第8話


とつぜんだけど、わたしは妹とふたり暮らしをしている。

 街からいくぶん離れたところにアパートを借りて、かれこれ八年が過ぎた。家賃は月六万で、光熱費・水道代は別費用。風呂・トイレつき。広さは十一畳で、ふたりで寝るためのダブルベッドと、ソファなどがある。スペースを取ってしまうのはこれらくらいで、あとはちまちまとした小物が点在しているくらいだ。

 キッチンとリビングのあいだにはガラス製のしきり戸があって、これのまんなか下の一部が割れてしまっている。これは数年前に、わたしと妹で部屋の掃除をしている最中に、テーブルを一度外に持ち出す際、あやまってぶつけてしまったことによる。

 このときわたしたちは割れた衝撃にわめき声をあげた。その結果隣人から心配をされ、平謝りするというにがい記憶ができあがり、わたしは割れたところを見つめるたびにそのことがよみがえる。現在は布におおわれて、まわりをガムテープで補修してあるので、別段問題はないのだけど、玄関から来るすきま風の寒さが、布を通じてリビングに入り込んでくるさもしさはいなめない。

 業者に頼んで修理してもらうことがベストだけども、わたしも妹もこのあたりに関して頓着があまりない。もう数年経ってしまったし、とうぶんアパートを離れるつもりはないから、なにもしないでよいだろうという結論にいたっている。さらにかなしいかな。おたがい独り身なのだった。

 招き寄せる客人もいないので、部屋がどんな状態だろうともはや気にしたりしないのだった。もちろん最低限の配慮として部屋はごみで散らかさないようにしているけれど、玄関先には燃えるごみの袋の山があり、そこを通りかかるたび、つんとしたにおいが鼻をつくことがある。

 我が家の暗黙の了解として、まんぱんになった燃えるごみの袋が五つを超えたらそのときにいっせいに処分をするという決まりができている。

このように述べていくと、わたしたち姉妹がいかにずさんな生活を送っているかということは推して知るべし。おそらくわたしも妹も、この先よほどすてきな出会いに巡り合わないかぎり、あの部屋でずっと生きていくし、かようによってはあの部屋で息を引き取ったとしても、誰も不思議に思わないでしょう。

さて、わたしはやがて営業を終了したガソリンスタンドのようなほの暗さと陰気なムードを漂わせたひっそりとした住宅地域についた。すぐにアパートは見えた。このあたりは光がとぼしくて午後十時を過ぎると、どこもかしこも明かりが消えてしまっている。

わたしはとくに感慨もなくアパートの門をくぐり、建物の脇に付属する二階に続く鉄製の階段をカンカンと登っていった。そこより一番奥の部屋がわたしたちの住居だ。

鍵は開いていた。先に妹が帰っていたことがわかる。

かちゃり。

玄関を開けると、土間に妹のパンプスが無造作に転がっていた。わたしはかがんで彼女の靴をそろえた。このとき、異様なにおいがわたしの鼻腔をかすめた。れいの燃えるごみの袋からやってくるものだった。いち、に、さん、し、袋はよっつあった。そろそろ棄てどきですかね、あとで消臭剤を吹きかけておきましょう、と心のなかでつぶやきつつ、しきり戸を開けた。

妹はソファにうつ伏せで寝そべりながら、携帯をいじっていた。

「ただいま」

「ああおかえり、いつもより遅かったんやね」と妹。

「まあ、いろいろあってね」よっこいしょ。わたしは荷物をそのあたりに置いて、上着を脱いだ。

「いろいろって?」妹はどうもわたしのそぞろな発言が気になったらしい。彼女は一度気になると、とことん聞き出そうとするたちなのだ。こういうところはわたしに似て、抜かりがない。わたしは、しまったなと顔をしかめた。

「男?」

 違うわよ。

「ていうか、その髪、どうしたん?」

 美容院行ってきたの。

「ずいぶん短くしたんやね」

 変じゃない?

「うん。いいんじゃない」

 よかった。

「なんだか別人みたい」

 いい意味で?

