第十八話 虚構と現実の反転

 絶頂に達しても、なおキヨトのトランス感はしばらく続いていた。

 それでも、先ほどよりは大分頭も冷静になり、まわりの様子・・サエのことを、考えるくらいの余裕はできていた。


 サエは、行為の最中も今も・・・キヨトの目からすると、終始、乱れていなかった。

 もちろん、お互い、裸で、敏感な部分を刺激しているのだから、サエも反応はしていた。


 でも・・・なんとなくサエは、そうした刺激が既知のもの、はっきり言ってしまえば、物足りなく感じているように見えた。

 それは、キヨトのプライドをいささか傷つけるものではあったけれど、そんなことはどうでもいいほどに、サエに魅了されていた。


 もちろん、初めて会った時から、サエに惹かれてはいた。

 だが、それは単純に外見的なものであり、自分の自尊心を満たすためのものだった。


 つまり、サエの外形的な美しさに性的に欲望し、それを所有し、コントロールすることへの満足感だった。

 だが、今は違う。


 サエの常識外の態度、言動、それがたまらなくキヨトを魅了する。

 この女と一緒にいれば、このあまりにもはっきりとした現実・・決して逃げることができないウンザリする社会から、脱出させてくれるのでは・・・という期待を覚えてしまう。


 ネットも、アニメも、ゲームも、所詮は一時のものだ。

 現実から逃れられたかのような錯覚を感じさせてくれるが、それはあまりにも一瞬だ。

 すぐに、そうした虚妄から覚めてしまい、圧倒的な現実に引き戻される。


 でも、サエといる時は、その感覚が反転する。

 今いるウンザリする社会が虚構で、サエが言う「別世界」がリアルなのではと。


 サエは、相変わらず、何を考えているのか、わからない。

 その目は虚空を見つめている。


 「・・・俺は・・・この世界から、逃げたいんです。あなたの世界に、行けますか・・」


 そういつの間にかつぶやいていた。

 サエは、こちらをチラリと見る。

 その表情には、はっきりと感情が込められていた。


 悲しむような、憐れむような、憧れるような、そんな何種もの感情が入り混じった表情だった。


 「・・・キヨトさん。わたしの世界には誰でも行けますよ。もうすぐ・・・嫌でも・・・」


 サエの言葉が何を意味するのか、その真意は相変わらずわからない。

 だが、そんなことはどうでもいい・・・

 この幻想がずっと続けばいい・・


 ただ、そう思うだけだ。

 肉体的な疲労とそれにもまして、このずっと続いている目眩とトランス感がキヨトの脳に、休息せよという強い信号を発していた。

 

 猛烈な眠気が襲ってきた。

 開放感と恍惚感に包まれながら、キヨトはそのまま眠りにつく。



 外から聞こえる車のクラクションか、何かの音が聞こえて、キヨトは目を覚ました。

 朝、いい気分で、目覚めた・・という経験はほとんどない。


 何もかも、はっきりと照らす日光は、それだけで、現実に嫌でも引き戻されてしまう。

 

 ましてや、人が密集する都市ならば、朝になれば、あるゆる生活の営みが至るところに可視化されて、幻想は無残に打ち砕かれる。


 今日もその例に漏れなかった。

 隣にいるはずのサエはいなかった。

 ボンヤリとした頭で立ち上がり、床にある自分の服を掴み、着替える。


 部屋の中にもサエはいなかった。

 どこかへ出かけたのか・・

 昨日来ていたサエの服は、部屋にはない。


 だから、サエは確かに外へと行ったはずだ。

 でも・・・こんな昼間に・・・

 なんとなく嫌な予感がした。


 一瞬浮かんだそんな懸念を払拭して、スマホを見る。

 そして、時間を潰して、サエが帰って来るのを待つ。

 だが、いくら待っても、玄関の扉を開かない。


 サエは結局、帰ってこなかった。

 これ以上、ただ部屋で待っていてもしかたがない。

 

