【臓】

 好評と不評が半分ずつ、というのがこのコラムの総評らしいのだが、そのどちらの声も数が多いということは、それだけ注目されているという事なのだろうか。

 無論、筆者も不謹慎な記事で注目を集めるという手段は、あまり好感を得られないものだと理解しているが、それでもこのコラムの連載は継続させてもらいたい。その理由を説明させていただこう。

 前回、筆者の精神がサイコパスとの対話に耐えられるかという疑問を書き記したが、今回の記事を推敲している際にも、やはり周囲の者から、普段と様子が違うという指摘を幾度か受けた。

 自覚はしているが、やはり非日常の狂気を目の前にするのは危険なのだろう。深く調べなければ記事にできない為、毎回サイコパス心理の内側に深入りしていくことになるのだが、やはりその前と後とでは見える世界が違うのである。一体どちらが自分の視点なのか混乱してしまうこともある。

 だが、その狂気を記事にすることによって、自身の視点があくまで他者のものだと自覚、もとい再認識することが出来るのだ。

 もちろん連載することが生命線などと考えてはいないが、どうかこのコラムという名目の、筆者のにお付き合い頂きたい。



 4人目に取材したのは、あまり世間に馴染みがないであろうこの男である。

 有馬富士夫ありまふじお。齢78。施設の中でも最高齢の患者である。

 何故、この男の名が世間に知れ渡っていないか。それは後述しようと思う。

 例の面会設備のアクリル板越しに対面した際の有馬富士夫の第一印象は、極めて穏やかなものだった。

 拘束衣は着せられておらず、暴れだす様子もなく、背筋をピンと伸ばして椅子に静かに座る、微笑みを湛えた老人。身に着けていたのは入院着だったが、その雰囲気はまるで老紳士のようだった。

 軽い自己紹介を済ませると、有馬富士夫はにこやかに笑いかけてきた。

「やあ、人と話すのは久しぶりの事でして。あまり口が回らないかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 穏やかに、だが、はっきりとした口調だった。長い間、人と会話していないとは思えないほど、それはウィットに富んだ受け答えだった。

 筆者は思わず身構えた。対面取材の前に、施設の人間から受けていた注意を思い出したからである。

 ”話の主導権を握られるな。ペースに乗せられて、ペラペラと喋っていると、あっという間に呑みこまれるぞ”。

 その後、気を引き締めて取材の本題に乗り出したが、これが恐ろしいほどに何事もなく進んでいった。質問を投げかけると、やはりウィットに富んだ受け答えで穏やかに返される。状況やその時の心情など包み隠さず、全てを白日の下に曝け出すかのように告げてくるのである。

 繰り出される言葉は異常なものばかりだったが、まるで老紳士が陽だまりの下で子供に御伽話でも読み聞かせているような雰囲気に、こちら側も一体自分は今何をしているのか(それともされているのか)、混乱してしまった。

 それでも警戒は一切解かなかった為、今まで行ってきた取材の中でも、今回は一際穏やかに進み、そして一際精神が削られたものとなった。

 今、形にしているこのコラムが、筆者の正常な精神の下、有馬富士夫という人間の正体を暴くものになっていることを願うばかりである。



 有馬富士夫は戦後の荒廃した時代に生を受けた。父親は戦時中に亡くしており、母親は女手一つで我が子を激動の時代の中、育てることとなった。

 当時、日本政府は荒廃しきった国土を復興させようと、土木建築業に力を入れていた。都市ガスの導入や鉄筋を使用した建設物の竣工など、各地で建設業は隆盛を見せていた。

 それと共に、隆盛を見せたのは日雇い労働者の増加と、それによって活発化した闇市の資源取引であった。

 ひとくちに資源取引といっても、そのほとんどは食料品の市場と化していた。どこからか仕入れられた産地不明の米や、米軍の払い下げの残飯、なぜかまとまった数で揃えられていない野菜類など、きな臭い品物がずらりと並ぶ露店群。それらは多くの日雇い労働者の生活の糧となっていた。

 有馬富士夫の母、有馬恵理子ありまえりこはそんな闇市の片隅で、まだ幼い息子と身を寄せ合って生き延びていた。日に日に大きくなる一人息子を養うため、有馬恵理子は近隣の港町で安く魚を仕入れたり、時には自ら漁を行って貝類や海藻類を採集し、それを闇市で売って生計を立てていた。

「わたしも幼いながらに漁を手伝ったりしましたよ。あの頃は大変でしたが、今となっては数少ない母との思い出です。そのおかげで、魚料理はあまり口に合わなくなってしまいましたが」

