第3話


街中で見つけた美容院に視線を釘付けにされたわたしはおずおずと開き戸を開けた。

 受けつけの彼女はぱっと見た感じ、二十代の前半といったところだった。かんぺきに整えられたまゆ、さくら色の淡いチーク、流線形のイルカの背中のなぞったようなアイライン、つやつやのくちびる、わたしをどんなに仕立てても及ぶべくもない造形美がそこにあった。

「ご予約はされてますか」

「……いいえ、してないです」見とれていたので、すこし反応が遅れた。

「当店へのご来店ははじめてでいらっしゃいますか」

「はい」

「では、奥の席でかんたんなアンケートを取らせていただきますね」

 わたしは丸いソファに案内されて、A4の紙を一枚とボールペンを渡された。記載されている質問事項をすべて書き終わり、彼女に返した。少々お時間をいただきますがよろしいでしょうかと言われ、わたしはだいじょうぶですと答えた。それから一息ついて店内を見回した。

 おや?

 カットをしてもらっているお客さんのなかに、栗毛の猫がいっぴき混じっていることをわたしは見逃さなかった。

 種類まではわからないのだが、ひと懐こい様子だった。からだの何倍もある大きさのチェアーにお行儀よく座っていた。もしかするとほんとうに客として来ているのかもしれない。猫が混じっているからといって、とくに店の景観を損なっている感じはまったくなかった。

猫はふつうの大きさなのだから、どんなにからだを引き伸ばしても人間用のチェアーには合わないのだけど、おそらくは子どもが腰かけるような座椅子によって高さを調節しているのだろう。

それはあとになってちゃんと確認することができたのだが、今はまっしろのシーツで首より下が隠れていたのでどうなっているかわからなかった。チェアーの後ろには長身の美容師さんが立っていて、彼女はおままごとのセットにあるようなミニはさみを器用に使い、猫さんの毛なみをきれいに整えていた。

猫さんはとてもおとなしかった。カットされているあいだ、耳がぴくぴく動いてたり、のどがゴロゴロと鳴っていたりした。よほど気持ちいいみたい。途中眠くなったらしく舌が出て白目をむいていたりしていたけれど、そのどれもが微笑ましかった。

人間以外の動物たちも美容院にかよう時代になったんだなあ、としみじみ感じているうちに名前を呼ばれ、猫さんのとなりのチェアーに座ることとなった。そこでカットを担当してくださる美容師さんとどのようにするかいろいろ相談をするのだが、わたしの意識は完全にとなりの猫さんに向いていたので、てんでなにを言ったかわからないままに、髪に霧吹きがかけられてわたしをおおう白いシーツに髪の断片がはらはらと落ちていった。

ちょきちょきちょきちょき、ぱらぱらぱら。最初はきざみのりのような断片化した髪が落ちていたが、次第に大きめのふさが切り落とされていくようになった。そうとう短くされる予感がした。最終的には、ほどよい短さで落ち着いたけれども、やはりわたしのいろいろがつまったそれが一秒一秒喪失していくことで複雑な感情をともなうことになった。

さようなら、またね、こんにちは、よろしくね、あいさつをして、次にはわたしは新しい自分とうまく付き合っていけるだろうか、そんなふうな不安がやってきて、さびしくて、怖くて、だけどもそれも長くはつづかなくって、いつのまにやら馴致していて、その髪型似合うねなんて、誰かのあたたかい言葉がすべて取り払ってくれて、わたしはすっかり新しいなにかになるのだ。

喪失感というものはやがて消えてしまうのだ。そしてそのことが嬉しかったり、なぜだかむしょうにかなしかったりするのだ。

人間ってそういうやつだ。


猫さんたちの世界は、どうか知らない。ちょっとは感じるもの? 共感、したりする?

わたしが猫さんを見ながらそんなことをもやもやと考えていたからだろうか、猫さんの声がぼやぼやと聞こえてきた。じっさいのところ、それは言語を発しているというよりも鳴き声とかうなりとかそういうもののたぐいだった。

「なら、め、ふくぱ」

「え? なに?」

「みなめま、あ、ぱ、くー」

 それはつまり、こういうものであったからおおよそ会話は成り立たないと思った。

「おまな、めね、ぱ」

「ええとごめんなさい、あなたがなにを言おうとしているのかわかんないわ」わたしは正直に答えた。すると猫さんは、片目をうすら開けて、まるで相手をあざけるかのようなまなざしでわたしを見つめてくるのだった。

「まらな、ま、なおぱあ」

 お前はばかだなあ、と言われている気持ちになった。

 だけどしかたないでしょう。意思疎通ができない場合、たいがい両者に問題があるものなのよ。それなのにわたしだけが一方的に責められている感じがするのは、なんだか納得がいかなかった。そうなるともう引き下がるつもりはなかったので、わたしは猫さんをキッとにらんでやってこう言った。