 きっと・・何か用事が・・そう・・トオリとどこかに行っているのかもしれない・・

 そんな都合の良いことを考えて、キヨトは、サエの部屋を後にして、自分の家へと帰る。


 それから、一週間が過ぎても、サエは帰ってこなかった。

 もちろん、正確に言えば、サエは家に戻ってきているのかもしれない。


 ただ、サエの部屋に毎日足を運んでも、留守だし、戻ってきた形跡はなかった。

 行方を探す・・と言っても、いざ考えてみれば、自分はサエのこと・・社会的ななアイコン・・は何もしらないことに気付く。


 名字も・・連絡先も・・・実家の住所・・そうした彼女が所属している社会的な痕跡は、一切知らないのだ。

 知っているのは、せいぜいが彼女が住んでいたこの場所だけだ。



 サエがいなくなってから、一ヶ月、悶々とした日々を過ごしていた。

 もしかしたら・・・サエは二度とこの場所に戻ってこないのでは・・

 両親に連れ戻されてしまったのではないか・・・


 ライン、ツイッター、フェイスブック、メールアドレス、電話番号、何でもいいから聞いておけばよかった・・・

 そんな、やるせなさと後悔ばかりが募っていた。


 何かをしなければという思いに駆られて、キヨトは、サエを初めて見た心療内科へと一度、足を運んだ。

 サエがこの医院で治療を受けているのならば、必ずサエの連絡先を知っているはずだからだ。


 だが、まるで赤の他人であるキヨトに患者の個人情報など教えてくれるはずがない。

 ましてや、同じく精神的病を患っている引きこもりの未成年の男が、自分と同世代の患者の女の連絡先を教えてくれなどと言って、それが通るはずなどない。


 そんなことはわかっていたけれど、それでもキヨトは、ひと目を憚らず受付の前で、叫び、懇願していた。

 危うく警察を呼ばれる段になり、ようやくキヨトはなんとか落ち着きを取り戻し、トボトボとその場を後にした。


 八方塞がりだった。

 どうすれば・・・サエにまた会える・・

 そのことばかりが、頭をよぎっていた。


 人は誰とも接触せずに、孤独である一つのことを考え出すと、どうにも偏った思考をするようになってしまう。

 キヨトも、そうなっていた。


 サエに会えるためならば、どんなことでもしてやる。

 あの診療所に夜中にでも、忍び込んで、カルテを盗みだせば・・・

 あんな個人でやっている医者なら、警備もザルのはず。

 きっと出来るはずだ。


 キヨトは、そんなことを真剣に考え始めていた。

 そして、その計画を実行に移すために、空巣や家宅侵入の方法などを夜な夜なネットで血眼になって、検索していた。

 

 そんな生活が数日続いたある日の夜、チャイムが鳴った。

 キヨトは、その音色がまるで福音のように聞こえた。

 サエだ・・サエが帰ってきた・・


 考える間もなく、玄関に向かって、走り出していた。

 乱暴に、扉を開け放つ。

 そこにいたのは、見知った女だった。


 いや・・そうだ・・こいつは、女ではない。

 玄関の前に立っていたのは、トオリだった。


 「・・・ああ・・・あんたですか・・」


 キヨトは、失望と嫌悪の表情を隠そうともせずに、トオリをにらみつける。

 その不躾なキヨトの態度に驚いたのか、トオリはその憎たらしいほど端正な顔をくもらせながら、こちらを見ている。


 「・・・キヨトさん・・大丈夫ですか?」


 なんで・・・あんたに心配されなきゃならないんだ・・

 そう口に出す寸前だったが、それを思いとどまるほどの理性はまだ残っていた。

 それに、こいつには聞かなければならないことがあるんだ。


 「・・大丈夫ですよ・・それより・・サエは・・サエはどこにいるんですか?一緒なんでしょ!」

 「彼女は・・サエは・・・今は、僕とは一緒にはいません・・・」


 トオリは、少しためらいがちな表情を浮かべて、そんな世迷い言をほざいていた。

 このヤサ男に、怒鳴りつけてやりたかった。

 このクソヤロウ!嘘を付きやがって!お前がサエをどこかにやったのだろう!


 そう言いたいところを、すんでのところで、こらえた。

 だが、怒りはますます強くなっていた。


 「どういうことですか!じゃあ・・サエはどこに行ったっていうんだ!」


 思わず、手が出て、トオリの肩を思いっきり、揺さぶっていた。

 次の瞬間、思いもよらぬことが起きた。

 トオリが、いきなり体全体を前に動かしてきた。


 てっきり殴られるのかと思い、キヨトは身をすくめる。

 だが、実際はそれとは正反対のことが起きた。

 キヨトは、トオリに抱きしめられていた。


 トオリは、「・・・キヨトさん・・大丈夫ですよ・・」と、耳元でささやくような口調で声をかけられる。

 同性にまさかハグをされるとは思ってもいなかったから、キヨトは面食らってしまった。


 その驚きのせいか、先ほどまでの怒りはどこかへ消し飛んでしまった。

 それに・・・キヨトは自分でも認めがたい感情を一瞬トオリに抱いていた。

 そのことを頭から振り払おうと、やや乱暴にトオリを押しのける。


 「だ・・大丈夫です!は、離してしてください!」


 距離を置き、冷静になった頭で、あらためてトオリの外観を見る。

 初めて会った時も感じたが、トオリの印象は前にも増して、中性的・・いやはっきり言ってしまえば、女性的になっていた。


 髪型もそうだし、肌も艷やかで、こころなしか声まで高くなっている。

 それに、服装だって、スカートを履いている訳ではないが、妙にフェミニンな雰囲気を醸し出している。


 加えて、スラリと伸びた体型に、この美しい顔立ち・・・男にしては、あまりにも、色気がありすぎる。


 もし、今のトオリが、無言で、街を歩いていたら、おそらく多くの男は、単に美人な女性だと認識するだろう。

 だから、そんなトオリに抱きしめられた時、キヨトは思わず性的に興奮してしまっていた。


 それは、キヨトにとって、受け入れがたいことであり、決して認めることはできなかった。

 外見は女性と同じに見えても、トオリは男なのだから。


 トオリの予期せぬ行為で、良くも悪くも、キヨトの頭はすっかりクールダウンさせられてしまった。


 「あの・・・キヨトさん・・・この後、時間はありますか?全てとはいきませんが、サエのことも含めて、話せることは説明します。」

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