 そんな荒廃した戦後の時代を慎ましく暮らしていた親子に、悲劇が降りかかる。

 生活の生命線でもあった漁港一帯が国によって買収され、工場地帯として開発されることとなったのである。当然近隣住民や漁港で働く者達は反対したが、国から多額の立ち退き料を握らされ、半ば強制的に漁港は潰されてしまった。

 食い扶持を失った有馬恵理子は、めげずに自身も日雇い労働者となり、縫製工場へ勤めたが、以前にも増して暮らしは厳しいものとなった。有馬富士夫はまだ働けるような年齢ではなかった為、母親が働きに出ている間は闇市を彷徨いながら過ごしていた。

「当時は誰もが心の余裕を失くしていた時代でした。わたしは闇市の片隅で物乞いをしていたのですが、誰も気にも留めません。払い下げの残飯雑炊の余りをねだることでしか、空腹は満たせませんでした。もっとも、あんな生ゴミではそもそも空腹は満たせませんでしたが」

 そんなひもじい思いを続けていたある日の事、転機は訪れた。

 闇市に、とある男が出入りするようになったのである。その男は朝早くから闇市を訪れては、店頭に当時は物珍しい肉を並べて売っていた。

 その肉は妙に赤みが強く、お世辞にもいい香りとは言えない異臭を放っていたが、腐っても肉は肉なのか、男はいつも客を寄せ付けて品物を売り捌いていた。

 その肉を食べた者達は、臭くて硬いばかりで味は悪いが食えないこともないと吹聴し、やがて男は”肉売りの男”として闇市に受け入れられていった。

 いつも一抱えほどの肉を調達してくる”肉売りの男”を不審に思い、ひとりの客が、その肉は毎度どこで調達してくるのかと質問を投げかけたが、男はニヤニヤと笑いながら、これは野山に住み着いている赤犬の肉だと言うだけだった。

 犬食文化は中国や朝鮮をはじめ、主に東南アジアで栄えたものである。日本にもその文化は古くから存在していたが、近代にもなると人々は犬食を忌避するようになった為に廃れていった。

 だが、戦後の食糧難の時代に犬食をした事例は数多く残っており、それ自体は珍しいことではなかった。闇市の人々も例に漏れず、それを承知で犬の肉を買っていった。

 その光景を指をくわえて見ていたある日、”肉売りの男”が、まだ10歳にも満たない有馬富士夫に話しかけてきた。

「なあ、坊ちゃん。腹が減ってるか。分け前をやるから、ちょいと俺の仕事を手伝ってくれんか」

 この一言が、有馬富士夫を狂気の世界に引き入れた。



 ”肉売りの男”は闇市から遠く離れた場所に有馬富士夫を誘った。そこは深い野山と、空襲によって復興の目処が立たないかつての市街地の境目のような荒れ果てた土地だった。あちこちにバラック小屋が建てられ、そこかしこにゴザを敷いて物乞いをしている者達がいて、虚ろな目でこちらを見ていた。

「こっちに来てくれ」

 男に言われるがままついていくと、やがて異臭を放つ、他よりも一回り程大きなバラック小屋に辿り着いた。

 入り口には腕が片方欠損した男が立っており、目くばせで合図して二人を中へと引き入れた。中へ入った途端に、外とは比べ物にならないほどの異臭が鼻を刺した。

 中は一間の広い座敷になっており、十人ほどの人間がウンウンとうめき声を上げながら、染みだらけの畳の上で雑魚寝していた。全員が身体の所々に包帯を巻いており、赤黒くなった血がその表面に滲んでいた。どうやら簡易的な病院のようだったが、医師らしき人間は見当たらず、右目に眼帯を着けた男が面倒くさそうに横たわる者達を世話しており、その様相はまるで野戦病院であった。

 やがて”肉売りの男”が”眼帯の男”に話しかけた。

「内容は細かくは覚えていませんが、恐らくあれは取引だったのでしょう。誰がいいとか、あれはもう少し長持ちするとか、そんなことを話していましたから」

 その後、”眼帯の男”は目くばせで座敷に横たわる一人の男を指した。その男の身体は腕から肩にかけて包帯で巻かれており、そのあちこちに血が滲んでいた。息はしているようだったが、声を発することもままならないのか、呼びかけてもうめき声を漏らすだけだった。

 ”眼帯の男”はその男に被せていた布を取って放ると、有馬富士夫に呼びかけた。

「それを持ってついてこい」

 それだけ言うと、二人は寝ていた男を抱えて引きずるように表から出ていった。言われるがままに後をついていくと、二人は男は引きずったまま、今度は川辺の近くに建てられたバラック小屋に入っていった。

