銀の詩篇――2

 上演時間が近付くにつれ、リイリーンはその真価を発揮し始めた。照明、装飾、全ての物が役割を与えられ、客を迎え入れるべく胸を張る。

「じゃあ手分けしてやるか」

 テオとレインは客席から少し離れた席に座った。手元には記録用にと他の客からは見えない程度の小さな明かりが用意されている。事前に使えそうな資料は記舎に用意していたので、後は実際にここで見聞きした事を書き留めていく。割合は歴史と現在の様子が半々。そうして記舎で数日かけてまとめあげをし、出来た原稿を馴染みの店で装丁してもらうのだ。


 十九時ちょうど。予定通り、幕が上がった。

 劇場全体を震わす音楽と共に物語が展開されていく。登場人物たちは華やかに舞い、歌い、怒り、涙を流し、そして激しく汗を散らした。有名劇作家が手掛けたとあってなかなか面白い。初日は寝ずに済みそうだ。

 途中で休憩を挟み、話もクライマックスに差し掛かったあたりでテオはおや、と思い顔を上げた。先程からハンナの姿が見えない。脚本を確認してもハンナの見せ場はとうに過ぎている。劇はそのまま幕を閉じた。


「何かあったんですか?」

 終演後、楽屋を訪ねたテオは巨大な鏡の前に座るハンナを見つけた。ハンナは慌てた様子で椅子から立ち上がった。

「あ、いえ……」

「ええ」

 言いかけたハンナを遮ったのは部屋に入って来たドロシーだった。

「ハンナが足を怪我したの」

「すみません……」

 ハンナがまた深々と頭を下げる。

「気にしないで。急遽練習に付き合ってくれていた子に頼んで代わりに出てもらったわ」

「どこで怪我を?」

「向こうの小道具置き場です」

 テオが訊くとハンナは舞台裏を指した。

「ミュールが割る花瓶を取りに行ったんですが、誤って落としてしまって……」

 ミュールというのは話に出てくる貴婦人の名だ。彼女は裏切りに遭い、怒りにまかせて花瓶を割るというシーンがある。その花瓶が剥き出しのハンナの足の上に落ちたのだ。

「とにかく貴女は治すことに専念なさい。皆、貴女のお芝居を待っているのだから」

 ハンナは弱々しく微笑み、「ありがとうございます」と言った。



 ドロシーが高潔と愛とを兼ね備えた人格者であることはすぐに分かった。彼女は誰よりも働き、周りに気を配り、その颯爽とした足取りでリイリーンを縦横無尽に駆けた。二日目の上演が始まる頃にはハンナもすっかり自信を取り戻し、団員の士気も高まっていた。それもこれもドロシーが人知れず手を回した結果であることは部外者であるテオとレインがよく知るところとなった。

 今日は何事もなく上手くいく。誰もがそう信じていた。



「エレインが?」

 緊張をはらんだドロシーの声が空っぽの客席に飛んだ。

「……分かったわ。部屋に呼んで頂戴」

 ドロシーは客席に残るテオたちをちらと見た。


「今度は化粧師か」

 ドロシーに呼ばれたテオは化粧部屋でため息をついた。

「だから、私は大丈夫よ。ちょっと切っただけだもの」

 エレインは気丈な様子で逞しい腕をパンパンと叩いた。手には包帯が巻かれているが、苛立ち気味な三十路の女性にレインが後ずさる。

「駄目よ。傷が深そうだし、手は貴女にとって大切な仕事道具でしょう。無理はさせられないわ」

 ドロシーは負けじと言い返した。

「……怪我はどこで?」

 先日と同じ質問をするとエレインは強気な態度を少し崩した。

「この部屋よ。みんなを舞台に送り出したらいつもここで一服するの。そしたらティーカップが突然割れて飛び散ったのよ。まぁ、お茶を淹れる前で良かったわ。火傷までしちゃさすがに治るのに時間掛かりそうだし。ていうか誰よアンタ」

