第5話


白いアウディに乗ってわたしの前で降りた彼女の名はスージーさんと言った。

 ただしそれは便宜的に使われるだけの名前で本名とはぜんぜん関連性はないらしい。彼女が世界にとって重宝されるべき存在である以上、プライバシーなども厳重に守られているのだとか。まるで金庫のなかの宝石だ。

「いただきもののエクレアがあるんだけど、いかがかしら」

「あ、エクレア好きです。いただきます」

「はーい」

スージーさんに連れられたきのこの家は、わたしが窓から見たよりもずっと広々としているように感じた。それはスージーさん自身の空気の振りまきかたが風に吹かれる柳のように穏やかであることと、天井が高いということと関係しているようだった。一階と二階は完全にわかれているのではなくて、階段を通じて寝室部屋と書斎に分岐しているだけでそれ以外にはなにもなかったから、かんたんに説明すると二段ベッドのような構造をしていた。

スージーさんは冷蔵庫から白いつつみ箱を取り出し食器棚からお皿とティーカップを二セットずつ用意してくれた。

「飲み物はコーヒーとオレンジジュースがあるけど、どっちがいい?」

「オレンジジュースをお願いします」

キッチンのほうでかちゃかちゃ陶器の接触するような音が聞こえていた。わたしは猫タワーをかこむ土星の輪っかのようなテーブルにじっと座って、彼女の様子をぼんやりと観察していた。ふと、自分の右手の甲の一部がやや膨らんでいることに気づいた。たぶん、蚊にさされてしまったのだ。この年になると、あまり自然にしたしむ機会は少なくなっていたように感じる。ほんとうは増やすべきだとも思っている。

スージーさんのように自然のなかに住んでみるのも悪くないなあ、なんて生活風景を想像してみるけれど、そうなると自給自足の暮らしになるのだろうか。庭の畑に野菜を植えたりして、ちょっと山のほうに入ってきのこや山菜を採取したり。

「はい、お待たせ」

 ろこつに考える間もなく、わたしの前にエクレアとオレンジジュースが並べられた。美味しそうなエクレアだった。

「さて、あなたには聞きたいことがいくらかあるのだけど、」スージーさんは自分のぶんのエクレアをわたしのとなりに置いて、彼女はそこに座った。さわやかな香水のにおいがふわりと鼻腔をくすぐった。「とりあえずいただきましょうね」

 もぐもぐもぐもぐ。ああ、美味しいエクレア。彼女のことだから有名な洋菓子店で買ってきたものなのかしら。ひとつなくなってしまうと、もうひとつ食べたくなった。

「見かけによらず、大食い?」

 いいえ、甘いものだけです。

「ふうん、あなたって謙虚なように見えて、あんがい行動派なところがあるように感じる」

または大胆とも、とスージーさんはつけ加えた。

「行動派? ですか?」

「ここに来たということがそうだし、まるで不思議の国のアリスみたい」

 そんなめっそうもないです。わたしは少女でもないし幼くもないし、ついでにひとをまとめる責任感もないです。迷い込んだ、というのでは合っているかもしれないけれど。

「正直なことを言うと今日はずっとおかしなことが起きるんです。そのたんびに巻き込まれているんです」

「おかしなこと? あ、ふたつめのエクレア持ってくるわね」スージーさんは席を立ち上がって、キッチンの冷蔵庫に向かった。

「そうです。おかしなことです。——ありがとうございます」わたしは厨房に注文を伝えるみたいにキッチンに向かって声を送った。

「あのですね、午後ぶらりと通りを歩いていると、スーツ姿の蟻さんに出会ったんです。そのひとはちょっと短気なところはあったけれど、いいかたでした」

「へえ」スージーさんがふたつめのエクレアを持ってきてくれた。わあ、嬉しい。

「それから美容院に行くと、栗毛の猫さんに出会いました。猫さんは美容師さんにカットしてもらっていました」

「ふんふん」

「そこでちょっとしたハプニングがあって、わたしは笑われてしまったんですけど……」

「あら、なにしでかしたの」

 それは恥ずかしくて言えないです。わたしはうつむいて、顔を赤くした。

「あ、えっと、それからなんですけど、街を歩いているとその猫さんにまた会いました。その猫さんはわたしに近づいた拍子に、ペンダントを引きちぎって逃げたんです」

「ペンダント? どんな?」

「そのペンダントはカタツムリのように渦を巻いていて、色はややくすみがかった緑色をしていました。わたしにとってそれは大事なものだったから、取られちゃ困るから猫さんを追いかけたんです。そうすると、こんなところに来てしまったんです」