 中に入ると、先程とはまた違う種類の異臭が鼻を刺した。トタンと木切れで粗末に建てられた小屋の壁は、赤黒いペンキを塗りたくったように汚れていた。端には二畳だけ畳が敷かれており、やはりそれにも赤茶けたシミが広がっていた。

「何をするのかと思っていたら、突然”眼帯の男”が引きずってきた男の頭に金づちを振り下ろしました。引きずられていた男はガクガクと痙攣して泡を吹いていました。すると今度は”肉売りの男”が落ちていた石を掴み、男のこめかみにぶつけたのです。その一撃が効いたのか、男はやがて痙攣するのをやめて静かになりました」

「わたしが突然の出来事に唖然としていると、”眼帯の男”が突然抱えていた布を奪い取って汚い畳の上に広げました。そして今度はわたしを裸に引ん剝き、その上に押さえつけ、馬乗りになって殴りつけてきたのです。痛みに耐えかねて泣き出すと、”眼帯の男”は満足そうな表情を浮かべてわたしの肛門を犯しはじめました。先ほどとは違う種類の痛みにわたしが声も出せないでいると、それを見ながら”肉売りの男”は笑って何か作業をしていました。激痛に耐えながら押さえつけられていた頭をよじってその方を見ると、”肉売りの男”は鉈で何度も男の死体を切りつけて、バラバラに解体していました」

「一体自分の身に何が起こっているのかは理解できませんでした。しかし、あの時、わたしはこの世に生を受けてから、史上二度目の誕生を経験したのです。自我が芽生えた、と言ってもいいのかもしれません」

 その後、”肉売りの男”は解体した男のを缶詰の空き缶に詰めて寄越した。記憶が定かではないが、そのまま何を言うでもなく、それを抱えて母親の元へと帰ったという。

「酷いことをされたというのに、なぜかわたしは冷静で、母親には物乞いをしてもらったと嘘をつきました。これ以上母親に気苦労をさせたくなかった、という感情もあったのかもしれませんが、はっきりとは覚えていません」

「その日は親子でもらった肉を食べました。その時食べた肉の美味しさといったら。それまでは払い下げ残飯雑炊に入っていた生ゴミのような肉しか食べたことがありませんでしたから」

「そのあまりの美味しさに、わたしは身悶えしました」



 有馬富士夫はその後も定期的に来訪する”肉売りの男”に着いて行き、”眼帯の男”にしては人肉を受け取ったという。それは、有馬富士夫の歪んだ少年期を構成する全てとなった。

「その内、二人はわたしにも内情を教えてくれました。二人は戦時中、敵地の野戦病院で知り合い、意気投合したとのことでした。二人が赴いていたのは南方戦線で、赤痢や怪我、飢えからバタバタと仲間が死んでいき、それから逃れるために現地で人肉食に手を出したと言っていました」

「戦争が終わり、抜け殻のようになってしまった二人は、生の実感を得るためにバラック小屋で簡易診療所を開き、そこにやって来る身体を欠損した帰還兵や、身内から見捨てられてしまった大病人を引き取っては餌食としていたそうです」

「俺たちは救ってやっているんだ。戦争は終わっていない。まだ続いている。だから、俺たちは戦争からこいつらを解放してやっているんだ。それが”眼帯の男”の口癖でした」

 驚くべきことに、有馬富士夫はこの歪み切った二人の男に父性を感じて寄り添っていたのだという。

「二人ともわたしにとっては父親そのものでした。傍から見れば、全く違う印象なのでしょうが、わたしは今でも二人に感謝しています」

「あの二人なくして、今のわたしはなかったでしょうから」

 この歪んだ関係は、有馬富士夫が青年になるまで続いた。勤め人になれるほど身体が大きくなってからは、母親には、遠くに働き口があると称して二人の元へと通っていた。

 この頃より、有馬富士夫は近隣の男娼売春宿にも姿を見せていた。”眼帯の男”のつてで仲介をしてもらい、海沿いの売春長屋と呼ばれた場所で客をとっては報酬を受け取っていた。