「後で説明するわ」

 ドロシーはそう言うと立ち上がり、テオたちを部屋の外へ誘った。




      *




 照明の落ちたリイリーンは殊更ことさらに美しい。二階のテラス席でコーヒーを飲みながらテオは劇場を見下ろした。

「……本当はね、すぐに戻って来て欲しいのよ。ハンナにもエレインにも。でも私の我儘で二人に無理はさせられない」

 ドロシーは疲れた表情を隠すようにコーヒーを飲んだ。ドレスではなく、乳白色のワンピースを着ている彼女は浅い闇に浮かぶ真珠のようだ。

 団員たちとレインが帰った後、この劇場にはテオとドロシーしかいない。テオは本題を切り出すことにした。

「メイエットさん。本当の事を話して頂けますか」

 ドロシーの表情が変わった。テオを見ていなくともその視線は先程よりも鋭い。

「貴女は俺たちを使ってこの劇場の不審な点を暴き出そうとしていたのではないですか?」

「……なぜ、そう思うの」

 ドロシーはコーヒーの水面から目を離さずに訊いた。

「貴女はレインを紹介した時『助かる』と言った。記録作業をしない依頼側にしては妙な言い方です。あれはおそらく監視の目が増えて助かる、という意味だ」

「それだけで?」

「事件が起きた時、本来関係のない記録作家俺たちを部屋に呼んだ。それに俺たちと話す時、被害者を除いて決まって貴女は一人だ」

 ドロシーはコーヒーカップを置いて深く息をついた。

「……ええ。その通りよ。私はあなた方に探偵役をお願いしました。嘘をついていたことを謝ります」





「つまりあれは事故ではなく誰かの仕業で、私たちで犯人を見つけ出して欲しいということですか」

 レインは大きな瞳を見開いて聞き直した。

「ああ」

 翌朝、記舎で朝食を済ませたテオはバルコニーでレインに事の次第を話して聞かせた。



『――不審な点と言っても、これといった確証はないんです』

 ドロシーは毅然とした態度に戻り、打ち明けた。

『ただ私、昔から勘だけは良くて……それだけじゃどうしようもないのですけれどね。でも分かるんです。最近のリイリーンは何かおかしいの。誰かが……何かをしようとしている』

『他の団員に黙っている理由はなんです』

『考えたくないのだけど……団員の中にその誰かがいるような気がして』



「そうですか」

 バルコニーの椅子に腰掛けたレインがメモを開く。

「事件はいつも上演中に起きています。犯人がいるとしたら舞台に上がらない方か、外部の人といったところでしょうか」

「それとも舞台に上がるというアリバイがある人間か。ドロシーの勘を信じるなら内部の犯行になるな」

「だとしたら、何が目的でしょうか。同じ作品を作る仲間なのに……」

「さぁな」

 テオはコーヒーを啜りながら眼下の街を眺めた。アレジア旧市街はリイリーン劇場を中心に広がっている。西端に位置するここは付近に島が多く、入り組んだ地形をしているため、船が寄る事はないが人の手の入っていない海を見ることができる。

 リイリーンはかつて海の神が見惚れた女優の名で、いつでも彼女の姿を見れるよう海の正面に劇場が建てられたという。はて、海の神の名はなんだったか。

「ブルーアイズ様」

 掛けられた声に振り向くとアレジア記舎の受付嬢が立っていた。

「ブルーアイズ様宛てにメモを言付かっています」

 テオはメモを受け取り、目を通した。

「すぐ戻る」



 リイリーンと逆方向に路地を抜けると小さな広場に出た。噴水や石像が並ぶ、古風な広場だ。

「ブルーアイズ」

 石像の裏から姿を現したのは石像と同じくらい固い表情をした男だった。濃紺のマントを身に付けたヴォイドは真っ直ぐに伸びた背をどうにか目立たせないようにしながらテオを石像の裏へ誘導した。

「手紙より直接会った方が良いと判断した。手短に話す」

 メモには『噴水の前で待つ』とだけ書かれており、ヨルノリア王宮を示す三枚薔薇の印が押されていた。

「例の六人目について警備の者に聞いた。招集状を確認したので通したが、フードで顔は見えなかったらしい。男か女かも分からないそうだ。推薦元の記録作家協会も調べたが、覚えが無いと」

「そうですか」

「城に入ることが目的だったのか、それとも記録作家君たちか」

「……あるいはその両方か。それで名前は」

「ああ。召集した六人目の名前は確か――」




 次の日の公演前、テオたちはドロシーの部屋を訪れた。

「内部の人間を疑うのなら情報が必要です。協力をお願い出来ますか」

 ドロシーは気持ちの整理が付いたように目を閉じて頷いた。

「そうね。あなた方をみんなに紹介します。ただし、あくまで記録作家さんとして」

 テオは頷いた。外部の人間の介入によって犯人が怖気付き、犯行を思いとどまってくれれば良いのだが。


「みんな、ちょっといいかしら」

 舞台上で各々作業していた劇団員たちが振り返った。

「紹介するわ。銀の詩篇を記録して下さる記録作家さんよ」

 ドロシーが紹介すると決めたのは裏方にいるエレインを除いて五人だった。

「ハンナは知ってるわね。踊り子ミュール役よ」

 ハンナが頭を下げる。足にはまだ包帯が巻かれている。

「彼女がレイチェル。今回の主役よ」

 一番若く背の低い女性が礼儀正しくお辞儀した。輝く金髪を結い上げた可憐な外見とは裏腹に、その瞳には燃えるような闘志が見える。

「シルヴィア役、レイチェルです」

「トッドは小道具係も兼任しているの」

 奥の細長い男性が振り向く。

「そしてクレアとハイド」

 背の高い二人の男性を呼んだドロシーの口調が少しだけ親しげになった。

「クレアは副団長で二人ともリイリーンに来る前からの付き合いよ」

「よろしく記録作家さん」

 クレアの顔はドロシーの次によく見た。確か最初に挨拶しに来た時、ドロシーと話していた男性だ。劇中でも主要人物の一人で、誇張して描かれる貴族の肖像画のように麗しく、胸元のシャツを少しだけ開けている。ハイドは寡黙で大人びた雰囲気だが、クレアと同じくらい整った顔をしている。


「それじゃ、今日も頑張りましょう」

 ドロシーが景気良く言った。

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