蜂蜜色の毒

餅実ふわ子

プロローグ

終章《現実》

 丑三つ時の留置所に、女の金切り声が響いた。

 静まり返っていた館内に、緊張感が走る。担当官である飯島美沙子いいじまみさこは、すぐさま問題の居室に向かった。


(あの居室は五番――確か、須藤被疑者ね。昼間は静かだったのに、一体どうしたっていうの)


 彼女がこの留置所に来て、一週間と少し。あまりにも目立つ外見に、美沙子だけでなく他の収容者も目を奪われる始末だった。


 彼女は綺麗すぎて、異様だったのだ。


 目玉が飛び出るではないかというほど大きな目。高く筋の通った鼻。不自然に盛り上がった唇、吊り上がった口の端。尖った顎先。血管が透き通って見える白い肌。

 ガリガリに痩せた腕や腹、だのに胸と尻だけは、膨れ上がった風船のようにふっくらとしている。普通の生活をしていて、果たしてこんな人間が出来上がるのだろうか?


 答えは、否だ。彼女は、その顔と体に人工的な細工を施している。

 須藤智香すどうともかは、漫画の中からそのまま飛び出してきたような女だった。

 気味悪い――薄っすらと覚えた寒気を、美沙子は今でもはっきりと覚えている。


 だが、彼女は意外にも模範的な収容者と言えた。

 呼べばきちんと返事をするし、定められた一日のスケジュールを黙々とこなしていく。


 それ以外は、ただぼんやりとしている。一体何を考えているのかも、どこを見ているのかも分からず、じっと息を潜めて過ごしているのは薄ら寒いものを覚えるが、特段美沙子にとっても他の収容者にとっても害は無い。


 今日とて、いつもの様子と変わりはなかった。就寝前の点呼も、美沙子の目をみてしっかりと返事をしていたのに。

 悲鳴は続いていた。苦しそうな声に、美沙子は顔に緊張感を走らせた。


「五番、一体どうしたの!」


 格子越しに被疑者を見た美沙子は、目を見開いた。

 彼女は部屋の真ん中で膝をつき、上を向いていた。大きく開いた目は血走り、口からは泡にまみれた唾液が垂れている。


「が、あああぁぁ……」


 女のものとは思えない苦悶の声が、腹の底から出ている。両手が頭のあたりを叩くような、不可解な動作をしていた。

 まるで、何かに頭を押さえつけられているような。


(――緊急事態だ)


 美沙子は内線で、応援を呼んだ。こんなに苦しそうな顔も声も、演技で出来るわけがない。

 とにかく鍵を開けて、彼女を医者に見せなければ――


「か、は……」


 そう考えた矢先に、急に声が止んだ。きゅ、と息が詰まるような音がして、目から光が薄れる。呆然として見ている美沙子の目の前で、被疑者はゆっくりと、前のめりに倒れた。

 どん、と振動が伝わる。そのまま二度と、動くことはなかった。


「し、死んだ……?」


 思わず、ごくりと喉を鳴らす。いきなりの事態に頭が追い付かない中、廊下の奥から声と靴音が聞こえた。どうやら、先ほど呼んだ応援がこちらに向かっているようだ。


(え)


 そして美沙子は、信じられないものを見た。

 部屋に備えられた小さな窓から、室内に月光が差している。被疑者の下から、影がずるりと、動いたのだった。


 しかも、大きい。女性一人分の影ではなく、大の男ですら小さく見えてしまいそうな黒い影が、部屋を這っているのだ。


 ソレは、美沙子とは反対方向に向かっていた。重力を無視した動きで、壁を伝って逃げていく。

 月を目指して、外を目指して。影の巨体は、小さな格子窓に吸い込まれていった。

やがて最後の一片が、完全に出てしまう、その時。


(手を、振った?)


 人の手のようなものが、一回だけひらりと、手を挙げたように見えたのだ。

 さようなら、ごきげんよう。

 まるでそんな声が聞こえてきそうなほど、優雅な動きだった。

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