「そ。いい意味」妹はうなずいて、親指を立ててくれた。「けど、そんだけ切ってたら、やっぱなにかあったやろ、って気になるやん。あとさ、そんなペンダントお姉ちゃん持ってたっけ」

 妹はかなりめざとい。いよいよこれは白状するしかないかしら。

「あんたが、宝石会社で働いているスーツ姿の蟻さんの話を信じてくれるなら全部教えてあげる」

 わたしは白昼夢とか、または荒唐無稽とも呼べるような、話の一端を妹に語った。

 ある程度話を広げていくうちに、妹も逐一質問を重ねていった。その一日のできごとをすべて語り終えたのは時計の針が十二時を回ったころだった。ひとしきり語り終わって、わたしたち姉妹を取り巻く空気は幻想に満ちており、ファンタジーの要素のつまったボトルに入れられたような気分になった。

 幻想は、どこにでも存在した。

 そいつは唐突におとずれて、目を覚ましたときには跡形もなく消え去ってしまう。それはまるで幽霊みたいだし、翌朝には影もないホテルの客人のようだし、いまわの猫のようでもあった。

 とにかく幻想というものは、普遍的にあって叙述トリックのように見落とされてしまうようになっている。

 とわたしは思っている。

 わたしたち姉妹の住むこの部屋には、幻想がよく紛れこんだ。前触れもなく、やってきた。今回の場合、わたしのほうが先に気づいた。あるいはわたしだけが幻想のしらべに取り憑かれた。

 白いテーブルに蟻の行列がまっすぐできていた。彼らはビスケットのくずをせっせと運んでいた。蟻の行列の一番先頭には、ひとまわり頭部の大きい蟻がいた。耳を澄ますと、ひいひい根を上げていて苦労がうかがえた。

「大丈夫ですか」

わたしは訊いた。

「大丈夫なんてもんじゃないよ」蟻さんはしぼり出すように言った。「ひがな一日働き通しで、俺たちゃみんなくたくた。ふんぞり返る女王陛下のところへ、こいつを持っていかなきゃならねえ。しかし聞いておくれよ。このビスケットは毒入りなのさ。ひとくち食ったら、さすがの女王陛下も泡を吹いて引っくり返るぜ」

 もしも女王陛下が死んでしまったら、あなたたちはどうなってしまうの。統率者のいない独立国家に未来はないわ。あなたたちはビスケットを運ぶ目的があるから道を作るのでしょう。ビスケットを運ぶ行く先がなくなってしまったら、みんな路頭で野垂れ死にしてしまうのよ。

「そんときゃ、現指導者の俺さまが、新しい統治国家を作り上げてみせるさ。どうだい、女王陛下が死んだら、あんたも俺さまの国にいっぺんくらい立ち寄ってくれよ。優遇してやるぜ」

 蟻の国なんて、お断りね。甘いものくださるなら、ちょっとは考えてやらないでもないけれど。

「ああ、やるさ。チョコでもアメでもしこたま用意してやるよ。だからどうだい、来てくれよ」

 ゆっくり考えさせてもらうわ。ところで、あなたお気づき? あなたが立ち止まってわたしなんかと話しているから、後ろの行列が前に進めなくて困っているわよ。

「おっと、こいつはいけねえ。そんじゃあ。さっきの話、俺さまとの約束だからな」

蟻さんは急き立てられるように、ふたたび前に歩き出した。糸くずのように集まっていた蟻の集団も、次第に一本の糸にほどけるようにして行列ができあがった。蟻の行列はテーブルの脚を伝って床に降り、そこから液晶テレビの裏側に伸びていった。どうやらあすこに抜け道があるらしい。

 テーブルの上から蟻の行列が消えると、頭上のスピーカーからイギリス国家が流れてきた。

 わたしと妹はそれを口ずさむ。うろ覚えだけど、メロディは思い出すことができた。

「ねえ、お姉ちゃん、お風呂入ろう」

 そうだね、入ろうか。


 わたしと妹は割合ひんぱんに一緒にお風呂に入る。そちらのほうが安上がりだし、お湯張りも一回で済む。それは、わたしたち姉妹がふたり暮らしをする以前から続いている一種のルーチンで、お風呂に入っているとき、わたしたちは古代ギリシア神話の、女性とみなされる神のように、自然と一体化することになる。

 わたしよりもいくぶんふくよかな体格の妹は、まるで煤けた草花をかき分けた先の湖にたたずむ裸体の精霊のような肉感的で神秘的な生命力を秘めている。

「お湯はもう張ってあるからね」妹はそう言った。

 わたしたち姉妹はたがいに服を脱がし合い、インナーシャツとパンツを洗濯機に放り込み、もたれ合うようにして風呂場に入った。

 風呂場は密閉されているけど、精神的に解放される空間であることに異論を唱えるひとはあまりいないと思う。浴槽はふたりがぴったりおさまるくらいの大きさしかないのだが、わたしたち姉妹にはじゅうぶんだった。

湯船は地中海のような、さわやかで鮮やかな青さがあった。

「どんな入浴剤を入れたの」わたしは訊いた。

「種類はわかんない。宇宙人からもらったものなんよ」

 へえ、宇宙人から。今日のできごと?

