【覚】

 9人目に紹介するサイコパスは、城上芸子しろがみうえこ。齢62歳の女である。

 本来ならばここで、サイコパスの犯罪歴や略称を紹介するところだが、その必要があるだろうか?

 そう言ってもいいほどに、城上芸子の存在は有名だろう。それは今までに紹介してきたサイコパスの比ではない。

 インターネットやそういった書籍で、連続殺人鬼や都市伝説などのアンダーグラウンドな知識に興味を持った者ならば、必ずと言っていいほどに彼女の名や異名を目にしていることだろう。

 だが、このコラムの趣旨はサイコパスを世間に紹介するというものである。城上芸子の名を知らない者の為に、きちんと説明は行うものとしよう。

 城上芸子が犯した罪は計8人の誘拐殺人と死体遺棄である。事件名は”保後ほご連続児童誘拐殺人事件”。恐らく、一定の世代には馴染みが深い事件名だろう。

 事件当時、そのあまりの凄惨な異常犯罪に、日本中は激震した。時代が移り変わり、新世紀が始まろうとしている日本に暗い影を落としたその事件は、日々のニュースを席巻し、連日のようにワイドショーを賑わせた。

 日本における連続殺人事件史の殿堂入りとでもいうべきその事件は、何より犯人のアイコン化という点が、その知名度の向上に一役買っているだろう。

 事件当時、ありとあらゆるメディアが、彼女をこう呼称した。

 ”誘拐殺人道化女”、”子殺しピエロ”、”保後の笛吹き女”。

 実際に、事件をモチーフにした映画や小説、モデルにされたキャラクターなどが数多く存在し、多種多様な媒体で城上芸子が異常連続殺人犯、サイコパスとして取り上げられているのは事実である。

 一体なぜ城上芸子というサイコパスがそれほどまでに世間の注目を集め、日本を代表する異常犯罪者として名を馳せることとなったのか。それを一から解説していくとしよう。



 城上芸子は旅芸人一座にて大衆演劇を営む夫婦の一人娘として誕生した。父親は城上星利しろがみしょうり、旅芸人一座”城上座”の座長であり、母親は城上鞠子しろがみまりこ、その一座の花形役者であった。

 旅芸人一座として全国を巡業していた旅芸人一座”城上座”は、主に大衆演劇を行う十数人ほどの小劇団であり、そのほとんどが城上一族の血縁者で構成されていた。

 例に漏れず、両親は授かった一人娘にも、旅芸人役者の道を歩ませようとしていた。

 城上芸子は三歳にも満たぬ内に、初舞台を踏んでいた。巡業する芝居小屋の狭い楽屋を我が家とし、一座の中で成長していくこととなった。

 座長でもある父、城上星利は一人娘に対して厳しい指導を日夜行っていた。全ては”城上座”の未来を担う娘に、一人前の旅芸者になってほしいとの期待を込めての事だった。それは母親の城上鞠子も同様であり、演技指導として厳しく娘を叱責した。

 芸子という名前も、芸に生きる身であってほしいとの願いを込めて名付けられたものだった。

 旅芸人一座の巡業は、数か月おきに地方から地方へと移り、連日稽古に打ち込んでは舞台に立つという日々を繰り返すものである。当然、城上芸子は小学校にて学業には励むものの、数か月後には転校を余儀なくされた。

 芝居の稽古は連日行われる為、時には学校を早退してまで舞台に立ったこともあった。転校を頻繁に行う為に、友人は出来てもすぐに疎遠になった。そんな生活が嫌になり、文句を言ったり稽古を投げ出そうものなら、両親からは罵声と平手が飛んだ。

 お前は城上座の将来を担う芸者になるんだぞ。そんなことでどうする。立派な役者になれ。母さんのように、花形役者を目指せ。

 どうして失敗したの。一流の芸者になるんでしょう。稽古してないで遊んでばかりいるから間違えるんでしょう。次に振り付けを間違えたら、ここに置いていきますからね。

 そんなの嫌だと泣く城上芸子に、両親は決まってこの言葉をかけた。

 お前はどうあがいたって役者になるんだ。諦めて芝居を続けなさい。お前の名前は芸子でしょう。芸をするの。一生かけて芸をするのよ。

 逮捕後に城上芸子の精神鑑定を担当した医師は、幼少期のこの経験が人格崩壊の序章だったのではないかと推測している。

 城上芸子は順調に旅芸人一座の役者として成長していくが、その裏では芝居の稽古ばかりの毎日に嫌気がさし、鬱憤を晴らす為に軽犯罪を繰り返すようになった。

 万引きを始めたのは中学校に進学する頃からだった。スーパーで駄菓子をくすねたり、薬局で生理用品を持ち去ろうとしたりした。店側に見つかったこともあったが、数か月後には転校するのをいいことに、しおらしい態度を取って初犯として見逃してもらうことが多かった。