 なるほどね、とスージーさんはコーヒーをいっぱいすすって、ゆるやかなウェーブの髪を掻きあげた。またもやさしい香水のかおりがした。

 そうだそうだ、わたしは猫さんを追いかけていたのだった。あのペンダントを求めて。いったい猫さんはどこに行ってしまったのだろう。

 そういえば、外側からこの家を見たとき、窓に白い猫さんがいたな。雪のように白くてじっとわたしを見つめていた猫さん。このテーブルのまんなかにある猫タワーはすなわちその猫さんの遊び場なのだろう。

「スージーさんは猫を飼っていらっしゃるんですか」ふたつめのエクレアを頬張りつつ、たずねてみた。

「ええ、二匹ね」

 二匹?

「一匹は白のアメショで、もう一匹は栗毛の猫」

「栗毛……」

「ねえ、あなたの見たその栗毛の猫って、もしかしてだけどうちの猫なんじゃないかしら。というかたぶんそうよ」スージーさんはちょっとだけ苦笑した。

 もしもそれがほんとうだとしたら、わたしはその猫さんを確認する必要があった。わたしはスージーさんに頼んで、猫さんを連れてきてもらうことにした。

 スージーさんは二階にあがり、すこしして胸に一匹の猫さんを抱きかかえて下に降りてきた。その猫さんはスージーさんの腕のなかでなかばまどろんだ表情をしていたけれど、あの美容院で見たときと同じようにおとなしくしていた。まさしくその子はわたしの知っている栗毛の猫さんと一致したので、わたしはあっと声をあげた。

「そうです、この猫さんです」

変な鳴き声の、とは口にしなかった。

「ということは、この子があなたのペンダントを盗んだ犯人ってわけね」

スージーさんは猫さんの頭をごしごし撫でながら、めっ、と叱った。

 猫さんの首のところには、たしかにわたしの渦巻きのペンダントがかけられていた。ようやく所在がわかったのでほっとした。わたしは中腰になって、スージーさんに抱きかかえられている猫さんの目線の高さに合わせ、そのまるっこい頭を撫でようとした。が、猫さんはわたしの指を噛もうと口をかっと開いた。それからこのように言った。

「おいお前。えくれあのちょこれいとのついた手で俺の頭を撫でるのはよしてく、」

 わたしは構わず頭をごしごし撫でた。

すこし手を離してやると、猫さんはまたこう言った。

「お、おい。ちょこれいとが猫によくないことは知っているだろう」

「はあ、知ってますけど」

「だったらなぜさわった。俺はいきなり頭を撫でられるのが、だいきら、」

 なでなで。

「や、やめ! やめろ! 俺の言うことがわからないのか!」

猫さんはいよいよ赫怒して、ひげをぴんと張って、白い歯をむいて、ううとうなった。

「いや、わかってるんですけど、ちょうど手のひらにすっぽりおさまったから。猫さん、毛なみもきれいだし猫としての気品にあふれていて、ついさわりたくなったんです」

「言っておくが、俺はばいきんをいっぱい持っているんだからな、お前なんていちころだぞ。俺はほかの猫と違ってふだんは自分で毛づくろいはしないたちなんだ」

猫さんは鼻を鳴らして、スージーさんの腕のなかで威張っていた。

「それじゃどうしてそんなに毛なみがきれいなの?」

なにか秘訣でもあるのだろうか。

「そりゃあお前、いっしょにいたんだからわかるだろう。あの美容院だよ、あそこでトリートメントしてもらっているのさ。月2でな」

 はあ、なるほど。猫さんが美容院にいたのは、そういう理由のためか。

「まったく困るぜ。せっかく今日手入れしてもらったばかりだってのに、いきなりさわられちまうんだからな」猫さんはそう言うと、前足を舐めて頭をこする動作を何度か行った。