「そ。道に迷ったんだって。だからとりあえず家に招き入れてさ、くつろいでもらったんだ。位置情報がわかれば、あとは大丈夫だと言うから、彼がいたのはほんの数時間だったと思う」

 わたしと妹は湯船につかった。ちゃぷんと音がした。ふたりのからだが密着する。肌と肌のあいだに水の膜が介在していて、まるで一卵性双生児が羊水のなかで、へその緒でつながっているようだった。風呂場全体はだいだい色をしていて、ぬくもりがあった。

 ねえ。宇宙人ってどんな風貌をしているの?

「黒いマントを羽織ってて、顔は仮面をつけているんよ。素顔を見せてって言ったんだけど、すっぱり断られちゃった」

 ふたりが身じろぎするたび、湯船がちゃぷちゃぷ揺れた。地中海はもうすこし穏やかなはずだ。

「助けてあげたんだから、ひみつのひとつくらい教えてくれてもいいじゃない、ってわたし言ったんだけど、正体は誰にも明かさない約束なんだって」

 そう、それは残念だったわね。

「その代わり、料理をしてくれてわたしにふるまってくれたんよ」

 宇宙人ってどんな料理するの?

「『惑星のからあげ』。すごく美味しかったなあ。水星は水餃子みたいな味で、金星はかりかりしているんよ。地球のからあげはわたしたちが食べているものと同じで、火星はぴりりとスパイスが効いてて、木星は大きすぎてひとりじゃ食べきれないんだよ。土星はね、揚げることはできるけど、かたちを整えるのがむずかしいみたい。からあげのまわりにイカリングがついているみたいな感じ。わたしが食べたのは、それぐらいかな」

 いいなあ、わたしも食べてみたかった。レシピ教えてもらえなかったの?

「特殊な材料を使っていて、それを扱うためには免許が必要らしいんよね。だから教えたとしても、ふつうのひとが調理をするのは許されないみたい」

 はあん、そういう決まりがあるのか。

 妹は湯船を出て、からだを洗いはじめた。髪の手入れで、彼女はまずシャンプーを使う。羊の毛みたいにたっぷりと泡立てたあと、湯船のお湯で一気に洗い流す。そのあとコンディショナーを適量出して、髪の中心から毛先にくまなく伸ばしていく。そうして、すこし時間を置く。妹は口を開いてぼんやりと正面を眺めた。向かいのホームの立ち尽くすひとびとを見つめているようだった。数分して、彼女はコンディショナーを洗い流した。彼女の髪はさほど長くないのだけど髪にかける時間はわたしの数倍あった。しっかり時間を測ったことはない。

 わたしはと言うと、ほら、今日髪を短くしたので、ほとんど時間は必要なかった。シャンプーをしゃしゃっとやってコンディショナーで仕上げるだけだった。そして髪を掻いているとき、ずいぶんとすかすかしているなあ、と感じた。

 洗い流したあと、わたしの頭皮はメントールスプレーを吹きかけたみたいにすうすうした。むしろこれに慣れるのに時間がかかった。わたし、禿げてしまったんじゃないかという、とてつもないかなしみに襲われた。からだがさあっと冷えて涙が出そうだった。

 ねえ、お姉ちゃん禿げてないよね。わたしは妹にすがりつくように言った。

「大丈夫やろ。髪が短くなったから、そう感じるだけだって」

 妹はわたしの髪をやさしく撫でてくれた。それでようやくわたしは安心した。

 彼女に招かれるように、わたしは湯船につかった。わたしたち姉妹は向き合い、たがいの脇に腕を伸ばし、背中をさするように抱きしめあった。言うように、妹はふっくらしているから、抱き心地は最高だった。安心感と包容力、スージーさんのそれが精神的ならば、妹のそれは肉体的なものだった。どちらも今のわたしに必要不可欠だった。

 妹が片腕だけでわたしを抱きしめた状態で、天井から吊り下がっているビワの実をひとつもぎとってくれた。

「食べる?」

 わたしはうなずいて、妹の背中に手を回したかたちのまま、ビワの皮を丁寧にむいて水分をたっぷりふくんだ山吹色の果実をかじった。ビワの種は大きくて歯に当たった。わたしは種のまわりの果肉をはぎとるように食べた。瑞々しい甘さと、表面のちょっぴりざらざらした感触が口のなかにあった。

「お姉ちゃん、落ち着いた?」

 うん、すこし。

「あとで一緒に手をつないで寝ようか」

 いいの?

「いいよ」

 ごめんね。こんなお姉ちゃんで。

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