 自分の身体に価値を見出して小遣い稼ぎを始めたのは14歳になってからだった。客は主に中学校の同級生やその友人だったが、時には教師の相手もした。どうせ数か月後には転校するからと、自分の悪い噂が出回っていても気にも留めなかった。

 荒れ果てた私生活とは裏腹に、役者としては若き花形として活躍していた。一座の中では期待の役者として評価は高く、両親もその姿に満足していた。



 人生の転機が訪れたのは、中学を卒業する歳になった15の時だった。

 両親はいよいよ一人前の花形役者として、一人娘を一座に迎えようとしていたが、城上芸子はそれを固く拒否したのである。

 城上芸子は旅芸人一座の巡業生活にウンザリしており、高校へ進学してごく普通の人生を歩みたいと両親に打ち明けた。

 その旨を伝えた瞬間に、父親からは平手打ちが飛び、母親からは罵声を浴びせられた。

 何を考えてるんだ。お前はこの一座の花形になる運命なんだ。芸子、お前は芸子だろう。芸をする為に産まれてきたんだ。

 あなたは逃れられないのよ。私と同じように、何もかも全てを芸に捧げるの。

 城上芸子は自身の未来に絶望した。このままでは芸しか知らぬ中卒の女になり、地方の寂れた芝居小屋で客の年寄り連中を相手にする一生となってしまう。そんなのは嫌だ。

 それまで、ひた隠しにしていた本性が両親に対して露わになるのは、時間の問題だった。

 荒れた城上芸子は両親に反発し、しょっちゅう口喧嘩をするようになった。稽古をボイコットし、芝居に対して打ち込むことを止めた。自暴自棄は加速していき、売春にも手を出した。素行の悪い仲間とつるんでは、泥棒紛いの悪事に手を染めたこともあった。

 何か問題を起こして警察の厄介になる度、両親は連れ戻しに来て激昂した。芝居小屋に引きずられ、楽屋に監禁されたこともあったが、すぐに逃げ出してはまた問題を起こした。

 やがて、業を煮やした両親は鉄拳制裁とでも言わんばかりに、城上芸子に対して暴力を振るうようになった。顔を傷つけては役者としてやっていけない為、主に胴体に対して殴る蹴るの虐待が行われた。

 両親は誇りにしていた旅芸人一座としての人生だったが、その実態はあまり羽振りにいいものではなく、常に自転車操業であったという。その貧困が、両親の精神を荒ませていたのかもしれない。

 次第に城上芸子の心は歪んでいった。閉鎖的な環境が拍車をかけ、とうとう両親との軋轢を決定付ける出来事が起こる。

 ある日、いつものように両親から暴力を振るわれて楽屋に閉じ込められていた時の事である。やがて夜になり、皆がそれぞれの寝床で寝静まったのを見計らって、城上芸子は小劇場の衣裳部屋の片隅に火を放った。

 母が大切にしていた着物が燃え果てるのを見届けてから、すぐに外へと出た。振り返ることはなく、そのまま売春で相手をしたことのある男の元に転がり込んだ。

 翌朝のニュースで、小劇場が跡形もなく燃え尽きたことを知った。幾人かの死者と重体患者が出たという報せを聞いて、思わず笑みがこぼれた。

 この放火事件は長らく電気火災による事故とみなされていたが、後に城上芸子の証言により覆されることとなった。だが、当時の状況証拠からしても、放火とは断定できなかった為、これが真実かどうかは今も定かではない。

 その後、城上芸子は売春で生計を立てながら、路上生活者としてあちこちを放浪していた。念願の自由を手に入れたはいいが、まともな職に手を付けるにはまだまだ人生経験が足りなかったのである。

 やがて、地方の寂れた歓楽街に辿り着いた城上芸子は、場末のショーパブの経営者に拾われ、小間使いのような仕事を始めた。城上芸子は夜の世界に身を投じていくことになったのである。雑用をこなしながら、舞台で裸同然の格好をして踊る女たちの姿を見ている内に、城上芸子は両親から言われた言葉を思い出していた。