それは知りませんでした。ごめんなさい。

わたしと猫さんがこのようなやりとりをしているあいだ、スージーさんは始終くすくすと微笑んでいた。猫さんの怒りの矛先はスージーさんにも向いた。

「スージー、お前がひととおり説明してくれたら、かっかすることなかったのによ」

「あら、それは悪かったわね。あとでオムライスつくってあげるから許して」

「ふん」猫さんはまたも鼻を鳴らした。けれどそれは妥協というか、引き下がってやろうというような意味が含まれていた。

 わたしたちがいくらか落ち着いたところで、話はペンダントの内容にゆるやかに移行した。猫さんによれば、わたしのペンダントを奪ったことには次のような経緯があったそうだ。

「実は以前に似たようなかたちの首輪を持っていたことがあってな。似たような、ってのは、このペンダントのうずまきの部分さ。俺が持っていた首輪にも、こんなふうなうずまきがついていたんだ」

その首輪は今どこにあるの?

「知らねえ、どっかに紛失しちまったんだよ」

 あら、それはざんねんなこと。

「しばらくそいつがなかったから、あの美容院でふいにお前がそのぺんだんとをつけているのをみとめた瞬間、もしかしてあれは俺のなんじゃないか? というひらめきが舞い降りたのさ。それで隙を見てお前からかすめ取っちまったんだ。けれどこれは俺のではなかった。はずれだったよ」

 猫さんはどことなく悄然とした。そういう姿を見せられてしまうと、すごく申し訳ない気分になった。もしもほんとうに猫さんのものであったなら、あげてもいいかなと思ったけれどまがいものじゃあ喜べないだろう。

 猫さんはついには、これはお前に返すよ、こんなところまで追いかけさせちまってすまなかったな、と言って前足を器用に使い首からペンダントを取り外した。それから引導を渡すみたいにして、わたしの首につけてくれた。こうして無事わたしのもとにペンダントは却ってきたわけだけど、蟻さんといい、猫さんといい、このペンダントは不思議な魅力に満ちていて、なにかを引きよせてしまうらしい。

 もうすこし都合のよい言い方をするならば、このペンダントを主軸にして、身の回りのことがめまぐるしく変化しているということ。もちろん確証はないし、場合によってはオカルト的な側面を肯定しなきゃいけないけれど、さいわい今のところこれといった災厄に見舞われたりはしていないから、まあよいだろう。

 猫さんはわたしにペンダントを返したあとで、このように言った。

「そういえばお前、そのぺんだんとをどこで拾ったか覚えてるか?」

 どこでと聞かれると、最初からとしか説明のしようがなかった。わたしはたしか講習会の教室で授業中に眠りこけてしまっていて、起きるともうそのときからこのペンダントはわたしの首にあった。

「そうか、や、今の質問はあまり気にしないでくれ」猫さんはスージーさんの腕のなかからするりと抜け出して床に着地した。「あとはふたりで楽しく盛り上がってくれや。俺ははにーのところに戻る」

ハニー?

「わたしの飼っているもう一匹の猫ちゃんよ」

 ああ、あの窓で見た真っ白い猫さんのことか。栗毛の猫と白毛の猫、似合いのカップルに思えた。きのこの家の窓際で、むつまじく身をよせあってご主人の帰りを待っている様子を思い浮かべた。

 猫さんはテーブルのまんなかに位置する猫タワーをひょいひょいと登り上がって、二階に通じる足場に飛び移った。わたしの見上げる先に、釣り糸のように栗毛のしっぽがたれていた。それから白毛の猫さんを探しに行ったのだろう、ひらりと消えてしまった。

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