第十六話 非日常を望み、恐れる

 家に帰って、冷蔵庫にあった食べかけの残り物を、かき集めて、腹に入れる。

 そして、浴室に入って、蛇口をひねる。

 

 食欲を満たして、シャワーを浴びれば、少しは気分がリフレッシュされるかと思ったが、あまり効果はなかった。

 サエとトオリのことばかりが、脳裏にこびりついて離れない。


 あの男は・・オカシイ・・

 いや、オカシクはない。

 言っていることは、正しい。


 ただ・・・変なのだ・・・当然に共有しているはずの常識が欠落している。

 しかし、それは・・前にも体験したことだ。

 そう・・・サエと話している時に。


 サエは変なことを言う少女・・ではなかったのか・・


 「別世界から来たの」


 サエの言葉が、頭の中に何度も木霊する。

 イヤになるほどの圧倒的な現実であるいつもの見慣れた部屋にいるはずなのに、どうにも夢の中にいるようだ。


 絶対に動かしようがないと思っていた確かな現実が僅かではあるが、揺らいでいる。

 誰もいない広々としたリビングルームに電気もつけずにいるから、こんな気持になるのだろうか。


 きっと、気のせいだろう。

 訳のわからない男の言動に当てられて、ハイになっているだけだ。


 だが、もしかしたら・・・

 一人が言っているだけなら、妄想だ。

 二人なら・・・


 奇妙な感覚だ。

 不気味で、それは恐怖ですらある。

 だけど、微かに期待している。


 二人の言っていることが、本当であることを。

 翌日、サエはいつもの時間に、家に来た。

 昨日のトオリの件があったから、もしかしたら・・・もう来ないかも・・・

と、ずっと不安だった。


 だから、サエの顔を見た時は、気分が高揚した。

 サエは、いつもと変わらない。

 昨日、トオリが帰ってきたことなど、まるで、嘘のように。

 外に出たら、怖がって、体を寄せてくる仕草も変わらない。


 だが、自分の感情はそうはいかない。

 サエのトオリの二人の様子、腕を絡めあっている生々しい光景が、頭に浮かぶ。

 それを、払拭しようと、半ば強引に、サエの腕を取る。


 「あ・・」


 サエは眉根を寄せて、怪訝な表情を浮かべる。

 しまった・・少し力を入れすぎたか・・


 「す、すみません・・」

 「いえ・・」

 「あの・・・その・・・トオリさんは?」

 「トオリは、また出かけてしまいました・・」


 サエは寂しげな表情を浮かべる。

 表情が乏しいサエにとってこれほど感情を顔に出すのは珍しい。

 自分には、そんな表情は見せてくれたことはなかった。


 いつもの暗い感情が、胸の中に巣食う。

 そのまま無言のまま、昨日見た、サエとトオリの姿をなぞらえるように・・・そうすれば、上書きして、消し去ることができるかのように・・・ほとんど同じような行動をする。


 スーパーに行って、公園に立ち寄り、いつものように食事を取る。

 ほとんど、会話という会話はなかった。

 こちらが話を振らないと、サエは、自ら話し出すということはない。


 本当は聞きたいことがいっぱいあったが、聞けば決定的に関係が壊れそうで、怖くて、切り出すことができなかった。

 結局、ずっと嫌な・・暗い感情を解消することもできずに、マンションの前まで来てしまった。


 いつもは、ここで解散だ。

 だけど、このまま別れたくなかった。

 嫉妬、憤り、そんな負の感情でも、それは、時に人を能動的にさせる。


 「・・・あの・・・サエさんの部屋によってもいいですか?」


 精一杯の勇気を振り絞り、そうボソリと言う。


 「え?・・はい。いいですよ。」


 サエは、呆気なく、承諾してくれた。

 相変わらず、サエはこちらの感情には、まるで無頓着だ。

 

 嬉しい反面、その様子が昨日のトオリを思い出させて、少しだけ腹立たしくもあった。

 こっちはこんなに色々悩んでいるのに・・・サエは・・どうでもいいようだ。


 サエの家には、もちろん誰もいなかった。

 今日は、トオリもいない・・・はずだ。

 