 お前は芸子だ。芸をする為に産まれてきたんだ。

 まるで呪いのように、その言葉が頭の中で反響していた。だが、芸に生きてきた身として、薄暗い舞台であられもない姿を晒す女たちに対して、尊敬の念を抱くことはなかった。

 いつの日か、この薄暗い世界を脱して、陽の当たる場所で人々を喜ばせる仕事に就いて見せる。その決心は、後に城上芸子の人生の指針となった。

 苦心しながらも、少しずつ仕事と売春で金を貯めた城上芸子は、どうにか夜の世界を脱した。別の地方にて昼の仕事、スーパーのレジ打ち店員を始めると同時に安アパートに部屋を借り、故障寸前の軽自動車を手に入れた。

 心機一転、新しい人生を始める準備は整った。この時、城上芸子は25歳になっていた。



 やがて、細々と慎ましい新生活を始めた城上芸子は、とある活動を始める為に動き出した。

 それはホスピタル・クラウンという、一種のボランティア活動であった。

 ホスピタル・クラウン。主に遊園地などでパフォーマンスを行っている道化師、いわゆるピエロ、クラウンが病院へ赴き、入院している子供達の前で芸を行う活動である。

 活動の多くは小児病棟にて行われることが多く、病に伏せっているいる子供達に笑顔を届けることを目的としている。この活動は1980年にアメリカにて発祥され、後に国際的に拡大していった。

 当時の日本ではホスピタル・クラウンの文化はまだ珍しく、発足されたばかりの協会に数人のクラウンが所属して細々と活動を行っているのみであった。

 そこへ、クラウン活動がまったく未経験の城上芸子が現れたのである。協会はクラウンの募集をしていたものの、遊園地などで大道芸をしていた者を対象にしていた為、困惑するばかりだった。

 だが、一人でも多くのクラウンを所属させようとしていた協会はろくに査定もせず、快く素人同然の城上芸子を受け入れた。

 本来ならば、病院という清潔さを求められる場所や、病気の子供の精神に影響を及ぼさないように専門の教育を受けなければならないのが、ホスピタル・クラウンとなる必要過程であるが、まだ体制の整っていなかった協会は事細やかな審査基準を設けていなかったのである。

 まったくの未経験だった城上芸子は、ピエロメイクや衣装、小道具などを協会の協力によって手配してもらうと、ジャグリングやバルーンアートの練習に励み、人々を楽しませるクラウンとしての修行を始めた。

 さすが、役者一家に産まれた血筋ともいうべきなのか、城上芸子は多種多様な芸を瞬く間に自分のものにしていった。クラウンは芸のほかにも巧みな話術や咄嗟に機転を利かせる要領の良さなど、求められることは多いが、舞台で大勢の前に立つという経験を幼少期からしていた城上芸子にとって、それは朝飯前だったのかもしれない。

 やがて、先輩であるクラウンに連れられて、城上芸子はとある病院の小児病棟を訪れた。派手なピエロメイクをした二人の道化師は、子供達にジャグリングや手品の芸を見せ、ぬいぐるみをプレゼントして病棟を賑わせた。

 城上芸子は人前で芸を行い、楽しませるという感覚を何年振りかに思い出していた。あの時とは違い、鈍そうな年寄りではなく、若き未来ある子供達を笑顔にしている。

 あの時とは違う。自分を犠牲にしてまで芸をやらされていたあの頃とは———。



 それからの日々は、実に平穏なものだった。スーパーに勤務しつつ、休日は子供達を楽しませる道化師へと変身して笑顔を振りまいた。協会からの信頼も厚く、着実にホスピタル・クラウンとしての経歴を獲得していった城上芸子の評判は広まり、時にはパーティー・クラウンとしてイベントや地域行事に呼ばれたりもした。

 荒んでいた城上芸子の心は、ホスピタル・クラウンの活動によって徐々に回復していった。他者に優しさと笑顔を与えることが、生きがいになった。

 だが、その影で城上芸子はとある邪念に苛まれていた。病に伏せる子供達にをみて、陰惨な考えが頭をよぎることがあった。

 この子達の未来に、可能性はあるのだろうか。

 かつての、可能性に閉ざされていた自身の幼少期の姿を、小児病棟の子供達に重ねていた。

 自分は自ら切り開いた。その為にはも厭わなかった。

 なぜ、この子達は自ら切り開こうとしないのか?そんな苛立ちを、心のどこかで小さく募らせていた。

 だが、その後ろ暗い考えが日の目を浴びることはなく、平穏な日々は長く続いていった。

 やがて、城上芸子はスーパーの店員から建設会社の事務員として転職した。正社員として雇われた結果、収入が増え、安アパートから小さな一軒家の借家へと移り住む余裕も生まれた。廃車寸前だった軽自動車も中古の普通車へと買い替え、生活は豊かになっていった。

