第018話 珈琲週間・前編

 朝、いつものように身支度を整えて三階にあるカフェ・クリソコラの扉を開けると、知らない顔があった。と言っても、もちろんお客さんではない。

 ゴマ髭の、年齢は四十代だろうか。灰色がかった黒髪に太めのダークブラウンの眼鏡。太い眉に深めの彫りの顔立ち。背の高い、異国の血が入っていると感じる優し気な顔立ちの男の人は、僕の方をちらりと見て会釈した。


「それでは、準備を整えましたら週明けからでも直ぐに」

「ああ、よろしく頼むよ」


 そう言って、今日も色が抜けたような枯茶からちゃ色の髪をまとめ上げ、タイトな膝丈のスカートに腰巻のエプロン姿の女主人マスターは、挨拶する男の人を扉まで見送った。

 僕と入れ違いで店を出ていった人は、きっと食材の業者さんだろう。ここ三階のカフェのキッチンは小さめで、提供できるものは飲み物や軽めのデザートばかりだ。もちろん、二階に広いキッチンを備えた飯屋があるので、タイミングさえ良ければある程度の要望に応えることはできるのだが。


「新商品ですか?」


 開店前の店内掃除の準備をしながら、僕はマスターに声を掛ける。

 ハッキリとこの時間に開店、と決まっていないカフェながら、一応ランチの時間帯までには準備を整えておくのが習慣になっていた。しばらく窓越しに見送っていたマスターはゆっくり振りむくと、口の端を上げて笑った。


「来週末の明けまで、何か用事はあるかい?」

「え……僕? ですか? いえ、何も」


 用事……と訊かれて思いつく物は何もない。

 食事はカフェや飯屋の賄いで済ませている。ここで働いている時間以外は、中庭の植物の手入れや借りている四階の部屋の掃除。洗濯をするにしても、元々衣服は多くない。

 情報端末は持っていたが、前にアクセスしたのは何時いつだっただろう。

 他にやることといえば……天気のいい日に街を歩いたり自転車を走らせることがあっても、基本的にお使いでもないかぎり外出することはない。常連のお客さんとは仲良くしてもらっているが、もちろん店の外で会うことなど、ない。


 趣味が無いというより、ずっと打ち込んでいた事柄を手放して。そのまま……僕の中には何も残らなかった……というのが正直なところ。


「お使いか、別の仕事ですか?」


 行き場のない放浪の途中で、宿となる部屋を借りる代わりにこの店で働かせてもらっている。かなり投げやりな気持ちで町を転々として、もしこの出会いが無かったなら、今頃僕はどうなっていただろう。

 だからこそ、いつもさりげない心遣いをして下さるマスターの頼みなら、どんなことでもしようと思う自分がいる。

 そんな僕にマスターは珍しく、くしゃりと笑みを深くした。


「祭りが始まる」

「祭り……ですか?」


 祭がではなく、というのはどういうことだろう。

 首を傾げる僕に、マスターは悪戯でも企んでいるかのような顔で言い足した。


珈琲コーヒー豆が手に入ったんだ」

「珈琲!」

「来週末は祭りだね。さぁ、忙しくなるよ」


 気候変動により、今では希少で手に入れることが難しくなっているという珈琲が、この店に来る。その言葉を聞いただけで、「祭りが始まる」という言葉の意味を理解した。

 僕の遠い記憶の底で、香ばしい匂いが漂い始めていた。


     ◆


 それからというもの、あれほど静かで人の少なかったカフェ・クリソコラに、次々と業者が顔を出し始めた。


「焙煎士は明日の午後、こっちに到着なんだね」

「豆は明朝から運び込みです」

「場所は一昨年と同じように、二階の奥で?」

「ああ、足りないだろうから三階奥の倉庫も使っておくれ」


 次々と指示を出すマスターを横に、僕は祭りに向けて店内のテーブルや物の配置を変えていく。話を聞いた翌日には大きなエスプレッソマシンとウォータードリッパーが運び込まれ、今日はこれからコーヒーカップが届く予定だ。