 サエは、部屋に入ると、そのままスタスタと、何もないリビングルームの窓越しの床に膝を抱えて、座り込む。

 サエは、無造作に足を投げ出しているため、短いワンピースの丈から足のほとんどが、露出してしまっている。


 見てはいけないと思いつつも、思わずサエの白い肌、足を見てしまう。

 だが、サエはこちらからどう見られているかということをまるで気にかけている様子はない。


 サエにとっては、自分など存在していないか、あるいはどうでもいい存在なのだろうか。

 先ほどからの憤りが、ますます高まる。


 怒りが遠因となって、アドレナリンが出ているせいか、それともサエの美しい容姿のせいか、劣情も・・・高まってしまう。

 自分の感情を少しでも落ちかせようと、キヨトはあえて、トオリのことを聞く。


 「あの。トオリさんはいつ戻ってくるんですか?」

 「わからないです・・でも、少なくとも一週間は戻ってこないと思います。あの・・その間、また洗濯・・よろしくお願いします。」


 サエは、床に乱雑に投げ出されている自身の衣服や下着をチラリと見る。


 そのサエの言葉と態度が、キヨトの感情のトリガーを引いた。

 ・・・俺は、サエにとって、都合の良い使いっぱしりなのか。馬鹿にしやがって!


 言いようのない苛立ちが心を覆う。

 キヨトは、無言のままおもむろにサエの前に立つ。


 「キヨトさん?どうしました?」


 サエは不思議そうに大きな目をパチパチさせて、キヨトの方を見つめている。


 「あの・・サエさん。俺たち。恋人同士なんですよね?」

 「えっ・・」

 「なら・・・別に・・いいですよね」


 キヨトはそう言い放ち、かがみ込み、サエの体に覆いかぶさる。


 「なに・・」


 サエはキヨトのいきなりの行動に、驚いたのか、体のバランスを崩す。

 そのまま床に仰向けに倒れて、その上をキヨトが乗る形になる。

 感情の赴くままに、そのままキヨトが自分の唇とサエの唇を合わせようとした時、キヨトの動きが止まった。


 動けなかった・・

 サエはその可愛らしい顔から想像もできないほど、酷薄な笑みを浮かべていた。


 まるで、自分が動かしているゲームの中のプレイヤーにあえて、馬鹿げた行為をさせて、嘲るような・・・そんな表情だった。


 「・・・どうしたんですか?続きはしないんですか?」


 サエは下から、その大きな両方の瞳でこちらを容赦なく射抜く。


 「・・・・そ、そんな・・目で・・・み、見るな!」


 気づいた時、キヨトは大声を上げて、後ろに飛び跳ねていた。

 サエは、そのまま何事もなかったかのように、再び床に座って、外を眺めている。

 

 罵倒されたり、叫ばれたり・・したほうがはるかによかった。

 それは、キヨトの常識の範囲内のことだから、理解できる。

 

 だけど・・サエのこの態度は・・・

 まただ・・この感覚・・・

 キヨトは、一瞬めまいを覚えた。


 この何の変哲もない部屋が酷く、非日常に感じられる。

 まるで、夜に、真っ暗な森林の中で、焚き火を見ているような・・・

 キヨトは、壁にもたれかかり、呆然とサエを見つめる。


 「・・い、いったい・・・あなたは・・」


 なんとか絞り出すように、そうサエに問いかける。


 「・・・キヨトさん。あなたがいま抱いているその感情って人にとって、必要なものですか?トオリは必要だと思っている。私もそう・・思う時はあった。そういう予期せぬモノは羨ましい・・・と。でも・・・どうでしょうか?わたしはトオリのように・・感情に・・コントロールできない感情に・・価値を見出だせない。この世界に来て・・・実感しました。やはり・・・元の世界こそ・・・望ましい・・・」


 サエは、こちらを見ようともせずに、ただ外を・・空を見上げている。

 めまいは一層酷くなる。

 壁に手を置いていなければ、倒れそうなくらいだ。


 ここから・・出なければ・・

 このワケの分からない空間に留まっていては、俺の頭まで・・オカシクなってしまう・・

 キヨトは、ヨロヨロと、なんとか玄関まで歩く。


 振り返るべきではなかったのかもしれない。

 だが、やはりどうしても、気になり、振り返ってしまった。

 化け物がいた・・・・なら、よかった。


 サエは変わらず少女のままで、窓際に立ち、外を見上げている。

 月明かりに照らされたサエの横顔はいつもよりさらに美しく見える。

 そう・・・サエはいたって普通の少女だ。


 だからこそ・・・

 考えるな・・・・

 俺は、現実に・・社会に戻るのだ。


 キヨトは、玄関を勢いよく、開け放ち、転がるように外へと飛び出す。

 そして、自分の家へと一目散に帰る。

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