 ホスピタル・クラウンとしても着実に経験を積んでいった城上芸子は、協会からの要請で遠方の病院にも足繁く通うほどのベテランとなっていた。協会に新しく所属した人間の育成にも精を出し、発展に貢献した。

 今となっては協会側も認めたくはないだろうが、こう述べても過言ではないだろう。

 城上芸子は、日本におけるホスピタル・クラウンという活動事業に対して大いに貢献した人物である。

 だが、城上芸子はそれと同時に、協会にとって凄まじい汚点を残す人物になるのだが、それは後の事である。



 惨劇の幕が開かれたのは、城上芸子が35歳になろうとしていた頃だった。

 すっかりベテランのホスピタル・クラウンとなった城上芸子は、とある病院の小児病棟に赴くこととなった。

 この病院こそが、最初の犠牲者、武田太郎たけだたろうが入院していた保後中央病院である。

 城上芸子はいつものように、派手なピエロメイクを施してジャグリングや手品を披露し、子供達を笑顔にした。手錠を使った脱出トリック手品や、お漏らしをする犬の人形を使った大道芸は、病に伏せっていた子供達を大いに賑わせた。

 ふと、城上芸子はその群衆の中に、たった一人笑顔を見せない子供を見つけた。まだ10歳にも満たぬであろうその少年は、無表情のまま立ちすくむばかりで、いかなる手品にも話術にも、笑うことはなかった。

 一通りの芸を終えた後、城上芸子はその少年に近付いた。

 やあ、僕。そんなに物静かで、どうかしたのかいっ?

 陽気な口調で話しかけたが、やはり少年は無口なままだった。すると、一人の看護師が駆け寄ってきた。

 ああ、すいません。この子は太郎君。突発性の病気で、耳が聞こえないんです。

 城上芸子は思わず狼狽えた。今までにない経験だった。どうしていいかわからず、場を誤魔化そうとして手からスポンジのボールが飛び出す手品を披露したが、やはり少年は無表情のままだった。

 後になって、城上芸子は看護師に尋ねた。

 一体どういう名前の病気なんです?耳が聞こえないなんて。それにあの子、他の子とちょっと様子が違うような・・。

 看護師は苦い表情をした。

 あの子・・、太郎君はね。親から暴力を振るわれて、そのせいで耳が聴こえなくなってしまったんですよ。可哀そうに。治療を続けてるんですけど、治る兆候もなくて・・。

 城上芸子の中で、ずっと影を潜めていた何かが、ゆっくりと息を吹き返した。

 小さな我が家に帰りついた城上芸子は、独り部屋の中で考えていた。幼少期の経験が、頭の中で強烈なフラッシュを焚くように蘇っていた。

「あれがきっかけだったわねえ・・・」

 こじんまりと椅子に座る城上芸子の姿は、過去を懐かしむ老婦人の様だった。

 面会設備越しに見たその顔は、無表情でいて、どこか微笑みをたたえている様だった。まるで、ピエロのメイクが今でも貼り付いているかのように。

「あの夜、私は分からなくなった。心のどこかにあった苛立ち。自分の道を自分で切り開かなかった者に対する怒り」

「私はあの子を見た瞬間に、ああ、あれは自分で道を切り開かなかった者の末路なんだと思った。多分私も、あのまま親の元に居ればああなっていたんだろうねえ」

「あれは、あり得たかもしれないもうひとつの私の道だった。そう思うと、あの子に対して激しい怒りが込み上げたのよ」

  城上芸子は、後日再び保後中央病院を訪れた。ホスピタル・クラウンとしてではなく、見舞いに来た人間を装って堂々と小児病棟へ赴いた。

 派手なピエロのメイクをしていなかった素顔の城上芸子に気付く者は、一人もいなかった。

 武田太郎は休憩室のソファーで絵本を読んでいる最中だった。ふと、隣に一人の女が座ったが、別に気にも留めなかった。

 その女が不意に読んでいる絵本の上に、一枚の紙を置いた。ひらがなで、”たろうくん、おそとにいきたい?”と書かれていた。振り向くと、女がにっこりと微笑んでいた。

 城上芸子はその後、まだ幼い武田太郎を抱きかかえて堂々と病院を後にした。入院着代わりのパジャマ姿を隠す為、予め持参しておいた子供用のパーカーを羽織らせてカモフラージュした。

