十一 夜魔(3)

「そうか。やはり君だったか……だが、今となってはこれでよかったように思う。確かに娘を死に追いやった張本人は君だろうが、これは連帯責任だ。一緒に遊んでいた全員に罪を償ってもらわねばならないからな」


「……よかったって……確かにまだこどもで、日光アレルギーのことをよくわかっていなかった俺達の浅はかな行動がひなたを死なせたのは確かだよ……でも、だからって、殺すことはないだろう? あいつはただ俺の想いつきにつき合っただけだ。なんにも悪いことなんてないんだよ。なのに、あんた達は……それに、マトンやアズの命を誤って奪ったのは、俺のしたことと変わりないじゃないか!」


 自分の罪は素直に認めるが、友人達みんなの命を奪われた今の俺に謝罪の気持ちなど最早なく、身勝手な正義をかざす父親にそう言って反論する。


「……フン。だいぶ苦しんでもらえたようだね。なおのことよかったよ。これで大切な人間を奪われた者の気持ちがよくわかっただろう? それじゃ、最後の仕上げだ。今度は娘の受けた苦しみを味わいながら死んでもらおうか……」


 ところが、涙目に訴える俺の主張に父親はむしろ悦びの笑みを浮かべ、小さなひなたの机の引き出しから一本の注射器を取り出す。


うちの会社・・・・・で生物標本を作る時に使っているホルムアルデヒドの高濃度水溶液だ。つまり、濃いホルマリン液だね。昔、湖で釣った魚を保存するのにこの別荘にも置いていたのを思い出してね。張本人はこれを使って始末しようと決めていたんだ。いわゆるシックハウス症候群の原因物質だよ。アレルギーじゃないが、こいつを大量に摂取すれば、ひなたのように中毒症状に苦しんで死に至る……」


 そして、薄ら寒い冷酷な微笑みを湛えながらそう説明すると、針のキャップを外してこちらへ見せつけた。


「……ああ、殺せよ……早く俺を殺せ! 最初っからそうしていれば、みんなも死なせずにすんだんだ……なのに、弱い俺は過去の罪から逃げて……自分可愛さに記憶を失ってたばっかりに……」


 しかし、その恐ろしい毒針の凶器を目にしても、俺に恐怖の感情は微塵も芽生えなかった……もう、すべてがどうでもいい……とっとと死んで、この罪の意識に苛まれる人生から早く解放されたい……。


「ああ、言われなくてもそうするつもりだよ。それじゃ、向こうに行ったら、ちゃんと娘に謝罪するんだぞ……」


「…………ゴクン…」


 手にした劇薬の注射器をゆっくりと近づけてくる父親に、俺は眼を瞑って静かにその時を待つ……恐怖の感情はないと言ったが、やはり死ぬのはちょっとばかり緊張する……。


 こうした緊張状態が生み出す時間の錯覚か? その凶器が到達するまでがやけに長く感じる……。


「………………ひなた…」


 だが、いつまで経っても注射器の針が皮膚に突き立てられる感覚はなく、その代わり、蚊の鳴くように呟く父親の声が俺の鼓膜を微かに震わせた。


「……ひなた……やっと……やっとわたし達の前にも現れてくれた……」


 また、そんな母親の感極まり、涙混じりに悦ぶ声も聞こえてくる。


 ……? ……なんだ? ……何が起きたんだ?


「…………! ひなた……」


 不思議に思い、おそるおそる目を開けてみると、俺の前にはあの白いワンピースの少女が――ひなたが立っていた。


こちらに背を向け、あの幾度となく追いかけた白い背中がすぐ目の前にある。


 俺と両親との間に立って、何か、父親の凶行を止めているように見えなくもない。


「シラコ……いや、ひなた、おまえ、なんで……わっ…!」


 なぜ、そんなことをするのか? その疑問を口に出そうとした瞬間、突然、彼女は俺の手を取って踵を返すと、そのまま引っ張るようにして走り出した。


「な、何をっ…うわっ……ちょ、ちょっと待っ……」


 その氷みたいに冷たい手の力は予想外に強く、咄嗟に俺は転ばないよう足を前へと動かし、ぐいぐいと彼女に引っ張られながら、開けっ放しのドアを抜けて廊下へと駆け出して行く。


「……ハッ! ま、待て! 逃がすか!」


「待ちなさい! 逃がさないわよ!」


 はからずも逃げる形となってしまった俺を、一瞬遅れて我に返った両親も声を荒げて追いかけ始める。


 ひなたに引っ張られて廊下に出た俺は、そのままの勢いでドタドタと階段を駆け下り、何事かと食堂から顔を出すオーナー夫婦も無視して玄関から外へと飛び出す……。


「ま、待てっ! この期に及んで逃げるのか!?」


 背後からは、そんな叫び声を上げながら、ひなたの両親も追いかけてくる……・


 気づけば状況は一変。俺はわけもわからぬまま、ひなたに手を引かれて逃走をはかるという構図になっていた。


「ま、待ってくれ! 俺は別に逃げるつもりなんか……」


 無言で俺の手をひっぱり続けるひなたに声をかけるが、彼女は振り向くこともなく、また、足を止めようともしない……。


 ペンションを出たひなたと俺は、建物の脇を回り込んで裏山へと続く山道に入る……月影の零れる樹々のトンネルを抜け、あの山上にある花畑へと登って行く……。


「ひなたっ! どこへ行くつもりなの!?」


「そいつを自分の手で始末するつもりなのか? おまえはそんなことしなくていいんだ! パパ達に任せておきなさい!」


 背後からは、そう叫び声を上げながら両親が追いかけて来るが、俺にはそんなつもりで彼女がこのようなことをしているようにはどうにも思えない……。


 それに、こんな鬼気迫る状況であるにもかかわらず、不思議なことにもなんだか怖さを感じることはまるでなく、それよりもむしろワクワクするような、どこか愉しい感じまでしてきている……。


 これは、今までシラコを――ひなたの白い背中を追いかけていた時には感じなかった感覚だ……これは、愉しいというか、なんだか懐かしいような……。


 不思議な感覚を抱きながら、なおもひなたに手を引かれて山道を登ると、やがて俺達は頂上にある花畑へと到達する。


「…………!」


 今夜は満月に近い大きな月が快晴の夜空に昇り、そこには、蒼白く朧げな月の光に照らされ、天然の花畑がどこまでも幻想的に広がっていた。

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