕はおそるおそる窓から外へ出ると、古びた赤い煉瓦壁の一階と二階の合わせ目に沿って横一直線に伸びる、そこだけ少し壁面から外側へ張り出した部分へと足をかけた。


 ここは二階である。足をかけられる張り出しと言っても足の幅よりも明らかに細く、これではものすごく心許ない。下に目を向ければ、落ちれば怪我は必定、打ち所が悪ければ死ぬことだってあるだろう高さだ。おまけに壁面は霧のためか少し湿っていて、幾分、滑りやすい。


「それじゃ、鍵をかけてみてください」


 その高さに足の竦む僕の心情などお構いなく、どこか他人事な声で先生が指示を出す。


「は、はい!」


 それでも一応助手としての意地もあるので、僕は外の窓枠に摑まるとなんとか窓を閉め、鍵の金具部分にかけた糸を引いてみた。糸は犯人が使ったと思われるくらいの細くて強い釣糸を、藤巻執事に頼んで用意してもらったものだ。


 すると、鍵は難なくかかった。


「か、かかりましたよ! やっぱり僕の考えたトリック通りです!」


「じゃあ、次は壁伝いにとなりの薫君の部屋まで歩いて行ってみてください」


 自分の仮説が立証され、恐怖に竦みながらも歓喜の声を上げる僕だったが、先生はさも当然というようになんの反応もしめざす、安全な窓の向こう側から気軽にも次の指示を飛ばす。


 ずいぶんと簡単に言ってくれるものだ……言う方は簡単だが実際にそれをやるこちらとしては、この細い足場を伝って移動するのはかなり困難だし、それに、けっこう怖い。


 僕は、足場にしてるものと同じような窓の上方にもある壁の張り出しを精一杯の力を込めた指先で摑むと、怖々、震える足を一歩一歩、左側へとゆっくり踏み出した。


 まるで、荒波が打ち寄せる岸壁に貼り付いた蟹のように、僕は少しずつ、薫君の部屋の方へと近づいてゆく……冷たい霧のせいばかりじゃなく、背筋に嫌な薄ら寒さを感じる。


「御林君、がんばってください!」


 一方、安全圏にいる先生は再び窓を開けて身を乗り出すと、そんな声援エールを無邪気に僕へ送る。


 その、なんかちょっと癇に障る声援を聞きながら、それでも一分ほどその体勢でがんばっていると、ようやくにして僕はとなりの部屋の窓にまで到達した。


「や、やりました! 先生、薫君の部屋まで行けましたよ!」


 そのなんともいえない達成感に、まるでエベレスト登頂を成し遂げた登山家であるかのように僕は歓喜の声を上げる。


「よくやりました。では、今度はもう一つとなりの柾樹君の部屋まで行ってみましょう」


 だが、無慈悲にも先生は、偉業を成し遂げたその感動に浸る間も僕には与えず、朗らか笑顔でさらに次の指令を下す。


 なんとも冷酷な司令官だ……その無邪気に微笑を湛えた顔が、今の僕には残忍な悪魔のようにさえ見える。


 こうした時、「もう二度と助手なんかしてやるまい!」と、いつも僕は硬く心に誓うのであるが、それがまったく次に生かされていない自分がなんとも恨めしい……ま、影の薄い先生はいろいろとアレ・・だし、その名探偵としての才能を活かせないのがなんとももったいなく、ついつい手を貸してあげたくなってしまうのである。


 ……ま、こんなとこでぐちぐち愚痴を言っていても仕方がない。僕は黙って息を呑み込むと再び頼りない足場に一歩を踏み出した。


 一歩……また一歩……ごくごく遅いスピードで、さらに左へと僕は移動してゆく……。


 そして、もうちょっとで柾樹青年の部屋の窓枠へ手が届きそうだと思ったその瞬間。


「え? ……うわっ!?」


 きっと風雨で劣化していたのだろう。左足をかけた張り出しの煉瓦が僕の体重に耐え切れずに崩落した。

 

 突然、足場が崩れてバランスを失った僕は、それまでなんとか壁を摑んでいた十本の指もすべて外れ、自分の体が宙に浮くのを感じる……つまり、落下したのだ。


「御林君!」


 それを見て先生が叫ぶ。


「くっ…!」


 だが、落下し始めた刹那、咄嗟に伸ばした右手が足場にしていた張り出し部分に引っかかり、なんとか僕は中二階くらいの高さで宙吊りになるだけですんだ。


 ……危なかった。もう少しで二階の高さから地面に叩きつけられるところだった。


「ふう……」


 僕は九死に一生を得て、安堵の溜息を吐く。


 ところが、よくよく考えてみれば、その摑まった足場というのは今、崩れたばかりのものだ……即ち、そんなに耐久性はない。


「……あれ?」


 僕は、やっぱり落ちた……高さは先程よりだいぶ低くはなっていたけれど。


「あ、御林君!?」


 ドタン! と大きな音を立てて落下した僕に先生が再び叫ぶ。


「きゃあ…!」


 だが、それとは別の方向からも、また違った叫び声が聞こえてくる。そちらはどこかで聞いたことのあるような女性の声だ。


「いててててて…」


 ぶつけた痛みに堪えながら、僕はその方角へと顔を向ける……すると、僕の目に映ったものは、庭の片隅に立つうら若き女性の、淡いピンクの色をしたワンピース姿だった。


 言わずもがな、桜子さんである。彼女はかわいらしい口元を手で覆い、驚いた顔でこちらを見つめている。


「お、御林さん!? 大丈夫ですか?」


 それが僕であると確認すると、桜子さんは慌てて僕の方へ駆け寄ってくる。


「御林く~ん、だいじょうぶですかあ!?」


 頭上からは、相変わらず間の抜けた先生の声も聞こえてくる。


「あ、は、は~い! なんとか無事なようです!」


 僕は上体を起こすと、二人の方へ交互に顔を向けて返事をした。


 落ちた時、運よく受身を取るような態勢になったので、中二階の高さから落ちたにも関わらず、深刻な怪我には至らなかったようだ。ただし、それでも打った所や擦り剥いた所はいろいろとあるようで、ヒリヒリと体の方々が傷む。


「あ、あハハハハ…どうもカッコ悪い所をお目にかけまして……うわっ、やっぱ擦り剥いてるし……」


 僕は急いで起き上がり、心配そうに見つめる桜子さんに苦笑いをして見せた。そして、シャツの袖をめくって見ると、案の定、痛みを感じていた肘の部分を思いっきり擦り剥いている。


「まあ、お怪我を!」


 その傷を見て、さらに桜子さんは心配そうな顔になる。


「ああ、こんなのただのか擦り傷ですよ……痛っ!」


 そう言って、傷の上から勢いよくパチンと叩いてはみたものの、ベタなコントのように思わず声が漏れてしまう。

 

「まあ、大変! 早く傷の手当てをしなくては!」


「い、いえ、大丈夫ですよ。このくらいの傷…」


 真剣な面持ちで血の滲んだ肘を見つめる桜子さんに、僕は手を振ってそう拒んだのだったが。


「駄目です! ちゃんと手当てをしておかなくっちゃ! とにかくお家の中へ!」


 彼女は厳しい口調でそう言うと、突然、僕の手を取って、強引に玄関の方へと歩き出したのである。


「あ、えっ!?」


 僕の手を握る桜子さんは、無言でぐんぐんと僕を引っ張って行く。


 その冷たく華奢な手から伝わってくる心地良い感覚に、僕はドキドキと心臓の高鳴る音を聞きながら、素直にその後を着いて行くしかなかった――。

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