 有馬富士夫を買う客は様々であり、時には外国人の相手もした。その歳若さ故か、常連もついたという。

「あまり褒められたものではないでしょうが、わたしの青春はあの売春長屋で過ごしたひと時でした。仕事柄、羽振りもよくて、充実した時を過ごしました」

 しかし、いくら飢えがしのげるほど懐が潤っていても、週に二度は必ず二人の元へと出向き、人肉を食していたという。

「興味本位で牛や鶏の肉を食べたこともありましたが、やはりわたしにとって肉とは、人肉のことでした」

 ここで、遅ればせながら本題に入る。実は、二人の男が有馬富士夫に提供していたのは、正確には肉ではなく内臓の一部だった。

 分け前とは、本来ならば食えたものではなく捨てるような部位の事を指していたのであろう。脂肪や筋肉などの”身”は二人の男によって消費されていたが、食えたものではない”臓”は全て有馬富士夫の方へと流れていった。

 有馬富士夫はこの”臓”しか食しておらず、そもそも牛や鶏の”身”を肉として認識できなかったのかもしれない。

 人間の内臓は心臓をはじめ、胃、肺、脾臓、膵臓、腎臓、肝臓、小腸、大腸などで構成されている。牛や豚などもありとあらゆる内臓を食されていることはご存じであろうが、果たして霊長類であるヒトの内臓は可食できるほど美味なのだろうか?

 知る術はないが、有馬富士夫は少年期から幾度となく人間の内臓を食していた。その調理方法はいたってシンプルであり、ただ火が通るまでじっくりと焼く。それだけだが、その味は言い表せないほど美味だという。

 有馬富士夫は嬉々として内臓を受け取っては食し、時には母親にも恩返しとばかりにそれを分け与え、再び二人の元へ出向いては狂気の快楽に身を委ねながら、戦後の荒廃した時代を、歪みながらもたくましく生き抜いていた。

「今となっては懐かしい思い出です」

 そう言いながら目を細める有馬富士夫の顔は、充実した過去の日々を懐かしむ老人そのものだった。

 ところが、ある日突然、その歪んだ日常は崩れ去ることとなる。



 きっかけは、二人の凶行がとうとう摘発されたことだった。

 ある日、有馬富士夫がいつものように二人の元へと向かうと、息も絶え絶えの二人が簡易診療所の隅に血だるまで転がっていた。

 慌てて二人を介抱したが、時すでに遅く、”肉売りの男”はとっくにこと切れており、”眼帯の男”も一目で致死量と分かる血を垂れ流していた。

 何があったか”眼帯の男”に聞くと、引き取っていた患者に、解体現場を目撃されてしまったのだという。二人の弁明も虚しく、暴徒と化した患者たちと、その凶行を知った近隣住民によって、二人は血祭りにあげられてしまった。

 有馬富士夫は父親代わりとして慕っていた二人を同時に亡くし、悲観に暮れた。程なくして、悲しみに暮れる有馬富士夫を追い詰めるように、有馬恵理子が亡くなった。戦後、感染症として猛威を振るっていた結核によってであった。

 立て続けにを亡くし、天涯孤独となった有馬富士夫はしばらく男娼として生計を立てたが、”眼帯の男”の後ろ盾を失くしたのは大きく、やがて売春長屋を追い出されてしまった。

 着の身着のままで通りをふらつき、当時の言葉でいうルンペンとなった有馬富士夫は街の通りで街娼を始めたが、その暮らしは以前よりも、より一層過酷を極めた。その日の食事代もろくに稼げない時もあり、有馬富士夫を久しく襲わなかった飢えという名の恐怖が、眼前まで迫っていた。

「とにかく毎日が必死でした。どうにもならない時もあり、残飯を漁ったこともあります。昔、闇市で食べた払い下げ残飯雑炊の味が蘇ってきて、酷く惨めな気分になりました」

「わたしは幼い頃の経験から、今でも飢えをなによりの恐怖と捉えています。飢えることは、わたしにとって死そのものなのですよ」

 そして、有馬富士夫にとっての第一の殺人が起こる。

 きっかけは、いつものように街娼商売に精を出している時であった。薄暗い通りの吹き溜まりのような路地の地べたに、うずくまっている若い男がいたのである。

「どうやら同業者の様でした。街娼をしている内に感染症にでもかかったようで、ぐったりとしていました」

「わたしが大丈夫かと話しかけると、男は顔を上げて助けてくれと言ったんです。おそらく、歳は同じくらいだったでしょう」

「わたしは思いを巡らせました。この男も、恐らくわたしと同じように生きてきたのでしょう。戦争に振り回され、孤独になり、我が身を糧に日銭を稼いで、明日の安定も得られぬままに寝る。わたしは、その男に自分の未来を重ねました。明日は我が身。そんな言葉が頭の中に渦巻いていたのです」