 誰しも、その姿を疑問に思わなかったのだろう。傍から見れば、それは子供を抱えて病院を後にする母親そのものだった。

 それが、凶行に及ぶ誘拐犯の姿だったというのに。

 城上芸子はそのまま物言わぬ武田太郎を自宅へと誘拐した。武田太郎は終始無表情で城上芸子を見つめていた。

「坊や、私が誰だか分かるかい?」

 武田太郎は目を見つめるばかりで、無反応だった。

「あの時のピエロさんだよ。分からないのかい?」

 武田太郎は、やはり無反応だった。

「・・・ねえ、坊やはどうしてここに連れてこられたと思う?」

 城上芸子は武田太郎を絞殺した後、自宅の和室の畳を剥いで床下に遺体を埋めた。築年数が古く、床下が一面土だった床下は空気の循環が行われていなかったのかジメジメと湿っており、容易く掘り返すことが出来た。

「最初の子は大人しかったねえ。なんたって、何も聴こえないし、何も言えなかったんだから」

「殺した瞬間に、目が覚めたようだったよ。私は今まで、白々しい芝居をしていたのさ。まともな人間の芝居をね」

「結局、私はまともな人間じゃなかったのさ。子供を楽しませて芸に生きるなんて、所詮惨めな慰めだった。私が求めていたのは、自分で未来を切り開かなかった惨めな奴等に相応しい末路を辿らせてやることだったのさ」

 実に20年ぶりの殺人は、笑顔の裏に抑えつけていた暗い狂気の感覚を目覚めさせてしまった。



 蘇った城上芸子の狂気は留まるところを知らなかった。その狂気の餌食となったのは、ホスピタル・クラウンとして訪れた病院に入院していた子供達だった。

 手口は毎回同じだった。ホスピタル・クラウンとして訪れた際に標的を決め、後日その病棟に出向いては、外へと連れ出して誘拐した。服装はありふれた地味なものを選び、常にマスクをしていた。持参していた手提げの中には子供に羽織らせるパーカーと、気を引く為のゲーム機やおもちゃを忍ばせていた。

 二人目の犠牲者は増田愛理ますだあいり。彼女も親の虐待によって、小児病棟に入院していた子供であった。父親から殴られた際に片目を失っており、常にガーゼの眼帯をしていた。

「お外に行って、散歩しよう。そう言ったら、すぐについてきたよ。ちょろいもんだったねえ」

 大声で騒がれては困る為、凶行は車中にて行われた。車内に忍ばせていたバールで頭部を何度も殴打して殺した。白昼、公道を車で走らせながらの大胆な殺人だった。

 増田愛理も自宅の床下に遺棄された。武田太郎を埋めた隣に、きちんと並ぶようにして埋められた。

 三人目の犠牲者は蓮見勉はすみつとむ。やはり親による虐待被害者であり、鼻を複雑骨折して入院していた。

 増田愛理とまったく同じ手口で殺された蓮見勉は、やはり床下に並ぶように埋められた。

「掘ってる時に、二人目のお嬢ちゃんの手が出てきてねえ。酷い有様だったよ」

 これまでの三人の犠牲者は、二年の間にそれぞれ保後市の別の病院にて誘拐された。各病院は立て続けに起こる行方不明事件に厳戒態勢を取り、警備を強化するなどして対策した。

 ホスピタル・クラウンとして病院に入り浸っていた城上芸子はそれに勘付き、しばらく誘拐殺人を控えるようになった。

 その後三年間、城上芸子は狂気を潜めていた。だが、脳裏には常に後ろ暗い願望が纏わりついていた。常人を装い、平穏に日々を過ごしていたが、それはまるで偽物の笑顔を貼り付けて芝居をしている様だった。

 やがて、衝動を抑えられなくなった城上芸子は、保後市ではない遠方の病院にて標的を探しだした。やはり、その病院もホスピタル・クラウンとして度々訪れていた場所だった。

 四人目の犠牲者、田尻由利たじりゆりの誘拐殺人が行われたのは、蓮見勉の殺害から四年後の事だった。

 田尻由利は保後市から遠く離れた病院にて、小学校の体育授業の際に骨折した腕の治療を受けていた。術後の経過観察の為に来院していた田尻由利は、母親が精算をしている間に一足先に駐車場へと戻っている最中だった。

 人気のない立体駐車場で、手際よく誘拐は敢行された。歩いている田尻由利を車で轢き飛ばし、倒れて転がった身体を素早く抱えて助手席へと乗せた。帰宅途中に意識を取り戻した田尻由利は、やはり車中にて、バールで滅多打ちにされて殺された。

「ああ、その子は四人目の子ね。久しぶりだったから、色々と楽しんだわよ」

 取材中、犠牲者の写真を見せている際に、城上芸子が発した言葉である。

 筆者はそれを聞いて、脳裏に浮かんだひとつの疑問を投げかけた。

「あなたは三人目の犠牲者までは、親から虐待を受けていた子供達ばかりを襲っていましたが、なぜ四人目の犠牲者からは、見境を失くしたように襲っていったのですか?」

 純粋な疑問だった。実際に、四人目以降の犠牲者の中に、虐待を受けていた者は一人もいない。犯行の動機は、”自分で道を切り開こうとしなかった者に対する苛立ち”だったはずである。それが、なぜ見た目だけでは腕を骨折しているというだけの田尻由利を襲ったのか?