 そうしている間にも焙煎器のメンテナンスを終えた業者が報告に訪れ、入れ違いで表の螺旋階段を軽快に駆け上がってくる足音が扉を開けた。


「まいどでーす!」


 ぴんと明るい色の髪が跳ねた二十歳を少し過ぎた女性――パン屋のマキさんが、蓋のついた大きく四角いトレイカゴを手に声を上げた。


「祭りの試作品、お届けです!」

「待っていたよ」

「ひとつひとつを小さめにして、幾つも摘めるようにしてみました」


 さっそくカウンターに置いたトレイカゴの蓋を開ける。

 ふわぁ、と広がった甘く香ばしいパンの匂いに、思わずお腹が鳴りそうだ。マキさんが満面の笑みで僕を手招きした。


「玲くん、玲くん、一緒に味見してくださいよ!」

「いいんですか?」

「あったりまえじゃないですか! 感想聞かせてください!」


 言われてカゴを覗き込む。

 この店に定番で置いているクロワッサンの他に、果物やチョコが入ったデニッシュやドーナツ、サブレまである。


「夏に用意した惣菜系より、やっぱり甘味を重視したものがいいかと思いまして」

「そうだね。これはパン・オ・ショコラだろ?」

「はい。秋ですからこちらのショソン・オ・ポムとダークチェリーデニッシュも」

「うん、見た目も華やかだ」


 薄い紙を何枚も重ねて丸めたような、やや四角いシルエットの両端から、こんがりとしたチョコの端が覗いている。

 マキさんが薦めたひとつは大きな葉のような形のパイで、リンゴと微かにレモンの香りがした。もう一つは三つ並んだダークチェリーにチャービルだろうハーブの緑がアクセントになった、絵になりそうなほど華やかなデニッシュだ。

 他にもカップ状になったベースに、イチゴや洋ナシを乗せた物もある。


「軽く摘める物としては、フルーツブレッドとドーナツはオールドファッション。あとは甘さ控えめに塩サブレを」

「サブレは他にどのぐらいあるんだい?」

「プレーンにナッツと、あとはチョコですね」

「欲張って全部と言いたくなるね」


 マスターが笑う。そこに仕事を早く切り上げて来たのか、常連客のカナコさんが姿を見せた。さっそく甘い匂いに飛びついて来る。


「マキちゃんから連絡を貰って、試食に来ました!」

「待ってたよ。さて、ちょいとお茶にしようか。まだ珈琲は届いていないから、今日は黒豆茶でイメージを膨らませておくれ」


 そう言ってマスターがキッチンに入る。

 僕はカウンターのイスをぽんぽんと示されて、女性二人、マキさんとカナコさんに挟まれながら座った。


「ねぇねぇ、どれから食べてみたい?」

「どれも……美味しそうで……」

「そういう時は欲望に忠実になるんだよ!」


 カナコさんがさっそく、「これとこれとこれ!」と皿に取っていく。

 僕は葉っぱのような形をしたパイを手に取った。フォークで上品に、というより、そのまま齧りつけとカナコさんが横からすすめる。すすめられるまま、ぱくり、と噛み付いた。

 サクッ、と音を立てるパイ生地の中から、甘酸っぱいリンゴのコンポートがほろりとこぼれ落ちてきた。しっとりと甘すぎない酸味が口の中いっぱいに広がってく。タイミングよく湯気立つお茶がカウンターに並べられ、もう一口、と思わず齧りついてからお茶を含んだ。

 マキさんが顔を覗き込んでくる。


「ね、ね、美味しいでしょ?」

「香りだけでも美味しいです」

「こっちは、ガツンとくる焙煎に合う! カスタードクリームがたまらんっ!」


 僕に続いてカナコさんが頬に手を添えながら声を上げた。マスターもカゴの中から一つとって「うん、いいね」と頷いている。


「このショソンって、スリッパ、という意味なんだよ。リンゴのスリッパ!」

「フィリングもいい感じだ」

「マキちゃん、腕上げてるね!」


 マスターやカナコさんに褒められて、マキさんは嬉しそうに頬を染める。そんな姿に僕も嬉しくなった。華やかな笑い声が、午後のカフェに溢れていく。


 自分の好きを形にして、それを誰もが喜んでくれる。その幸せを僕は知っていたはずだ。それなのに……。


 ふと、仄暗い想いに囚われそうになり、僕は意識を逸らした。

 今は美味しい物があって、楽しく笑っている人たちがいる。この場に居合わせる幸運を噛みしめる方が、大切なはずだ。

 そう思い顔を上げると、マスターは僕の方を見て瞳を細めていた。


「当日のサーブも忙しくなるだろうが、豆が届いたら次々と下準備が始まる。頼りにしているよ」


 僕は頷いて答え、サクリ、と甘いパイに歯を立てた。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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