scene2.12

 ぴちょん。と、水滴の落ちる音を聞いた。

 勇太は脱衣所の壁に背中を預け、ぼーっと天上を見つめている。

 背にした壁の向こうからは、ぱちゃぱちゃと音が聞こえてくる。おそらく、浴槽に浸かっているかおるも、こちらに背を向け座っているのだろうと予想できる。要は背中合わせに近いのだろう。

 ひと悶着あったあと、かおるは風呂へと逃げ込み、勇太はこうして壁際に座っている。

「ねぇ。なんでまだ居るの?」

 壁の向こうからくぐもった声が聞こえてきた。勇太は返答に困ってしまう。

「なんでって……そりゃ」

 謝るためだ。とは素直に言えない。でも、なぜ居座っているのかと言えば、そうとしか答えられない。

「私たち喧嘩してなかったけ?」

「……まあ、だな」

 先にかおるがその言葉を口にした。

 流れる静寂。勇太は壁越しの音に耳を澄ませてみるが、返ってくるのは重い沈黙だ。

 そのことを無かったことにはできない。もちろんお互い忘れたフリをして、仲良くやっていくこともできるかもしれない。でも、その選択はあり得ない。

 それをしてしまえばきっと、これからことある事に変な空気がお互いの間に流れてしまうだろう。喧嘩したら仲直りはすべきだ。特にいまの関係性であれば。

 勇太はなかなか離れてくれない唇同士をなんとか開け、喉を震わせた。

「あー……なんだ。その、かおる。あのときは――」

「ごめんなさい」

 かおるが声を被せてきた。

 不意を突かれ声を失うが、すぐにやって来たのは照れくささと意地っ張りな心だ。

「……なんだよ。急に」

 と、本心とは真逆の言葉が出た。

 するとかおるはしばらくの沈黙の後、独白のようにして語り出した。

「……あのね。勇太は演技イップスをやっつけるのに協力してくれたのに……『カメラ置いて帰って』だなんて。あんなこと言うのは間違った……ううん、違う」

 かおるが首を横に振ったように思えた。

「ハッキリ言ってプロ失格。リスペクトに欠けてるし、絶対に言っちゃダメなこと。朝霧薫がそう言ってる」

 壁越しにピチャっと音がする。たぶん、頭でも下げているのだろうと思う。

「言い訳だけど……ムキになってた。演技イップスが克服できなくて、イライラしてて、勇太にあたっちゃった。だから、ごめんなさい」

「……やけに」

 勇太は言葉を詰まらせた。まだ心の中には照れくささの残滓が淀んていた。

「やけに、素直に謝るんだな」

「……だって。全部私が悪いもん。人に当たってる時点で覚悟が足りなかった。役者はいつだって孤独なもの。だから、良いお芝居も悪いお芝居も全部自分のもの。当然、いつかぶち当たる壁も、打ち壊した苦しさも、打ち壊した壁の片鱗の価値も自分しか理解できない。それを受け入れる覚悟のある人間だけが、本物の役者だって」

 かおるの口調は、なにか懐かしむように思える。

「いい言葉だな。朝霧薫の名言か?」

「ちがう。私の師匠が言ってたの。そんなことをね」

「たしかに、かおるにしちゃ真面目すぎる言葉だ」

「なにそれ。嫌な感じ」

 べーっと舌を出すかおるが容易に想像できてしまう。そのあたり、彼女とはわりと長い時間を共に過ごしているのかもしれない。

 まあ……。悪いと思っているのはこっちも同じわけで。冷静になって考えてみれば、火に油を注いだのは鏡川勇太という男なわけで。それなら、謝る必要はあるわけだ。

 勇太は沈黙の後、重い口を開く。

「……かおる。俺も、ごめんなさい」

 唇を舐め、浅く息を吸った。

「つい熱くなって酷いこと言ったと思う。正直に言えば……コンテストの締め切りに間に合わなくて、分校長との約束どこじゃないって焦りがあったのは本当だ。でも……」

 こんなこと言ったところで言い訳にしか聞こえない。だけど、それでも伝えるつもりだった。なにより、こればかりは本心だ。

「誰も演技を気にしないって言ったの……あれは嘘だ。ムキになって、かおるを傷つけてやりたくて言っちまった」

 勇太は一呼吸置き、チラリと肩越しに振り返る。壁の向こうのかおるに向けて。

「審査委員は絶対に演技も見てる。グランプリ受賞作の女優の演技は酷いって言ったけど、そんなことはない。なかには、女優の演技が上手くて受賞している作品もあった。だから、かおるじゃなきゃダメだなんだ」

「どうして?」

 かおるは試すような声色で聞いて来る。勇太の反応を楽しんでいるかのようにして。

 だけど自然とムッとしなかった。単純に、かおるらしいと思ってしまう。

「俺は撮影とか……そういう映像に関しちゃド素人だ。だからコンテストで受賞しようと思うなら。かおるが必要なんだよ。お前の演技力が必要なんだ」

「それなら演技が上手な人でいいと思わない? 私じゃなくてもさ」

 なんだか、拗ねたような物言いでかおるは言った。そんなに言わせたいのか。なら、言ってやろう。言ってやるよ。

「そうだな。演技が上手いだけなら、かおるじゃなくてもいい。演技イップスとかいうわけの分からないスランプに陥ってない女優。聞き分けの言い女優。俺の言う通りに演技をしてくれる女優。いきなり教室を飛び出したりしない女優。迷子になったりしない女優。そんな女優がいいな」