 そんな筆者の疑問に対し、城上芸子は最悪な答えを用意していた。

「そんなわけないじゃない。私はあの子に何度も聞いたのよ?その怪我はパパやママからやられたんでしょう?って」

「殴りながら何度も何度も問い詰めたら、あの子は泣きながら認めたわ。だから、相応しい所に埋めてあげたのよ」

 城上芸子にとって、もう動機など、どうでもよくなっていたのだろう。ただ自身の欲望、殺人願望の為に、誘拐殺人は行われていったのである。



 覚醒した殺人者の狂気は、さらに多くの子供達を餌食にしていった。

 五人目の犠牲者は真木範論まきのりとく。やはり保後市から遠く離れた地方の病院にて、誘拐された。手口は田尻由利とほとんど同じであった。花火をして遊んでいた際に負った火傷の治療の為に通院しており、手首に巻かれた包帯を見て、城上芸子は真木範論を標的に定めた。

 誘拐殺人の後、わずか三週間後にホスピタル・クラウンとしてその病院を訪れ、小児病棟の子供達を笑顔にしていたというのだから、恐ろしい話である。

 六人目の犠牲者は立木俊哉たてぎとしや。風邪をひいた為、保後市の小児科医院を訪れていた際に、親が薬局にて処方箋を受け取っている隙をついて、車中から連れ去られた。なぜ外傷もなく、入院患者でもない立木俊哉を連れ去ったのかという問いに、城上芸子は”きつそうにしていたのに車に置き去りにされていたから”と答えた。

 七人目の犠牲者は江渡勝えどまさる。二人目の犠牲者、増田愛理と同じ病院に入院していた子供だった。交通事故に遭い、歩行困難の為に車椅子で移動をしていた江渡勝は、看護師の計らいで一階の中庭に出向いていた。

 看護師が所用で席を外している際に、城上芸子は”お外にママが待ってるよ”と嘘をついて車椅子ごと堂々と江渡勝を誘拐した。

 江渡勝を埋める頃には、和室の床下は既に七人の遺体が埋まっている共同墓地と化していた。

 そして、とうとう惨劇に終止符を打つ出来事が起こる。

 八人目の犠牲者、田淵丈司たぶちじょうじを誘拐した際に、犯行の一部始終を病院関係者に目撃されてしまったのである。

 田淵丈司は一人目の犠牲者、武田太郎と同じ病院に入院していた。幼くして末梢神経障害を患っていた田淵丈司は車椅子に乗りながら、懸命に治療に励む毎日を送っている最中だった。

 城上芸子は車椅子に乗っているというだけの理由で、標的を定めた。何より、前回の標的である江渡勝を車椅子ごと誘拐したという自負が、その判断に繋がっていた。

 今回も上手くやれる。自分で道を切り開かなかった者に、相応しい末路を与えてやれる。

 そんな狂気を秘め、城上芸子は田淵丈司に近付いた。

「お外にママが待ってるの。連れて行ってあげましょうね」

 同じ手口で嘘を吹き込み、まんまと裏口へ田淵丈司を連れ出したところで、城上芸子はふいに視線を感じ、足早に車へと乗り込んだ。車椅子から抱え上げた田淵丈司を助手席に放り込むと、車椅子を置き去りにして颯爽と病院を後にした。

「おかしいなと思ったんです。来院者用の駐車場から遠い裏口から、車椅子の患者を連れ出すなんて、そんなの見たことありませんでした。それに、車椅子を置き去りにしていくなんて」

 一部始終を目撃していた、かつて保後中央病院に勤めていた者(本人の希望により匿名)による当時の証言である。

 目撃者はただならぬ不穏さを感じ、すぐさまその一部始終を病院に報告した。病院中の車椅子の患者の安否が確認されたのは、誘拐から僅か三十分の間の出来事だった。

 城上芸子はただならぬ不安に襲われながらも、自宅に向かっていた。視線を感じた。目撃されたのではないか。そう考えると焦燥感に駆られ、落ち着かなかった。

「あの時ほど人生で焦ったことはないよ。直感で分かったんだ。絶対に見られたってね。なんでかは分からないけど」

「そんな時に、あのガキが話しかけてきたんだよ。ねえ、どこに行くのって。人がキリキリ焦ってるっていうのにさ。だから、特別にいたぶってやることにしたんだよ」

 普段ならば、車中で殺してから自宅に遺体を持ち帰る手順だったが、焦りで判断力が鈍っていたのか、それとも自暴自棄になっていたのか、城上芸子は最初の犠牲者である武田太郎と同様に、自宅にて殺害を決行するに至った。