 気が付くと、有馬富士夫は夜の浜辺でその男のはらわたを掻き出していた。その中から肝臓と小腸を取り出し、海水で洗って抱えて持つほどのガラス瓶に入れた。残りはそのまま浜辺に放置し、男が身に着けていたシャツでガラス瓶をくるむと、街娼やルンペンがたむろするドヤ街でそれを焼いて食した。

「見つかれば奪い合いです。ルンペン連中のたき火から燃えさしをとって、裏手でこっそりと少しづつ焼いて食べました」

「久方ぶりの肉に、わたしは涙を流しました。男の肝臓の切れ端を呑み込んだ瞬間、わたしはかつての二人が言っていた言葉を思い出しました」

「俺たちは解放してやっているんだ。その言葉の意味が、分かったのです。飢えは人を殺す。だからこそ、苦しむ者を糧にして自身の飢えを祓う」

「わたしは、初めて自身の手で他者を苦痛から解放し、それを糧とすることが出来たのです」



 有馬富士夫が歪んだ狂気の花を開かせると同時に、日本はメートル法やグラム換算を導入し、少しづつ文化の再建を図っていた。やがて、東京オリンピックの開催に伴ってインフラ整備や建設需要が高まり、日本は好景気の波に乗っていった。

 その影で、有馬富士夫は着実に狂気を磨き、様々な人間をその毒牙にかけていった。

 好景気の波に潜み、街娼から日雇い労働者に鞍替えした有馬富士夫は各地を転々としながら、飢えや貧困に苦しむ者を探した。その毒牙にかけたほとんどの者はルンペンだったが、時には違う境遇の者を襲うこともあった。

「日雇いで配達業をしていた頃の事です。ある日、わたしが配達を頼まれた客先に、酷く痩せていてみすぼらしい格好をした子供がいたのです」

「どうやら親はかつてのわたしと同じように街娼を営んでいる様でした。望まれぬ子供だったのか、あまり可愛がられていないようで、虚ろな目でこちらを見ていました。ひもじい思いをしていたのか、指をくわえてしゃがんでいるその子をわたしは可愛そうに思い、その日の昼食を分け与えました。すると、客先がわたしを怒鳴りつけたのです。余計なことをしてくれるなと」

「その日の夜に、わたしはその子を。胃の腑にその子の膵臓が満ちた時、わたしはまるで仏のように穏やかな表情になりました」

「悟りを開く、とはあのことだったのかもしれませんね」

 このおぞましい救済が、一体どれだけの数行われたのかは不明である。当事者の有馬富士夫も殺害人数を記憶しておらず、覚えている限りでも50人はくだらないという。

 不幸にも、有馬富士夫は飢えた者、身寄りのなく、死のうと誰も気に留めない者ばかりを狙って凶行に及んでいた上に、各地を転々と移動していた為、この殺人行脚は止まることを知らなかった。身元不明の内臓が抜かれた死体が日本のあちこちで見つかろうと、それら全てが一人の男の狂気の下に遂行されていたとは、誰にも予測できなかったのであろう。

 やがて、有馬富士夫は殺人行脚の果てに、とある場所に腰を据えた。日雇い労働として短期間勤めていた運送業者から、田舎町の町役場の用務員の仕事を紹介されたのである。役所勤めとはいっても、用務員の仕事は主に雑用や庶務ばかりであり、清掃や書類の配達が主な業務内容であった。

 しかし、有馬富士夫はその物腰の柔らかさや人当たりの良さから、少しずつ周囲に受け入れられていった。役場の人間はもちろん、近隣住民とも笑顔で挨拶を交わし、草むしりや道の清掃なども嫌な顔一つせず快く引き受けた。

「わたしは何も、飢えている者を救うことが自分の使命などとは考えていませんでした。偶然飢えている者を見かけたら、出来る限りのことはしてやりたい。しかし、内臓食べたさに血眼になって飢えている者を探す、なんてことはしませんでした」

「まだその頃は」

 有馬富士夫はこの時、青年期を終えて壮年期に差し掛かっていた。激動の高度経済成長期を終えた日本がバブルの活気に湧く準備を進める中、日雇い労働者から第二の労働人生を踏み出した有馬富士夫は、やがて環境の変化に馴染んでいき、その凶行の毒牙は気配すら消え失せることとなった。

 ところが、ある出会いがその毒牙を再び剥き出すきっかけとなってしまう。

 ある日の事、役場の人間に頼まれ、とある家庭を共に訪問することとなった。なぜ用務員である自分が全く違う業務に出向かなければならないのか疑問だったが、役場の人間は立ち会ってくれるだけでいいと言う。