「ゆ……勇太。あのー」

「でもさ」

 と、勇太は言葉を区切った。

「それでも俺は、かおるを撮りたい。かおるじゃなきゃ嫌だ」

 ちゃぽんと、と音がした。

 かと思えば突然、風呂場の扉が空いた。

「ちょっ……かおる。おまっ! 前! 前!」

 かおるが身体を隠すことなく、脱衣所に姿を現す。そのまま勇太に近づき、しゃがみ込んだ。

「勇太」

「だから隠せって! 見えてるから! 色々見えて――」

「勇太」

 と、勇太の顔にほっそりとした指が添えられた。顔を固定されてしまい、かおると眼が合う。しっとりと濡れた肌、水の滴る毛先。そして、こちらを見据える力強い眼がそこにはあった。

「勇太。あの舞台の上でのシーン。やらせて欲しい」

「は、はぁ?」

 混乱する頭を必死で働かし、なんとか聞き取れた言葉を勇太は理解できなかった。

「舞台のシーン? いや、でもよ」

 と言いかけて勇太は言葉を飲む。今日の喧嘩はそこに起因していたはずだ。

「勇太の言いたいことはわかってる。だから、あのシーンは一番最後に撮影させて」

 勇太の顔に添えられた指先が、さらに深く食い込む。

「他の必要なシーンを撮り終えて、編集も完璧で、あのシーンがなくても作品として完成してて、その上で時間に余裕があればチャレンジさせて欲しい。だって……。だってあのシーンは……」

 かおるは唇を噛んだ。

「この映画のヒロイン。彼女の……私の存在意義を問うシーンだから。だから私は、ちゃんと答えたい。女優になれずに死にたくはない」

 そう言ったかおるに、あの映画のヒロインである彼女の姿が重なった。

 余命付きの病気のため、舞台女優になれない悔しさを叫ぶ彼女。

 特殊なスランプのため、映画女優として復活できないと苦悩する彼女。

 いったい、いま目の前にいる彼女はどちらなのだろう。そう思わせるほどに、彼女は彼女を演じようとしているのか。あるいは、それこそが朝霧薫の才能なのか。

 長い間、そうしていたように思う。

 勇太は沈黙を振り切り、口を開いた。

「……わかった。撮ってやる。……いや、撮らせてくれ」

 彼女の眼を見据え、肩に手を置いた。

「かおるの存在意義はなんなのか。俺に撮らせてくれ」

「……うん。ありがと」と、かおるが微笑む。

「魅せてあげる。朝霧薫の凄さってやつを。だから、お願い。私を撮って」

「ああ」

 そうして勇太とかおるは小さく笑った。

 お互いをお互いが認め合う。そんな美しいものではないけれど、それでも彼女のことをより知れたのだと思う。

 かおるが「ふふっ」と笑う。

「てか、クサすぎかな。さっきの。まるでロードムービーみたい」

「映画出た女優がそれ言うかよ……は……はっ……」

 はくしょん、と勇太がくしゃみをした。

 どうにも、雨に濡れたままだったので身体が冷えてきたらしい。

「大丈夫? お風呂入る?」

「ああ、そうさせてもらう。てか、その前にどいてくれ。あと、前隠せ」

 勇太がかおるを手で押しのけれてみれば、かおるは一瞬考えこむような仕草を見せたが、「あっ」と声を出し、

「……やだ」

 と、とっさに前を隠した。頬を赤らめてチラリラと勇太を見るその眼は、恥じらう乙女そのものだった。

「……」

 ……なんというか、そんな反応をされると逆に意識してしまう。

 というより、これまではその辺りを気にせず、互いに際どい発言をしたこともあったというのに、いまさらそんなことをされてしまうと気になってしまう。

 流れる沈黙。視線がぶつかり、そのたびに逸らされた。

 勇太はかおるに背を向けるが、それでも彼女はその場から動けないでいる。

「なぁ。かおる。一つ、聞いてもいいか?」

 誤魔化すつもりで、その言葉が口を突いて出た。

「なに、かな」

 かおるはぽしょぽしょと呟くように言う。

 だから、その反応をどうにかして欲しい。なんか意識してるみたいでやりずらい。

「いまさらだけど、かおるの演技イップスってなんか原因とかあんのか?」

 勇太は肩越しに振り返ろうとして、やめる。危うくかおるの身体を見てしまうとこだった。

「えっと……な。白鷹と話したんだ。演技イップスになった原因があるなら、それを解決すりゃ演技イップスも解消するんじゃねぇかって」

「原因……ね」と、かおるは声のトーンを落とした。

「……あるにはある。きっかけは、それしかない」

「ならさ」

「でも、ごめん」

 かおるの声が小さくなった。

「身勝手だと思うけど……あんまり言いたくない」

「……そっか」

 なればそれ以上追及することはない。

 言いたくないなら無理に聞くのも違う気がする。なにより、誰かに言ってその原因が解決するくらいなら、とっくの昔に演技イップスは解消されているはずだ。

「まあ。あれだ。聞いて悪かった。つか、早く風呂に入ってくれ。俺も入りたい」

「あ、うん。ごめん」

 かおるは小さく呟くと、風呂場の扉を開けた。

「ねえ。勇太」

 勇太が振り向けば、風呂場の扉からひょっこり顔を出しているかおる。

「なんだよ」

「その……えっと」

 かおるは俯き、口をもごもご動かす。

「勇太、好きだよ」

「はぁ? それってどういう――」

 言葉の続きを聞く前に、かおるは風呂場の扉を閉めてしまった。

 勇太は壁に背を預け、だらりと腕の力を抜いた。

 ……だからやめろよ。そういうの。

 そう呟いてはみたが、壁の向こう側から聞こえてくる湯舟の音にかき消されてしまった。

「マジでなんなんだ。あいつ」

 自分の口がやけに緩んでいる。

 だから一発、頬を叩いてみた。だけど、返ってくるのはじんじんとした痛みだけ。心の中に沸いて出た違和感は収まってはくれなかった。

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