 二日後、病院の関係者による目撃情報から車種と車両ナンバーの末尾を割り出していた警察が、城上芸子の家を訪れた。城上芸子は白々しく、何も知らない、それは心配だ、協力できることは何でもすると警官に言い放ったという。

「玄関先にて、事情を聴いている最中でした。室内から凄まじい異臭がしたのです」

 実際に城上芸子に事情聴取を行った警官、小関叙夫こぜきのべおによる事件当時の証言である。

「話し方からして、疑念は抱きませんでした。しかし、明らかに民家から漂ってくるはずのない臭いに、違和感を覚えたのです。あれは、かつてマンションで孤独死していた現場に出向いた際に嗅いだことのある、死臭でした」

 小関叙夫は相棒の警官と共に、家の中を検めさせてほしいと申し出た。城上芸子は、驚くことに快く二人を中に引き入れたという。

 どうぞどうぞ、何かあればいつでも仰ってくださいね。

 そのあまりの円滑さに、小関叙夫はかえって疑念を抱いた。何かある、ここには何かがあるはず。

 室内を検めながら、死臭を辿った。相棒の警官が、和室の畳が不自然に隆起していると勘付き、手を差し伸べた瞬間に、城上芸子は包丁を携えて背後に忍び寄っていた。包丁を振り上げ、刺殺しようとしたところへ、それに気づいた小関叙夫が体当たりをくらわせた。吹き飛んだ城上芸子はタンスにぶつかり、気絶して動かなくなった。

 突如として陥った危機的状況に狼狽えながらも、小関叙夫は死臭の正体を確かめようと、相棒を促して和室の畳を剥いだ。幾枚かの木板を取り去り、床下を陽の元に曝け出すと、そこには目を背けたくなるような地獄が広がっていた。

 床下一面が、土と死体が混ざり合った泥沼のようになっていたのである。元々地質が良くなかったのか、湿り気を帯びた土が死体の汁気でさらに水分を含み、腐った沼のような様相を呈していた。床を支えていた木柱は夥しい汁気のせいか、ボロボロに朽ち果てており、何百匹もの虫がたかって蠢いていた。換気もろくに行われていなかったせいか、死体から放たれる死臭は封を解かれたように和室中に充満し、激しい嗚咽を催した。

 床下の隅に半分沈んでいた車椅子と、その傍らに浮かぶ子供用の入院着らしきものを発見し、小関叙夫は確信した。

 ここは、殺人鬼の死体保管庫なのだと。



 逮捕された城上芸子は、頑として罪を認めようとしなかった。知らないの一点張りで、取り調べに対し徹底抗戦する態度を見せ、捜査は膠着状態に陥っていた。

 その一方で、現場の遺体改修作業はそれ以上に困難を極めていた。犠牲者全員の遺体が完膚なきまでに腐り果てており、メタンガスを発生させていたのである。

 遺体の回収に当たった捜査員たちは、周囲の住民を退避させた後に土木工事用の大型集塵機を用いて大規模な換気を行ったという。その後、捜査員の全員がガスマスクと胴付きゴム長を用いて遺体を回収していった。中には既に白骨化していた者や、身体中が虫の巣窟になっている者、身体を掴んだ途端にとろけてバラバラになってしまった者、分解が始まって粘液状に崩れ出していた者など、ほとんどの遺体がまともに原型を留めていなかった。

 ただ一人、田淵丈司だけが原型を留めたまま、泥沼の片隅に沈んでいた。遺体の手足と首には無数の刺し傷があり、恐らくは拷問の後に殺されたのだろうと推測された。

 計八人の遺体は、狭い和室の床下を有効活用するかのように丁寧に並べられていた。まるでトランプの七並べの様に、遺体は縦に四人ずつ、きちんと列を成していたという。

 警察が用意した死体袋には、次々と犠牲者たちのが詰め込まれていった。遺体の回収に当たった者の中には、手の傷から連鎖球菌に感染してガス壊疽に罹患した者、あまりの凄惨な光景に精神を病んで休職を申し出た者などが続出した。