 いつものように快く引き受けて着いて行くと、市営団地の一室に辿り着いた。役場の人間がチャイムを鳴らすと、粗暴な印象の男がドアから現れた。

「その男はどうやら近隣住民とトラブルを起こしていたようでして、わたしは役場の人間の付き添いとして呼ばれていたようでした。担当者も、粗暴な男を相手にするのには心細かったのでしょう。結果的には、気圧されて話し合いにはなっていないようでしたが」

 二人そろって男の罵声を浴びていると、有馬富士夫は部屋の奥に一人の子供を見つけた。場を和ませようと、子供の話題へと話を変えると、男は激昂し、他人の家庭に口を出すなと怒鳴りつけ、勢いよくドアを閉めてしまった。

「帰りに担当者に話を聴くと、そこは父子家庭で家庭内暴力の疑いがあると言っていました。なんとかしようと手を尽くしていたようですが、決定的な証拠もなく、児相での保護は難しいと話していました」

 心を痛めた有馬富士夫は、後日こっそりとその一室を訪ねた。幸運にも父親が不在の時間帯であり、部屋の中にいたまだ年端もいかない少年に話を聴くと、暴力こそ振るわれてはいないものの、食事を満足に摂らせてもらえない、衣服を買い与えられていない等の虐待が行われていることを知った。

「わたしは衝撃を受けました。豊かになり、飢えることのない飽食の時代にも、まだかつてのわたしのような経験をしている者がいることに」

「なんて残酷なことだろうと。あの悲惨な時代は終わったのではなく、影で細々と続いていたのです」

 絶望した有馬富士夫は、穏やかな微笑みを貼り付けてその少年を外へと連れ出した。

「お父さんが帰ってくるまで、少しお散歩しないかい?そう言うと、その子はおずおずとついて来ました。わたしは団地の裏手でその子の首を捻ると、一度自宅まで運んで肝臓と小腸、腎臓と膵臓を取り出しました。そして、フライパンで焼いたそれらを噛み締めながら、わたしは決意したのです」

「まだ、救わねばならない者が、大勢いる。私が彼らを救ってやらねばならないのだと」

 


 有馬富士夫は再び凶行に走った。役場から支給されていたバンで近辺を徘徊し、”飢えに苦しむ者”を探した。行動範囲は広く、時には県外まで繰り出したこともあった。獲物を探す場所は公園やパチンコ店の駐車場、深夜のゲームセンターやデパートのゲームコーナー等、多岐に渡った。

「飢えている者は見ただけですぐに分かります。痩せている、長袖を着ている、不潔である、せわしなく落ち着きがない、似つかわしくない時間帯の場所にいる」

「そしてなによりも、眼に輝きが無いことです。かつてのわたしがそうだったように。同じ者同士、惹かれあうものがあったのかもしれません」

 手口は単純だった。適当に言いくるめると人気のない場所やバンに誘い、首を捻って息の根を止めると、自宅へ運んで浴室にて内臓を抜き、好みのものを保存した。

「わたしは腹を開いて引きずり出した内臓を見ると、どの部位を救うべきか必ず推し量ります。気分ではなく、救うべき部位というものがあるのですよ」

「これは、熟練した者にしか分からないでしょう。基準は彼らが発した言葉や表情、顔つき、しぐさ。それらから判断し、どの内臓を食べるのか決めるのです」

「なぜ、内臓に固執していたのですか?」

「医食同源という言葉をご存じですか?元は中国の思想なのですが、食事療法といった方がいいのかもしれませんね。バランスの取れた美味な食事を続けることで心身ともに健康になり、病を予防する、という意味の言葉です」

「わたしは二人からよく言われました。内臓を食せば、自身の内臓が強くなると。わたしは飢えた者達の”身”ではなく”臓”を食べることによって、それらを糧に強くなることが出来るのです」

 内臓は一時的に冷蔵庫へと保存され、時間をかけて食されていった。それ以外の部分、もとい死体は細切れにされ、いくつかの衣装ケースに収められた。それらは、なんと勤務先の町役場の裏手にある焼却炉にて燃やされ、処理された。

「まずは古紙や枯葉に火をつけ、その後にたくさん薪をくべて勢いをつけます。中が炉のように燃え上がったら、少しずつ身体を放り込んでいくのです。一気に燃やしてはなりません。少しずつ、灰にしていくのです」

 バラバラ死体は数日かけて灰にされ、その後近隣の公園の花壇や植え込みに肥料と称してばら撒かれた。その行動を怪しむ者は一人もおらず、人のいい用務員が雑務をこなしている、程度にしか思われていなかったというのだから、恐ろしい話である。