「ねまめ、まーぱ、くーぱ、ぱっぱ!」

 するとどうだろう。むっつりとした態度だった猫さんが、豆鉄砲をくらったハトのように目をまんまるにしてぽかんと口を開けたのだ。

 それからまもなくして、猫さんは毛づくろいをしながらくふくふと笑いだした。加えて後ろに立っていた美容師さんも、くすくすと笑いをこらえているようであった。

 そのときのわたしにはなにがなんだかからきしわからなかった。ただただ呆然とするのであって、嘲笑(?)の的になっているのか、なにか引っかけられていたのか、とかそういった煮え切らない推察に迷い込んでしまった。そのうちだんだんかーっと顔が赤くなって、わきのあたりにいやな汗が滲み出していくのを感じた。

 そんな状態が心底たまらなかったから、しどもどになりながら、これは違うんです、そうじゃないんですなどと弁明した(いったいなにがそうじゃないのかわからない)。

 やがて彼らのほとぼりが冷めてくると、わたしを担当してくださっている美容師さんが両肩に手をかけてこう言った。

「(ひとしきり笑声がおさまってから)いや、ごめんなさいね。おそらくなにがなにかわからないだろうからちゃんと説明するわ。……と、その前に、あなたの切りかえし、とってもすてきだったわ。これまでいろんなお客さんがいたけれど、あなたのははじめて見たわ。だからいっそうおかしかった」

 猫さんのカットを担当していたもうひとりの美容師さんが、猫さんの頭を撫でながらこう言った。

「この子、すごくいじわるな猫なの。となりの席に座るお客さんにいつもちょっかい出すのね。そのなかでもっとも多いのは、意味不明な言語でまくしたててお客さんを困惑させるというもの」

「むなめ、ぱ、あくま」と猫さんが言った。

「こんなふうにね」と美容師のお姉さん。

「そう、最初のお客さんはみんな困惑するわ。なぜかって『もしかしてこの猫が言っているのは猫語なんじゃないか?』って思うからなの。猫の顔ってね、ひとの顔に近いのよ。だから見つめられて、なにか言われると(たとえ理解できない言語だとしても)理解しようとするわけ。けど、そんなの誰もわからないから、苦笑をしたりして、結局は言葉の通じる私たちに『この猫はなんと言っているんですか?』って尋ねるのね。それにたいして私たちは『今日は天気がいいですね、と言っているんですよ』と教えるの。とうぜん、それはウソのことを言うんだけど、お客さんはみんな信じるわ」

「ほんとはなにも意味ないのよ。意味ありげに意味のないこと言っているだけなの。そしてこの猫はそれをわかってやっている、狡猾なの」と美容師さん。

「けれど、あなたは違ったわ。だって、意味不明の言語にまっこうから対立するんですもの。私たちにはそれがおかしくっておかしくって」

 なるほど、ようやく事がわかってきた。なんともまあ、ひどい話じゃないか。わからないままにしておけばよかったものを、わたしがへんにむきになって食い下がったせいで思わぬ醜態をさらすことになってしまった。

 わたしはもうなにも言うことができず、彼女らの話を聞くばかりだった。

「あらためて、この子とぐるになってあなたをからかったのは申し訳なかったわ。どうか気を悪くしないでほしいの。うちの店における一種の洗礼みたいなものだから」

 猫さんはなに食わぬ顔でおおあくびをしていた。その拍子に赤身のような歯茎と白い犬歯がむきだしになった。そのうち猫さんのカットが終わり、白いシーツが取られるとチェアーから鏡台に華麗に飛び乗った。ヨガのポーズのように前足と背筋をぐうっと伸ばすと、鏡台にむかって後ろ両足でぴんと立ち、きれいに仕上がった毛なみをさまざまな角度からじっくり確かめていた。最終的には、わたしの鏡台の前をパリコレのモデルみたいに優雅に横切って、ふらりと姿を消していった。

 意味不明な言語を話すとは言え、くさっても猫、どこまでも自由の身だった。追ってもつかまらない獲物のごとく猫さんに完全にいなされてしまったわたしは、ぐったりした気持ちになりため息をはいた。

 そうなると、もう髪の毛の長さうんぬんは気にならなくなって、一時間かけて完成した出来栄えについても、これでいいだろうという感触に落ち着いた。鏡で見るかぎり、いまだ紅潮したわたしの頬をのぞけば別段おかしな点はなかったし、実のところ短くなったわたしの髪は思ったよりも似合っていたのだ。

 こざっぱりして、あかぬけて、そうだな、さしすせそ、という感じだ。

 おまけに「今日はいいものを見せてもらったので、今回のカット代はタダにさせていただきました」という美容師さんのご厚意もあって、わたしはかなりいい気分でお店から出ることができた。

 振り向くと、受付係のお姉さんとふたたび目があって、にこりと微笑んでくれた。わたしもにこやかに会釈をした。そんなやりとりをすると、わたしたちは気が合うんじゃないかなと本気で思ってしまった。だって彼女すごく感じがよさそうだったから。

 すがすがしくてあたたかい、そういう種類の喜びを久々に実感したわたしは近くのファーストフード店でホットドッグとオレンジジュースをテイクアウトして、春の陽気に浮かされて、菜の花のまわりをぱたぱたと飛翔するモンシロチョウのように街をぷらぷらと歩いた。

 頭のなかではオー・シャンゼリゼの軽妙な音とテンポがめぐっていた。

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