 実際に、前述した現場の第一発見者でもある小関叙夫は、捜査に関わっていく内に精神を病み、後に警察を辞職している。

 やっとのことで全ての遺体が回収された後、城上芸子の和室の床下には一握の泥も見当たらなくなっていた。ほとんどが、遺体と一緒に回収されていったからである。

 幾人かの捜査員の犠牲を払い、苦労して回収された遺体群は身に着けていた衣服や歯型から次々と身元が特定されていった。遺体の身元が判明する度に、捜査員たちは戦慄していった。

 自身が住まう凡庸なこの街に、おぞましい悪魔が潜んでいたことに。

 

 

 城上芸子はその後も取り調べに対し、見苦しい抵抗を続けた。自身の車から発見された凶器や血痕、独り暮らしの女には必要のない子供用の衣服や玩具、夥しい血痕が検出された床や包丁など、多くの状況証拠を突き付けても、城上芸子は自身の罪を認めようとしなかった。

 それどころか、取り調べに当たった捜査員に対して暴言、妄言を吐き、攻撃性を露わにし始めたのである。

 一向に進展しない取り調べに業を煮やした警察は、城上芸子をこの施設に引き渡し、自供を引き出そうと試みた。

 ところが、城上芸子はこの施設をもってしても、その凶暴な精神性が治ることはなく、自供を引き出すのには実に20年の月日を有した。

 その間にも、余罪を仄めかすような証言をしたり、裁判を起こした被害者遺族らに対して挑発的な発言をするなど、その醜悪さは留まるところを知らず、一向に城上芸子の精神は快復の兆候を見せなかった。

 この残虐極まりない醜悪の権化のようなサイコパスが、今も施設で生き永らえているのは、余罪の追及や度重なる精神鑑定による裁判の停滞などによる。20年もの間、監獄の中で見苦しく生への執着に憑りつかれているその姿は、正に悪魔そのものである。

 メディアが囃し立てた彼女の異名は、”誘拐殺人道化女”、”子殺しピエロ”、”保後の笛吹き女”など多く存在するが、筆者はそうは思えない。

 このサイコパスは、道化などという生易しい言葉で表現されていいものではない。悪意の化身、悪魔という言葉でなじられるべきである。

 前述したように事件後、城上芸子はその強烈な犯罪歴やホスピタル・クラウンという肩書から、まるでサイコパスを象徴するアイコンのように扱われることとなった。その証拠に、多種多様な媒体で城上芸子自身や起こした事件はモチーフにされ、日本を代表する異常犯罪者として語り継がれている。

 驚くことに、城上芸子自身もその扱いにまんざらでもなさそうな表情を浮かべているのである。

「私を題材にした映画やら小説やら、モデルにしたキャラクターやらが存在してるのは知ってるよ。映画なんて、監督自らここに会いに来て許可をもらいに来たんだよ。あなたの映画を撮らせてくれってね。私、人気者でしょう?」

「いいねえ、今や私も立派な婆さ。それでも、外の世界には私の存在を語り継ぐ者が大勢いるんだよ。これってほら、カリスマって言うんでしょう?」

 城上芸子はそう言い放ちながら、満面の笑みを見せた。その顔は、まるで自身が役者として大成したとでも言いたげであるかの様な、満足感に溢れていた。

 筆者はあまりの醜悪さに怒りが込み上げ、取材の終盤にこう言い放った。

「今回の取材では、目新しさが見当たらず、実につまらない内容になりそうなので、掲載は控えようかと考えています。あなたのようなつまらない人間の事を記事にしても、読者の関心は得られないでしょうから」

 後先を考えず、咄嗟に出た言葉だった。だが、城上芸子はそれを聞くなり、高笑いを始めた。

「アッハハハハハ!面白いことを言う記者さんだねえ!今更あんたみたいな三流ライターに記事を書かれなくたって、私はもう十分に人気者なんだよ!」

 その耳を塞ぎたくなるような高笑いは、取材終了のブザーが鳴るまで部屋中に響いていた。

 今回、こうしてその言葉に反し、城上芸子の事を記事にしたのは、世間に彼女、そして彼女自身の醜悪さを伝聞する為である。

 いかに世間が錯覚していることか。城上芸子は、ただの異常者に過ぎないのだ。いかに道化としての佇まいがそのイメージを強烈なものにしようと、いかに映画や小説の題材として取り上げられようと、いかにその存在がアイコン化しようと、所詮はただの犯罪者に過ぎないのだ。

 それは断じて、ましてや日本を代表するものになど、祭り上げられてはならない。城上芸子は世界に恥ずべき日本の汚点なのだから。

 

 

 

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