 一度、妙な匂いに気付いた役場の者が焼却炉で作業をしている有馬富士夫に話しかけたが、道路で轢かれていた野良犬の死骸を燃やしているのだと淡々と説明したという。役場の者は疑うこともなく、それを信じた。

 再び始まったこの殺人という名の救済は、2年に1人ほどのペースで犠牲者を出しながら続いた。警察は有馬富士夫の足取りを掴めないどころか、それぞれの被害者らを行方不明者としてしか扱わず、関連性すら見いだせていなかった。



 だが、人のいい役場の用務員という皮をかぶった食人鬼は、晩年とうとう

尻尾を見せる。

 いつものように目を付けた徘徊児童を物影に誘い込み、首を捻ろうとしたところを獲り逃してしまったのである。当時、有馬富士夫は齢57になろうとしていた。以下に幼子の不意を突こうと、老いには勝てなかったのだろうか。

 初めての不覚に、有馬富士夫は歯噛みした。そして驚くことに、もう一度その徘徊児童を執念深くつけ狙ったのである。

「わたしは一度救うと決めたら、何が何でも救ってやりたかったのです。あの子が虐げられ、飢えているのを想像しただけで、身が張り裂けそうでした」

 有馬富士夫が獲り逃したのは、9歳の鳥羽優とばすぐるという少年であった。ギャンブル狂いの父親と二人暮らしで生活しており、身体的虐待は受けていなかったが、毎日のように夕飯の時間になってもパチンコ店から帰ってこない父親にしびれを切らし、近くのゲームセンターを夜な夜な徘徊することが日課だった。

 逃げおおせた鳥羽優は父親を通じて警察に不審者情報を提供しており、報告を受けた巡査が定期的にゲームセンターを訪れる運びとなった。そうとは知らず、有馬富士夫は再び夜のゲームセンターを訪れては、鳥羽優の姿を探していた。傍から見れば迷子の孫を探す老人そのものだったであろう。

 そして最初の接触から14日目の夜、二度目の接触が行われた。有馬富士夫はゲームセンター内をうろつく巡査の気配を察知し、出入り口付近に身を潜めて狩りの瞬間を待っていた。鳥羽優は、その日もパチンコ店から帰らない父親を家で待つことに飽き、夜のゲームセンターへと来訪していた。

 そして、巡査がゲームセンター内で学生の補導に当たっていた際に、悲劇は起きた。鳥羽優が、入り口外の自動販売機へ落ちている小銭を探しに、ゲームセンターの外に出た瞬間を、有馬富士夫は見逃さなかった。

 一度失敗した際の反省を生かし、今回は素早く背後に忍び寄った。まだ齢が二桁にも満たない華奢な少年の首を捻ることは、いかに老いた老人であろうとも、難しいことではなかった。

 しかし、手早く近くに停めていたバンへと鳥羽優の遺体を放り込み、その場を走り去ろうとした瞬間、背後から声をかけた者がいた。

 どうかされましたか。

 そう言い放ったのは、つい先程まで学生の補導に当たっていた巡査だった。

 いえいえ、孫を迎えに来たところです。そう有馬富士夫は誤魔化したが、やけに早急な老人の足取りに不信感を覚えた巡査は、バンの中を確認してもいいかと食い下がった。

 ええ、どうぞ。有馬富士夫は堂々と後部座席のドアを開いた。そこに横たわっていたのは、もうすでに息をしていない鳥羽優だった。

 疲れたのか、すっかり寝入ってしまいまして。

 巡査曰く、この時の有馬富士夫は恐ろしいほど淡々としていたという。そして、巡査が念のために寝ている少年に話を聴こうと、バンへ足をかけた瞬間だった。スライド式のドアを、凄まじい勢いで有馬富士夫が閉めた。

 巡査はこの不意打ちに怯み、頭部を強打して倒れこんだ。有馬富士夫は巡査をも手にかけようとしたのである。

 しかし、いかに不意打ちを狙おうと、歳若く体格のいい巡査に老人の腕力では敵わず、有馬富士夫は多少の抵抗の後に組み伏せられてしまった。

 とうとう、狂気の食人鬼はその殺人の歴史に幕を下ろすこととなった。



 逮捕後の有馬富士夫の態度は相も変わらず穏やかなものであり、事情聴取に当たった警察を困惑させた。

 自分は様子のおかしい子供を病院へと送っていこうとしただけだ。有馬富士夫の言い分はこの一点のみだった。しかし、逮捕時の言動と食い違う言い分に、警察は不信感を抱き、家宅捜索へと乗り出した。

 そこで発見されたのは、血のべっとりついた、いくつかの衣装ケースと、解体に用いた赤錆びだらけの鉈、弓鋸、包丁、ハサミ等の常軌を逸した品ばかりだった。タイルに赤黒い筋状の染みがくすんでいた浴室の排水溝からは、被害者の髪の毛が発見され、動かぬ証拠を突き付けられた有馬富士夫は観念したのか、少しずつ自供を開始した。

 ところが、そのあまりの狂気にまみれた犯罪歴に、精神を病む者や気が触れかける者が続出し、有馬富士夫の身柄は警察から精神病院へと移されることとなった。ところが、その受け入れ先の精神病院でも、有馬富士夫の周囲では精神を病む者や理性を失う者が絶えず現れた。

 そしてとうとう、いくつもの精神病院をたらいまわしのように経由した後、有馬富士夫はこの施設に行きついたのである。

 冒頭、有馬富士夫はこの施設でも最高齢だと述べたが、こう述べ直した方がいいのかもしれない。

 有馬富士夫の存在によって、この施設は対サイコパス用ともいうべき特別な施設へと昇華された。

 有馬富士夫から自供を引き出すために、何人もの医師が精神治療を行い、他者との接触の際の規則を徹底し、特別な監獄、もとい病室を造りあげたのである。有馬富士夫はこの施設の発展に貢献した人物といっても過言ではないだろう。

 収容されてから17年。有馬富士夫は未だに精神治療を続けており、施設はいくつもの余罪を自供させることに成功している。だが、そのあまりの殺害人数の多さ故に、証拠発見等で立件できた被害者数は20人を超え、過去についての証言を信じるのならば、その合計人数は72人にも及ぶ。今後も余罪を吐き続けるのならば、この数はまだ増えることとなる。付け足すのならば、筆者のように有馬富士夫を取材しに来たライターは幾人か存在しているらしいが、その中には精神を病み、自ら命を絶った者もいるという。

 有馬富士夫はあまり世間に馴染みがないと前述したが、その理由はこの件に起因している。そもそも立証が難しい案件が多く、連続殺人鬼として認めていいものか確証がないというのも大きいが、有馬富士夫の存在が際立ってメディアに取り上げられていないのは、触れてはいけない者として扱われているからである。

 そのあまりの危険性ゆえに、メディアですら近寄らない者。それが有馬富士夫の特異性でもある。

「わたしは今でも後悔していませんよ。今でもこの病室から脱して、飢えに苦しむ者を救いたいと願ってやみません」

 老いてなお、有馬富士夫は自身に課せられた使命を果たそうとしていた。捻じ曲がった精神は、既に治療不可能な領域に達しているのではないだろうか。

「あなた、身構えていますね」

 取材の終盤、有馬富士夫は突然そう言い放った。

「おそらく、かつてここへ来た者達と同じ轍は踏むまい、と考えておられるのでしょう?」

 不意に心の内を見透かされ、返答に困っていると、有馬富士夫は相変わらず老紳士のような穏やかな微笑みを湛えて続けた。

「安心してください。彼らにはわたしの気まぐれによって一線を越えさせましたが、あなたにはそういったことはしませんよ」

「わたしはある時ふと考えたのです。世間にはわたしの功績を知る者は少ない。これだけ飢えた者を救ってきた私の功績を。それではあまりにも不名誉でしょう。だからこそ、あなたにはわたしの功績を世間に広めて頂きたいのです」

「よろしくお願いしますよ。そうでないと、あなたを気まぐれに生かした意味がない」

 寒気がした。まるで、お前の命などいつでも握りつぶせるとでもいうような口ぶりだった。そして何よりも、有馬富士夫から発せられたその言葉には、絶大な説得力があった。

 


 今こうしてこのコラムを形にしているが、筆者は決して有馬富士夫の口車に乗せられているわけではない。そう思いたい。

 功績、と有馬富士夫は言ったが、書き記したことは紛れもなく、許されざる異常者の犯罪歴であり、同情の余地など無い。ましてや、尊敬や畏怖など、微塵も感じられないものである。

 このコラムを読む読者がそう感じられなければ、筆者が精神を削って書いた文章の存在意義が消え失せてしまう。どうか、彼らサイコパスに共感など得ないで頂きたい。

 いかに大言壮語な言葉を吐こうが、それは異常者の戯言に過ぎないのだから。

 

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